邂逅
青々と広がる空の下、春菜は険しい山を数人の護衛と一緒に登っていた。
最初は久しぶりに城外へ出たことが好奇の種となって疲れを忘れさせてくれていたが、今となってはもうそんなことは起こらない。
所狭しと生えている身の丈の半分くらいはありそうな雑草を靴で踏み倒して道を作りながらひたすらに歩く。
護衛たちが身にまとっている鎧が、歩くたびに金属特有の音を醸し出すので多少耳障りなのだが、我儘でそんなことを行っても仕方ないことがわかっているので、指摘はしない。勿論願望はしているが。
周りの護衛は今回の登山が危険なことを知っている。だからこそ緊張を欠かさないのは偉いが、だからといって重い沈黙はつらい。
そんなことを思っていても自分から声を掛けるようなことはしないのだが。
「あっつ〜」
誰でもない自分に話しかけながら、春菜は服の袖で顔の汗を拭った。
太陽がこれでもかと照っているので、相当蒸しているのだ。体中から発汗し、しまいには顔から地面へとこぼれだす始末だ。
暑いだけならばまだいい。よくないけど百歩譲っていいとしよう。
「なんで虫は次から次に入ってくるんだろうな」
護衛の中心で誰にも聞こえないように一人ボソッと呟く。
しかし! あちらこちらに飛び交う羽虫が、汗を求めるように体に張り付いてくるのは相当我慢ならない。
体から湯気が出そうなくらい服と体の間は蒸しており、少しでも冷やすようにと服を引っ張った途端出てきた熱気に不意を突かれた。
「そもそも何でこんなことになったんだ?」
自問してみるが、やはり正当な理由は見つからない。
あるといえばあるかもしれないのだが、脹脛はパンパンになり、足の裏は数時間休憩無しで歩いたためか肉刺ができ、それでも尚足を動かし続けなければならない理由には成りえない。
なぜなら春菜が向かっている理由は、あまりにも信憑性がないことだから。
「これで空振りだったら何をしてやろうか」
あの占い師がもし似非ならば、どういうお仕置きをしてやろうかと思うことが少なからず彼女の底力を引き出していたのである。
「くっくっくっくっく」
周りから何も知らないものが見れば狂っていると捉えられてもおかしくないぐらい凶悪な笑い。
それは占い師への仕打ちを考えて笑っているのか、それとも騙されたかもしれない己を嘲笑っているのか、自分でもわからなかった。
こんなことを自然と考えられている辺り、彼はもう少し余裕があるのかもしれない。
と、そこで春菜を囲んでいた護衛たちが急に歩を止めた。
春菜は考えながら歩いていたので、「にゃっ!?」となんだか情けない悲鳴を上げてこつんと鉄でできた鎧へ頭をぶつけてしまう。
何事かと春菜は護衛の顔を見上げると
「姫様、お下がりください――どうやら、敵のようです」
実に恐ろしいことを言われる。
その言葉に、ぞくりと背筋に冷たいものが触れたような感じがした。
まだ敵の存在すら視界に入っていないというのに、寒さで嫌な汗がとまらない。
肉体的疲労もあってか膝も微かに笑い出し、それに反して体は石になったように春菜の意志をきくことはない。
逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ
眠っていた危険本能が最大音量で春菜に逃走させようとするが、腰が抜けて走り去ることもできない。
正体がつかめない存在に対して悪寒を感じ、座り込みながらも少しずつだが、それでもしっかりと後ろへと腕の力だけで下がっていく。
瞬間、どこからともなく男がふっと現れる。
「貴様、何者だ?」
護衛の中でもっとも腕がたつ、セイクスが突如として現れた男へと悠然たる態度で問うた。
冷静に対処しようとしていたセイクスに、さすが貫禄!と春菜は心の中で褒めたのだが、それでも尚冷や汗は止まらない。
「………………」
男は俯いたまま何も答えない。
背中に何か背負っているのはかろうじて見えるが、それ以外は真っ白な白髪ですべて隠匿されて顔さえも見えない。
「我々の敵ならばかかってくるがいい。違うのであれば早々とこの場を立ち去れ!」
有無を言わせないようにセイクスは男を怒鳴りつける。
「それは俺の台詞だ。あんたらが何をするためにここに来たのかは大体目途が立っているとはいえ、ここは通すことはできないな。だからここから早急に立ち去れ」
男も男で飄々とした態度で答える。言葉に怒気が含められていた。
口先だけの勝負が状況を悪化させたことに繋がり、春菜ははらはらしながら見ていることしかできなかった。
「通せ」
「遠慮する」
「遠慮なんてしなくていいから、通せ」
「拒否する」
「どうしてもそこを退かないというのならば、実力行使も止むを得ないぞ」
「望むところだ」
男の完全に舐めきっている態度に、セイクスのこめかみがひくついた。
必死に感情を抑えようとしているのか、握りこぶしまで作っている。
男のほうは通さないという意志を告げるだけで、セイクスの言い分を全く聞こうとはせず、完全に話は平行線を辿る。
本来ならこういうときは私が話の主導権を握るはずだったのだが、いかんせん男の瞳に射竦められているので仲介すらできずにいた。
「本当にいいんだな。怪我をしても責任は自分で取れよ」
「ごちゃごちゃうるさい奴だな、早くかかってこいといってるだろう?」
男は頭に血が上ったセイクスを更に挑発し、臨戦態勢に入った。
セイクスをはじめとして護衛たちは武器を鞘から抜き放ち、男へと矛先を向ける。
男を完全に敵とみなし、一切の雑念を捨て、ただ目の前にいる敵を倒すために集中する。
まさに、一触即発の状態だった。
そして男は大胆不敵に笑いながら、見下したように片手で手招き。
それが戦いの火蓋を切り落とす結果となる。
「舐めくさりやがって!」
とうとう堪忍袋の緒が切れてしまったセイクスは、単身で飛び出した。
両手には己の武器である長槍が握られている。このまま突き出せば、男は何の抵抗もなく死ぬだろう。
「……あ…………」
そのときだった。春菜の中で事態が現実味を帯びてきたのは。
先ほどから得体の知れない恐怖が精神を揺れ動かしていたかもしれないが、それでもこの事態の異様さにもっと早く気づくべきだった。
少し考えればわかることだ。このまま行けば確実に男が死んでしまうのは。
歴戦の傭兵であるセイクスが何故短気な行動をとったのかはわからないが、彼の長槍の腕ならば一般人である男程度きっと一突きで勝負が決まるだろう。
しかし彼はそれがわかっていながらも男に特攻している。
「……やばい…………」
ポツリと、心情を口に出す。
「セイクス!」
春菜はセイクスを止めるために、必死に名前を呼んだ。
セイクスは惑っていた。
それは男から発せられる殺気が、男自身の力量を物語っていたからである。
くそ、と内心で吐き捨てながらも男へと突っ込む。
元より後には引けない戦いだ。彼は化け物を守護する魔人で、俺はその魔人を排除するために雇われた傭兵。
今回のことで築き上げてきた信頼を、逃げたり負けたりすることで失うわけには行かないのだ。
「畜生!」
目の前にいる男に毒づいた。
何故こんな圧倒的な存在に挑まなければならないのか。
ただ何の感慨もなく任務を受けた昨日の自分を、セイクスは呪った。
「俺のの殺気に恐怖しても突っ込んでくる……か。それは無謀? それとも蛮勇? ま、俺としては殺しはあんまり好きじゃないからそこのところは安心してもいいけどさ」
男は未だ何の動きも見せずに微笑を浮かべている。その手には己の得物すら握られてはいない。
「舐めるな!」
男のあからさまな挑発に乗せられて激昂し、セイクスは間合いに入った瞬間長槍を突き出す。
しかし男はその乾坤一擲の突きを、手甲で穂先を僅かにずらしただけであっさりとかわしてしまう。
セイクスは避けられたことを一つ舌打ちした後、前への勢いを左足で強引に右への勢いへと変換して飛んだ。
長槍から離した右手で自分の体重を支えきり、慣性の勢いに乗ってもう一度飛ぶ。
今度は両足で着地して、長槍をすぐに構えて反撃に備える。が、男は突っ立ったままだった。
「ほぃいいな。中々戦い慣れてて驕りも怠慢も感じられない。ま、俺相手だからかもしれないけどな」
男はくすっと笑い、ただ攻撃がくるのを待っている。
相変わらず緊張は弛緩し、全身の力を抜いている。傍から見れば隙だらけの構えだ。
一呼吸の間をおいて、再びセイクスは仕掛けた。
「はぁぁぁぁっ!」
そこから繰り出すのは敵を穿ち砕く無数の突きの雨。
男が右に避ければそこに新たなる突きを放ち、手甲で切っ先を左右にずらそうとするならば穂先の動きを上下へ変え、足や頭を狙う。
先読みを駆使し、避ける先々に一撃を放つ。
しかし、穂先は虚空以外を裂くことは無い。
上下左右からことごとく迫りくる突きを男は舞を踊るようにしてかわしていく。
もう少しで当たるという事はあっても、実際に男の体に長槍は触れることを許されず全て紙一重でかわされていく。
「やるな。だが、まだまだぁっ!」
余力を残すことなど考えず、ただひたすらに突きを放つ。
男はこれだけの突きに晒されてなお、その体には傷一つ負っていない。
適度にフェイントを混ぜるも心を読まれているのか一度も引っかかることは無く。
足を薙ぎ払うという行為を取るもたいした同様も見られずに飛んでかわされ。
意表をつく石突での攻撃さえ、軽く左右に動くだけで避けられてしまう。
「餓鬼が、ムキになりすぎだ」
陽炎のようにゆらりゆらりと最低限の動きでかわされていく現状に歯噛みする。
「っはぁっ……はあっ……」
流石に体力に余裕がなくなってきたのか、長槍の速度が衰えてきた。
「くっ……」
二回ほどバックステップして間合いを取る。だが、その間も男はその場を動こうとはしない。
セイクスは肩を上下に揺らして荒く呼吸をして、疲労しきった腕を休める。
「ぜっ……はっ……ぜっ、はっ」
油断無く男のほうを睨み付けるも、軽く見下された視線で返された。
少し感情が昂ぶったが、迂闊に攻撃を仕掛けることができなかった。
「圧倒的な実力差を前にしても逃げ腰になることはない……か。それが後ろの仲間のための勇気なのか、それとも自尊心を守るための意地なのかは量りかねるけどな」
言葉がセイクスの元へと届いたときには、男は一瞬で間合いを潰し、煌く白刃を振り下ろした。
「くっ!」
剣が作り出す軌跡を予想して、かろうじて剣を真正面から受け止めることで直撃は免れる。
だが、予想外の斬撃の重さに腕が軽く痺れてしまった。
絶対的な隙がうまれるもそこに追撃はこない。それどころか男は攻撃の手を止め感心したようにセイクスを眺めていた。
「ほぉ、あの一撃を止めるか。あ〜何か腕が鈍ってるみたいだ。ま、それでも負けはしないけどな」
男の体が幾重にも別れ、セイクスは囲まれる。
「分身の術〜なんてな」
そこから一気に全員が蹴りを放ち、セイクスは首に重い衝撃を受け、意識を刈り取られた。
「ば、化け物だ……。化け物だ――っ!」
頭が完膚なきまでに敗北したことで、護衛たちは完全に冷静さを欠いていた。
今の戦いで、護衛たちは頭にしっかりと刻み込んだのだ。
その圧倒的な力を。
その圧倒的な存在感を。
そして、莫大な恐怖を。
「に、逃げろ――――っ!」
我先にとばかりに一目散に撤退していく。護るべきである主人を置いて。
「ま、待て! おい! 逃げるなら私も連れて行け!」
必死に呼び止めるも護衛たちは駆け出した足を止めず、振り返ることすらしない。
「酷だよな〜、人のことを化け物呼ばわりなんてよ。折角手を抜いて殺さないでやってんのに。それはともかくとして、さて」
男は春菜を射止める。それだけのことで春菜は硬直した。
「お前の処遇はどうしようか。逃げれない兎を仕留めたところでこっちには何の利益もないわけだが。う〜〜ん」
腕組みをし、じっくりと考えている。
陽気に笑っている彼の手に、春菜の命運がかかっているのだ。機嫌を損ねないために、喋ることすらできないでいた。
重くのしかかる重圧で、一秒が十秒にも感じられる。
男は春菜の顔を直視した後、おもむろに俯き
「くははははははははははは、面白ぇ。愉快だ、まじ愉快だ。っくはははははははははははははは。ちょっと真面目になっただけで普通逃げるか。っくははは」
「は?」
何がおかしいのか狂ったに笑い出した。それはもう響き渡るほど大きく。
春菜は男の態度の変化にあっけに取られ、奇声を発してしまう。
「間抜け面晒しながら気絶する奴に、おぼつかない足取りで逃走する護衛。そしてしまいには震えて腰が抜けているお姫様ときた。全く最高だぜ」
男はばんばんと傍にあった木を叩きながら笑い崩れる。
いつの間にかさっきまでの重々しい雰囲気は消えていた。
一通り笑い終わった後、男は春菜のほうに向き直る。
対の目に捉えられているのは、驚愕の表情が貼り付けられている春菜の顔。
「ま、姫さんは客人として迎えてやるから安心していいぞ。どうやら俺の知り合いだった奴の血縁みたいだからな」
その言葉で占い師の言葉が頭の中で反響する。
≪ここから東に古くから存在する山がある。そこの頂上にて始祖・桜の守り神と称された――――――≫
もしかして……こいつがその守り神って奴か?
「家に来る過去ないかは姫さん次第だ。家に来るなら歓迎するぞ。姫さんと同じくらいの餓鬼二人もいるし、多分あいつも喜ぶからな」
「できればよろしく頼むよ」
即肯定した。
今から下山する体力は残っていないし、なにより護衛のいない状態で道中で魔物に襲われれば命の灯火が消えること間違い無しだからだ。
危険度でいえば見知らぬ奴の家に泊まることも危険かもしれないが、それでも下山するよりかは遥かに安全だと思う。
「それじゃあ……」
「なっ何すんだ! 腰を掴むな! ちょ、そんなところを触るな!」
「うっせぇ、こっちのほうが早いんだよ」
米俵を担ぐ要領で少女を自らの肩へと乗せる。
「こっちも振り落とさないように気をつけるが、姫さんもちゃんとしがみついていろよ」
「お、おい。今から何をする気だ!?」
「そのくらい見当が付いているだろ? なら俺が答えるまでもねぇ」
いや、全く見当も付かん……私を辱めにすること以外は。
男は春菜を持ち上げた途端、風になる。
「はや、速いって! せめてもう少しスピードを落として……きゃ――っ!」
景色がめまぐるしい勢いで後ろへと後退していき、風を裂きながら男は春菜を巻き込んで新たなる風となる
「――――――――――!」
射られた矢の如く飛ぶように滑走する速度に耐えられず、声にならない悲鳴を上げる。
体験したことの無い、一生体験することの無い速さ。見下ろすことのできる城が、どんどん小さくなっていく。
「どうだい、姫さん。気持ちいいだろう?」
どこがだ! と叫びたかったが、生憎と声が出ない。
「声すら出せないほど気持ちいいか。そりゃあ良かった」
無言を感嘆によるものだと勘違いしたのか、男は上機嫌になり更に速度を上げる。
「そういや桜もこういう風に無言だったな。流石血の繋がっているだけはあるじゃねぇか」
どうやら、始祖様にも同じことをしていたらしい。
天国から眺めているであろう、始祖・桜。あんたの苦労少しだけ分かった気がする。
春菜は朧げにそう思い、恐怖で両の瞼を閉じた。