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作者: 深山瀬怜

「あんなことがあったのに、よく頑張ったわね」

 担任の水原(みずはら)が期末テストの成績表を手渡しながら言う。中間テストのときは「あんなことがあったから仕方がないけれど」と言っていたのに。私は曖昧な返事とともに成績表を受け取り、すぐに鞄にしまった。

 中間テストの順位は十五位だった。理由は単純で、その頃発売されたゲームに熱中しすぎて勉強をしなかったから成績が落ちたのだ。期末テストはちゃんと勉強したから元通りの成績を取ることができた。

 あんなこと、は私の成績には一切関係がない。けれど水原をはじめ、それがわからない人があまりにも多いのだ。

 あんなことがあったから。

 あんなことがあったのに。

 あんなことに負けないで。

 あんなこと、あんなこと、あんなこと。私の最近の生活は「あんなこと」で染められてしまっている。白く清潔に保ってきた私の世界に、「あんなこと」が染みのように広がっているのだ。

 前回落ちてしまった成績を元に戻せば変わるかと思ったけれど、甘かった。結局私がどうなったところで、私は「あんなこと」に汚されてしまったのだ。こびりついた汚れのように、「あんなこと」は消えない。それどころか、日に日に私の平穏な日々を(むしば)んでいく。

 あんなこと、は私にとっては大した出来事ではない。私はあのとき極めて冷静に対処できたし、おかげで傷つくこともなかった。何も知らない周りの人たちが私が傷ついていると勝手に決めつけているだけだ。存在しない傷を勝手に押し付けられて、私は私が望んでいないのに「悲劇にも負けず気丈に振る舞う少女」にされている。

 あんなことがなかったら、前回のテストで成績が落ちた理由を問い詰められただろう。正直にゲームをやりすぎたと言えば怒られただろう。あのときは誰もが成績が下がった理由を聞きもしなかった。私に確認も取らずに、自分たちの仮説を信じ込んで納得したのだ。

 私は日々、重油のように真っ黒な「あんなこと」を塗りつけられている。もう終わったことで、傷なんて最初からないのに、教師も、クラスメイトも、親ですらも私の行動の全てを「あんなこと」に結びつけるのだ。

 もううんざりだ。

 せめて「あんなことがあったから?」と聞いてくれれば否定の機会もあったのに、勝手に納得されてしまっては私にはどうにもできない。

 頭の中が、また黒いもので執拗(しつよう)に塗り潰されていく。自分の二の腕に爪を立てて皮膚を(こそ)げ取った。白いゴミのような皮膚片と(わず)かな赤色が爪の間に溜まっている。

 頭の中を今すぐ洗い流してしまいたい。どうしてシャワーの水は頭の中まで入ってきてくれないのだろう。苛々、という言葉が額の上で点滅する。ぐしゃぐしゃとまた頭の中に黒が広がった。


     *


 金城(かねしろ)るる、という一年生の名前は知っていた。おそらく学校では私以上に有名人だろう。あんなことがあったから、ではなく「変わり者」として。

 白に近くなるまで脱色を繰り返した長い髪が金城るるのトレードマークだ。この学校の生徒で髪を染めている人はほぼいない。金城るるの出現によって、ようやくこの学校に染髪禁止の校則がなかったことを知ったくらいだ。染めていたとしても地毛だと言い張れる程度だ。そんな中に一人、白に近い髪色の人がいたら当然変わり者と見なされるだろう。

 その上、金城るるはいつもスマートフォンを録画モードにして構えている。そして彼女の琴線に引っかかる行動を取っている人間をすかさず撮影するのだ。しかし彼女は映画研究会に所属しているわけではない。部活は帰宅部だけれど、授業が終わってもすぐには帰らずに校舎のあちこちで録画をしているのだ。彼女は白く長い髪を翻して、校舎のあらゆる場所に出没する。そんなわけで、金城るるを知らない人はこの学校にはいないだろう。

 とはいえ、まさか、こんなタイミングで金城るるに行き遭ってしまうとは思わなかった。

「……撮るのはやめておいた方がいいと思うよ」

「どうして?」

 金城るるは、可愛らしく首を傾げる。いたずらをして怒られた猫のようだ。おそらく何故やめておいた方がいいのか、理解できていないのだ。彼女はどうやってこの学校に入学したのだろうか。国語の試験だったら漢字の書き取りと意味を答える問題の次に来るくらい簡単な話なのに。

「その映像、誰に見せるかはわからないけど、どう考えてもトラウマ必至でしょ」

「トラウマ?」

「それに、金城さんだってきっと事情を聞かれる」

「私が? どうして?」

 金城るるは敬語を使わない。私が二年生なのは白いスカーフの色で一目瞭然のはずなのだが、彼女にそういうものを求めるだけ無駄なのかもしれない。

「この状況見たらわかるでしょ」

 私は自分の足元の、さっき脱いだばかりの薄汚れた上履きと、その上に置いた手紙を指差した。その中には今の気持ちが書かれている。私が死ぬのはあんなことがあったからではないのだ、というようなことが。

「全然見てなかったわ。視野が狭いってよく言われるのよね」

「それにしても狭すぎだと思うけど……。とにかく、私は今から飛び降りるから、早くどっか行って。人が死ぬ瞬間なんて撮っても面白くないでしょ」

 金城るるは録画を続けたまま何やら考え始めた。何でもいいから早く一人にしてほしい。

「なるほど。それでそんな顔してたのね。いい顔が撮れたわ」

「は?」

 砂糖をたっぷり溶かしたミルクのような笑みが金城るるの顔に浮かぶ。どう考えても今死のうとしていた人間に向ける表情ではなかった。

「死のうとしてる人間の顔なんてそう簡単に撮れるものじゃないもの。これはいいものが作れるかもしれないわ」

「わけわかんないんだけど」

 金城るるには常識が通じないらしい。変な正義感で止められるよりはいいけれど、全然話が飲み込めないのも困る。

「私、ショートフィルムが好きで、自分でも作ってみたいと思ってるのよ」

「だったらスマホじゃなくてもっといい機材でも買えば?」

「うーん……でもまずは作ってみないと、どういう機材が自分に合うかってわからないじゃない?」

 一理あるかもしれない。けれどそれなら人でも何でも集めて撮影すればいいのだ。どうして無断で撮影なんてするのだろうか。だから変人扱いされているというのに。

「……勝手に撮らないでって言われたことない?」

「いつも言われてるわよ? でも綺麗だなって思っちゃったんだもの」

「綺麗?」

「私は自分が綺麗だと思ったものしか撮らないわ」

 綺麗。まさかそんなことはないだろう。死のうとしていることに気付いてなかったとはいえ、私は別に顔が可愛いわけでもないし、体つきも高校生の平均の数字を並べているようなものだ。綺麗というのは夜中に降り積もった真っ白な雪だとか、誰もが息を呑むほどの美人を指して言う言葉だ。それに私は汚れてしまっている。みんなそう思っているのだ。

「……もしかして、私が誰なのか知らない?」

「知ってるわよ。二年三組の小池(こいけ)真帆(まほ)さん、でしょ? この前の連続なんたらかんたら事件の」

 事件の名前は覚えていないに等しいけれど、その内容は知っているのだろう。それならなおさら綺麗だなんてふざけたことを言う理由がわからない。

「あなただってあの動画を見たんでしょ? だったら……どうして」

「関係ないでしょ。あれからお風呂入ってないの?」

 何故か面食らったような顔をして金城るるが小首を傾げる。呆れて言葉が出てこない。私は喉奥から声を絞り出して、ようやく一言だけ返した。

「……毎日入ってるけど」

「じゃあ問題ないじゃない。それに、私はパッと見て綺麗だって思ったから撮ったのよ。あなたが誰かなんて、どうだっていい。でも死ぬのは少し待ってほしいかな」

 金城るるの眼は、()いだ夜の海のように深い黒色だった。全ての色を吸収してしまいそうな瞳。真珠のような艶を持つ長い髪。綺麗なのは彼女の方だ。

「別に私が死んでもあなたには関係ないじゃない」

「死人に映像の使用許可は取れないでしょ?」

「……生きてても許可なんて出さないけど」

「みんなそう言うのよね。こんなに綺麗なのに、どうして?」

 金城るるは恍惚(こうこつ)とした表情を浮かべながらスマホの画面を白いマニキュアを塗った指先で優しく()でる。私は薄ら寒いものを感じて、自分の腕を抱いた。

「普通は、黙って撮られてるだけで嫌だから」

 彼女に説明しても無駄だろうけれど。案の定、金城るるは唇を尖らせた。

「だって『今のもう一度やって』って言ってもやってくれないんだもん。本当に綺麗なのに。さっきの真帆だって、真っ白な陶器の箱の中に、漆塗りの石を閉じ込めた感じで」

 不意に右のこめかみが明るく点滅した。彼女は利用できるかもしれない。金城るるに常識は通用しない。ということは非常識なことをやらせることだってできる。彼女は私を撮った。そして作品を完成させるために私が協力すると言えばきっと喜ぶだろう。私は金城るるに翻弄されているように見せかけながら、私の目的を果たす。

「じゃあとりあえず、今死ぬのはやめてあげる。あと、その映像も使いたければ使っていい」

「本当に!? 真帆っていい人ね!」

 おもちゃを買ってあげると言われた子供のように金城るるが私に抱きつこうとしてくる。私は手を出してやんわりと距離を取った。

「……それと、あなたのやってることに興味が湧いたから、協力するよ」

「協力?」

「私をもっと沢山撮って、作品を完成させるといい。どうせ今まで一つも完成してないんでしょ?」

 校内で知らない人はいない変人に、映像の使用許可を出す人なんて今までいなかっただろう。その上、金城るるが作りたがっているものは、基本的には一人の人間を長時間拘束しなければ完成しないものだ。断片を撮影し続けたところで、主人公がバラバラでは物語として仕立てるのは難しい。

「ありがとう! でも今までこんなことなかったから、お礼の品とか何も考えてないの」

「……ちゃんと報酬は払うつもりだったのね」

 常識があるのかないのかわからない。けれど私は金城るるが意図していないところで報酬を受け取るつもりだ。自販機の明かりが街灯代わりになるのと同じこと。

「そういうのは、完成してからでいいから」

 金城るるが用意した報酬を受け取るつもりはない。この計画が上手くいけば、彼女もさすがに傷つくはずだ。でも彼女ならきっとわかってくれる。誰も理解してくれなかった私のことを、汚れている私のことを、金城るるは「綺麗」だと言ったのだから。


     *


 もう二度と通ることはないと思っていた家路を辿る。駅前の道はいつもと同じように閑散としていて、灰色のひび割れが入ったまま何年も直されていない横断歩道の信号が虚しく鳥の鳴き声を響かせていた。

 スカートのポケットからスマートフォンを取り出す。親指でロックを解除すると、すぐにブラウザの画面が開いた。私はアプリを終了させないまま屋上に行ったらしい。再読み込みが終わった画面をスクロールするが、めぼしい書き込みはなかった。私はブラウザを終了させてから、ポケットにスマホをしまった。

 無意識に左手の傷に触れる。指でなぞれば(うね)のような凹凸を感じた。心の水面が凪いでいく。コーヒーカップの丸い持ち手をなぞっていると心が落ち着くのと同じだ。

 暫く歩くと、欄干が白く塗られた橋に出る。その下を流れる川は、流れているのか止まっているのか、一瞬判別が付かないほど穏やかだった。もうすぐ海に出る川はその終わりで躊躇(ためら)っている。けれど私は違う。鞄から遺書を取り出して、橋の欄干から手を精一杯伸ばして破った。黒い虫に汚された花弁のような白い紙を風がさらって川面に撒き散らす。私は川の向こうに微かに見える海に目をやった。この街の終わりにある海は、その昔は木材の運搬をする船が集まり、それなりに賑わっていたらしい。今では見る影もない。生きながら死んでいるようなこの街は淀んでいて、煤けた空気が辺り一面に漂っている。海はそれから逃れるように、遠くに水平線を描いていた。


     *


「絵コンテ? 何それ」

 大きく見開かれた彼女の目は、水鏡のように私の顔を映し出していた。知っていてとぼけているわけではないようだ。

「どうして私でも知ってるものをあなたが知らないのよ」

 作りたいものがあるなら、それについてちゃんと調べたらいいのに。どうやら彼女は考える前に行動するタイプらしい。

「あなたがどういう映像を作りたいのか、まずはそれをはっきりさせないと。大まかな流れとかを決めてからじゃないとどこで撮影するのかもわからないでしょ?」

「確かにそうね。真帆って頭いいのね」

「こういうことを考えるのが好きなだけよ。ほら、こんな感じで書くんだっての」

 私がスマホの画面を見せると、ルーズリーフを取り出して、彼女は見よう見まねで線を引く。しかしそれきり手が止まってしまった。

「いざやってみようとすると難しいのね」

「じゃあ、あなたはどんな映像が撮りたいの? ストーリーとか、テーマとか、思いつきでもいいんだけど」

「綺麗なものを撮りたいだけよ」

「それじゃ進まないでしょ……。きっかけはあなたが出してくれないと、私は何もできない」

「『あなた』って他人行儀ね。るるって呼んで」

 人の話を聞いてほしい。でも彼女にそれを求めるだけ無駄だろう。かといって投げ出すわけにもいかない。逆に考えれば、ここまで何も考えていない状態なら私の望んだ方向に持っていくのも容易(たやす)いかもしれない。

「じゃあ、るる。何も案がないなら、昨日撮った映像を中心にして、そこから広げるのがいいと思う」

「なるほど、名案ね!」

 るるはスマホを取り出して、昨日の放課後に撮った映像を再生し始める。モノクロに加工された映像には、風が強い屋上で高い柵を前に佇んでいる私の姿が映っていた。雲が風にちぎられて画面の右側に向かって運ばれていき、風向計も壊れた独楽(こま)のように回っていた。けれど私は微動だにしていない。別の場所から切り取って持ってきたかのように、私だけが別物だった。白いスカーフが激しくはためいているので、かろうじて同じところにいるのだとわかる。どこか遠くを見つめる私の目は黒檀(こくたん)のように静かで表情がなかった。どこにも焦点が合っていない。どこも見ていない。覗き込めばそのまま呑みこまれていきそうだった。微かな物音のあと、画面の中の私と目が合う。ようやくるるに撮られていることに気が付いたのだ。るるはそこで停止ボタンを押す。

「うん。我ながら会心の出来ね」

「まあ……センスはあるのかもしれない」

 ここに映っているのが女優とかなら惹きつけられたかもしれない。時間が止まったような私と、動き続ける周囲の景色。ただありのままを撮影しただけなのに思わせぶりに仕上がっている。

「そういえば、真帆は……」

「何?」

「やっぱり聞かないでおくわ。聞いたら、それに影響されて自由に考えられなさそうだし」

 誰もが気になるだろうことを、るるはあえて聞かないことに決めたようだ。聞いてもはぐらかすつもりではあったから構わないけれど。あの事件を言い訳にすれば、いくらるるでも納得はするだろう。けれど私が死ぬ理由は、あの事件で傷ついたからではない。

「これを撮ったときは、まずその白のスカーフに目が行ったのよ。旗みたいで格好いいなって」

「普通のスカーフだけど」

「だってそう見えたんだもの。自由を求める人たちを先導する旗手みたいな」

 教科書で、るるが言っているような絵を見たことがある。要するに彼女独自の考えではなく、私を見てそれを連想したということだ。

 でも私は民衆を先導する女神などではない。ただ死のうとしていた一人の人間だ。るるの目には世界を美しく歪めるレンズでもはめられているのだろうか。人々を先導する存在は確かに格好いいけれど、私はそういう存在にはなれない。

「そうだ! どこか違う場所に行こうとしてる人の話とかどうかしら? 昔、川を渡ったところにある、こことは違う、ありのままの自分で生きられる場所に行こうとしている人の話を読んだことがあるわ」

「読んだことのある話をそのまま使うのは良くないでしょ」

「でも、どこかに発表するわけでもないんだし。それに骨格が同じ話なんてこの世にはいくらでもあるわ」

 るるの目が一瞬冷たい色を帯びる。刺すような冷たさではなく、物事を俯瞰(ふかん)している聡明な目だ。その目に私は微かな違和感を覚えた。けれどそれを追及するような時間の余裕は私にはない。

「……確かにそうかも」

「それなら、真帆を違う世界に導く存在が必要よね」

 自分のノートを取り出して、決まったことを書き込んでいく。記録は出来るだけ私の字で残しておきたい。私が書いた字を見て、更にるるが思いつくままに新しい事項を増やしていく。あっという間にノートの一ページが埋まった。

「どんどんやりたいことが湧いてくるわ! こんなの初めて!」

 るるは白いノートと同じだ。まっさらだから、少し背中を押せばどんどん新しいことが書き込まれていく。既に沢山書き込まれた真っ黒なノートには何かを書く場所がない。今の私には何も書き込めない。かといって新しいノートを買うわけにもいかない。

「屋上のシーンはもっと沢山欲しいわね。昼休みって時間あるの?」

「私はいつも暇だよ。部活もやめたから放課後も大丈夫」

「じゃあ今度、良さそうな日に追加で撮影するわね!」

 るるが笑うと、花が咲いたように空気が明るくなる。楽しそうなるるを横目で見ながら、私はどこで計画を実行するかに頭を巡らせていた。


     *


「真帆!」

 片手でスマホをいじりながら購買で買ったパンを食べようとしていると、急に大きな声が聞こえた。教室中の視線が私に刺さる。るるはそれをものともせずに、教室の中に勢いよく入ってきた。

「撮るわよ! いい案が浮かんだの!」

 そういうことなら、事前に連絡を入れてくれればいいのに。私は読み込みが終わっていないブラウザを閉じて、深く溜息を吐いた。

「今パン食べようと思ってたんだけど……」

「上で一緒に食べればいいわ。ほら、早くしないと」

「はいはい」

 るるが強引に私の手を取って立たせる。変人・金城るるの効果は絶大で、教室の片隅で行われているやりとりを見ていない人は一人もいなかった。教室を出るときに、女子たちのひそひそ話が聞こえてくる。あの事件に巻き込まれた小池真帆が、今度は金城るるに巻き込まれている――私が意図したとおりに受け取ってくれているようだ。そう。私は金城るるに巻き込まれている。泣きっ面に蜂。あの事件の記憶もまだ新しいのに、更に厄介事が積み重なっている。そんな印象を持たせられれば私の勝ちだ。

「それで、いい案って?」

「屋上で話すわ」

 るるは軽やかに、踊るように階段を駆け上がる。白色の長い髪がそれに合わせて揺れて、光を反射して(きら)めいた。変人というレッテルさえなければ、きっと人の輪の中心にいられる子だろう。私がその姿を撮った方がいいのではないかと思うくらい、るるは綺麗だ。

「まあまずはご飯でも食べながら、話しましょう?」

「うん」

 屋上の縁に腰掛けて、先程開けようとしていたパンの袋を開ける。るるは鞄の中からサンドイッチとスマホを取り出した。るるが私の方にレンズを向けて画面をタップする。

「食べてるところも撮るの?」

「使えるかもしれないと思って。気にしないで食べて」

「るるはご飯食べられないじゃない。スマホ用の三脚とか買ったら?」

「サンドイッチだから片手で行けるはずよ」

 確かに片手で食べるために作られた料理だけれど、そう上手く行くわけもない。案の定、飛び出した卵が落ちて、二進(にっち)三進(さっち)もいかない状況になってるるが慌て始める。

「ほら、拭いてあげるから」

「ありがとう! 真帆は優しいわね」

「別に優しくはないよ」

 こんなことで優しい認定するなんて、飴をくれたら知らない人にもついて行きそうで不安だ。今の時代、どんな子供でもそんなわかりやすい罠には騙されない。それだけ警戒して生きていても悪意にぶつかってしまうのだ。るるは一体どんな生き方をしてきたのだろう。今度は上手くサンドイッチを食べているけれど、カメラの方はぶれてしまっている彼女を横目で眺める。

「それで、まさか食べるところを撮るためだけに呼び出したんじゃないよね?」

「もちろん。屋上で寝てるところを撮りたいのよ。できればちょっとだけ動きも付けて欲しくて」

「どういう動きか教えてくれればやるけど」

「とりあえずそれ見て」

 るるがサンドイッチを持っている方の手で、鞄から飛び出したバインダーを指さす。真新しい白のバインダー。太陽の光を反射して(まぶ)しかったので、私は日陰にバインダーを置いてるるの字を追った。

「これ、一日で全部考えたの?」

「昨日家に帰ったらバーッと湧いてきて、だから真帆に見て欲しいと思って」

 まだ整理されてはいないが、昨日の何もない状態を考えると奇跡としか思えないくらい埋まっている。

「これは……私にできるのかな。演技力も必要だよね、これ」

「そうね。でも真帆ならできるんじゃないかしら」

「何を根拠に……?」

「真帆はすごいもの。真帆がいなかったら、ただ動画を撮るだけで終わっていたと思うわ」

「それと演技力は関係ないと思うけれど」

「……だめ?」

 黒々とした(つぶ)らな瞳が私を見上げている。子犬の瞳だ。こんな目を躊躇いなくできる人が羨ましい。そんなことをしたって何も得られないと私はわかっている。高校生にもなってこんな目をする人は、きっと相当恵まれていたのだろう。それとも変人だと遠巻きにされてきたせいで、変に擦れたりしていないのか。けれど、どちらにせよ、あるいはどちらでもないにせよ、所詮私には関係のない話だ。私は深く溜息を吐いた。

 もとよりこんなことでやめられるものではない。るるの案は今のところ私が望んだ方向に進んでいる。それを崩したくはなかった。演技でも何でもやってやろう。あのときだって私は演技ができた。だからきっとやれるはずだ。

「下手でも文句言わないなら」

「ありがとう! じゃあ早速なんだけれど、そのあたりで横になってもらえるかしら」

「最初のシーンね。わかった」

 るるのアイデアは整理されているわけではなかったから、もう少し詰めてからでもいいのではないかと思ったけれど、るるのやる気を削いでしまいそうな気がして言うのをやめた。焦っても意味がない。私の目的はある程度時間をかけなければ達成されないのだ。

 太陽に温められたコンクリートの上に横になる。るるがスマホを構えながら聞いてきた。

「背中、熱くない?」

「大丈夫。ただ寝てればいいの?」

「えーと、最初は横向きかな。右でも左でも好きな方でいいわよ。で、目は閉じて」

 いつも寝ているのと同じ姿勢になって、目を閉じる。スマホの録画が始まった音が聞こえた。一分ほどそのままで、まだなのだろうかと思い始めたところで、るるが録画を止めた。

「いいわね、じゃあ次その寝てる状態からちょっとだけ笑ってみてもらえる? 口元だけちょっと笑う感じで」

「了解。こんな感じ?」

 でも面白くもないのに笑うのは難しい。どうしても不自然になってしまう。

「そんなあからさまじゃなくていいわよ。よく見れば笑ってるみたいな感じで」

「やってみる」

 るるが書いた文字を思い出す。ここで笑うのには意味があるのだ。安定した檻の中の生活と、それが壊れてしまうことを同時に暗示させる表情。でもそんな簡単に、その場面に相応しい笑顔なんてできるはずがない。だから自分の中にある一番似通ったものを持ち出してくるしかないのだ。

「そんな感じよ、真帆。じゃあ行くわね」

 再び録画が始まる。今この学校にいる人たちは、私たちがここで何をしているのか気付いているだろうか。早く気付いてほしい。あんなこと、とは関係のないところに私が立っていることに。



 それから休み時間も、放課後も利用して撮影が続けられた。基本的にはるるの言う通りに動いていただけだが、意外に悪い時間ではなかった。るるはいつも手放しで褒めてくれるので、正直悪い気はしない。

 あともう少しで昼休み。教室の空気もそれを察知して少しずつ()(かん)していく。雨も降っているからなおさらだ。和歌の修辞法を解説する教師の声が上滑りしていた。私はノートを取る手を止める。外を眺めると、空は灰色の厚い雲に覆われて、雨が矢のように降り注いでいるのが見えた。

 今日の昼休み、るるは絶対にここに来る。るるのノートには雨のシーンが書かれていた。今日は絶好の撮影日和だ。でもスマホの雨対策はしているのだろうか。最近の機種は防水機能があるとはいえ、今日のような激しい雨にはまだ勝てない。るるのスマホが壊れてしまえば、撮影は中断を余儀なくされるだろう。防水のケースが存在するのは知っているけれど、私は持っていない。るるが何か対策を考えてくれることを期待するしかなかった。

 ようやくチャイムが鳴る。教師が教科書やチョークを片付け終わる前に、今日の天気には似つかわしくない声が響いた。るるがスクールバッグを背負って教室に入ってくる。

「行くわよ、真帆」

 来るとは思っていたけれど、鐘が鳴る前に教室を飛び出したのではないかと疑ってしまう早さだった。

「まだ先生いるでしょうが……来るの早過ぎ」

「だっていてもたってもいられなくて! こんな絶好の日、もう来ないかもしれないわ!」

「はいはい。準備はしてるの?」

「防水ケースはいつも持ち歩いているし、他にも色々用意してるわよ」

 るるが背負ったままのスクールバッグを指差す。中身はわからないけれど、聞いたところでここでは見せてくれないだろう。

「早くしないと雨が弱まっちゃう」

「うん、行こう」

 るるが、教室に入ってきたときと同じスピードで駆け出す。私もそれを追った。購買に向かう人たちに時々ぶつかりながらも私たちは一目散に屋上を目指す。

 るるが屋上のドアを開けた。強い雨が地面に当たって跳ね返っている。普通の人ならこんな中に飛び出していこうとは思わない。けれど今の私は違う。

「準備できた?」

「待って。今日は三脚使うから」

 るるのスクールバッグから折り畳み式の三脚が出てきた。その上に防水ケースに入れたスマホを設置する。手持ち無沙汰になった私は、口が開いたままのるるのスクールバッグに目をやった。

「……これ、何?」

 水鉄砲のようなプラスチック製の安っぽい銃を取り出す。るるはスマホの角度を調整しながら答えた。

「ペイントボールガンよ。それが一番いいんじゃないかと思って、取り寄せたの」

「待って、これ制服とか汚れちゃうじゃない」

「防犯用のペイントボールと違って、洗えば落ちるって書いてあったわよ」

「制服はすぐには洗えないでしょ。今日ジャージ持ってきてないし」

「着替えのことは考えてなかったわ……確かに、それを洗って干している間、真帆が着るものがないわね。私もジャージ持ってきてないし」

 るるは基本的に詰めが甘い。私は溜息を吐いた。別の日に延期してもいいのだが、こんな思い描いた通りの雨の日が次いつ来るのかわからない。それに、もしかしたらこれは絶好の機会なのかもしれない。

「ジャージなら保健室にもあったはずだから、それ借りるよ。それよりもう準備はいいの?」

「いいわよ。真帆が良ければいつでも始められるわ」

 私の準備はとうの昔にできている。私は雨の中、屋上の中央に立って空を見上げた。痛いほどに強い雨が伸ばした指先で跳ねる。踊れ、と挑発しているような三拍子のリズムが手の甲を打った。雷の音と同時に吹いてきた風が制服の白いスカーフを揺らす。

 るるがスマホの画面越しに私を見ている。このシーンのるるの指示はこれまで以上に大雑把だった。土砂降りの中で楽しそうにする、なんて、どうやったら楽しそうに見えるかなど考えたこともない素人が簡単にできることではない。

 雨が私の周りで飛び跳ねる。雫が靴の中に入り込んでくるけれど、もうとっくに濡れてしまっているから、今更そんなことはどうだっていい。私は雨と一緒に踊り始めた。踊っていれば楽しそうに見えるだろうと考えたわけではなかった。体が糸に引かれるように勝手に動いたのだ。

 雷鳴が空気を震わせる。私は白いスカーフを右手で外して、その手を空に突き上げた。風が旗のようにスカーフを揺らして、その背後で稲妻が空を切り裂く。これはるるが決めた合図だ。私は横目でるるの顔を見る。るるは晴れた日の太陽のような笑顔で、親指を立てて見せた。けれど逆の手には銃が握られている。私はターンをしてるるに背を向けた。手に持った白いスカーフが遠心力で真横に(なび)く。けれど水を吸ったスカーフが重力に負けて私の右手に垂れる直前、背中に鈍い痛みが走った。背中に目をやろうとすると、今度は右肩で黒色が弾けた。るるが銃の引き金に指をかけて私を見ている。振り向こうとした瞬間に、今度は脇腹を黒色の弾が掠めた。るるが銃の上部をスライドさせて、もう一度引き金を引く。左胸に命中した弾は、黒色を制服の前面にぶちまけた。そこに当たったら私は倒れることになっている。体中の力を抜いて、そのまま地面に体を預けた。(したた)かにぶつけてしまった腰が脈打つように痛む。

「っ……いった……」

「真帆、大丈夫!? 怪我とかしてない?」

 ぶつけたところがもしかしたら(あざ)になっているかもしれないけれど、血は出ていないようだ。私はゆっくりと上体を起こす。

「大丈夫。それより撮影は?」

「バッチリよ! ほら、早く中に入らないと風邪を引くわ」

「もう手遅れだと思うけど」

「そのときは私が風邪薬でも何でも持って行くわ」

 るるが持ってくる風邪薬は、熱のど鼻に効くと(うた)われている商品なのだろうか。これであなたの風邪に狙いを決めるものを持ってきたら、そうじゃないでしょ、と言ってしまいそうだ。そんなくだらないことが頭を(かす)めて、笑いが決壊した。

「何で急に笑うの?」

「いや、なんでもない……ふふっ」

 一度火が点くとなかなか収まらない。笑いすぎて呼吸困難になってしまいそうだ。

「何がそんなに面白いのよ……つられちゃうじゃない」

「だってるるが風邪薬って……」

 るるは意味がわかっていないだろう。でも私につられて肩を震わせて笑い始めた。その場から動かずに笑い続けているせいでるるも()(ねずみ)になっている。けれど雨の中にいるのは心地よかった。雨に閉じ込められたここには、余計な色が入ってこない。

「もういい加減、中に入らないと」

 るるが笑いすぎで溢れた涙を指で拭う。私も冷たい雨と熱い涙で濡れた目元を手の甲で擦った。



 屋上から一階にある保健室に向かう間、私たちは全校生徒の注目の的になった。全身ずぶ濡れになった上に、真っ黒に汚れた制服を着ている人がいたら、私だって思わず見てしまう。それが私とるるなら、その視線には更に違う意味が込められる。

 るるを見た人は、「また変人の金城るるが変なことをやっている」と思うだろう。私を見た人は、「あの事件の被害者がおかしなことをしている」と思うかもしれない。驚きと軽蔑と憐れみが混ざった視線を浴びるのは心地よかった。同情の視線がまとわりついてきた今までよりもよっぽど歩きやすい。今ならスキップすらできるような気がした。

 保健室に入ると、書類を青色の分厚いファイルに綴じていた先生が目を点にして私たちを見た。先生も私の身に何が起こったかを知っている。けれどそれと今のこの状況を線で結べてはいないはずだ。

「何をしたらそんなことになるの?」

「ちょっと撮影をしてただけです。ね、るる?」

「そうよ。真帆が頑張ってくれたおかげでとってもいいものができそうだわ」

 ファイルを机の左側に寄せた先生は、溜息を吐きながら二人分のジャージを戸棚から引っ張り出してきた。右端のベッドが空いている。私とるるはベッドに腰掛けて、着替えるために()(なり)色のカーテンを閉めた。

「こういうところって、秘密の場所みたいでいい感じね」

「音はカーテン閉めてても筒抜けだけど」

「ねぇ、真帆って保健室のベッドで寝たことある?」

 るるの話題がすぐ変わるのにもそろそろ慣れてきた。るるは濡れたままベッドに横たわる。白い髪から水が染み出して、白いシーツが灰色に変わった。

「ないよ。保健室に来たこともほとんどない」

「私もよ。このベッド寝心地いいわね。真帆も寝てみたら?」

 制服を中途半端に脱いだ状態のまま、私はベッドに横になった。一人用のベッドは、二人で並ぶとかなり狭い。気を抜けばすぐに濡れた肌が触れる。るるの肌は表面は冷えているのに、その奥は暖かく感じられた。

「このまま寝ちゃって、授業とかサボってみたいわね」

「いや、私はちゃんと出るけど」

「真面目ね。勉強好きなの?」

「単純作業みたいで落ち着くから」

 るるは苦手そうだ。そもそもじっと椅子に座っている姿が想像できない。私はベッドに寝転がったまま、途中になっていた着替えを再開する。

「ねぇ、真帆」

「なに?」

「さっきも気になったんだけど、その腕の傷、猫にでも引っ掻かれたの?」

 るるが私の左腕を指差す。猫だってこんな場所は引っ掻かない。本気で猫の仕業だと思っているのか、私に気を遣っているのか、るるの場合はどちらとも取れるから困る。

「そう。化け猫みたいに大きいやつと戦ってね」

「うちの近くにも昔大きな野良猫がいたのよ。猫と言うより小さな虎みたいな感じだったわ」

「その猫と戦ったりした?」

「私が近付こうとすると逃げるのよね」

「人に慣れてない猫だとそうなるかもね」

 素早くジャージを着て傷を隠す。るるはそれ以上傷のことには触れようとしなかったが、ジャージに着替える気配もなかった。

「るるはここに残る?」

「どうしようかしら。もう帰っちゃってもいいけれど。今日撮った動画も編集したいし」

「授業は出ておいた方がいいよ。いつか役に立つことがあるかもしれないし」

 るるはこれからも、長い人生を歩いて行くのだから。るるのような熱意があるのなら、今やっていることを仕事にすることだってできるかもしれない。その未来のために、勉強をしておいて損になることはないと私は思う。

「真帆が言うなら、そうするわ」

「別に強制したつもりはないけど」

「強制されたつもりもないわよ」

 るるはそう言って濡れた制服を脱ぎ落とした。制服の下のるるの肌は外に出ている部分よりも更に白い。その下の血管が透けて見えてしまいそうだ。左胸の下にある三つの黒子(ほくろ)はまるで星座のようで、白い肌の上でひときわ目立っていた。

 私はその三角形をどこかで見たことがあるような気がした。けれど気のせいかもしれない。るるの着替えを見たのはこれが最初だし、きっと何かと勘違いしているのだろう。

「どうかした?」

「ううん、何でもない。早く着替えないと風邪ひくよ?」

 るるにジャージを手渡しながら言うと、るるは素直にそれを受け取る。陶器のようなきめ細やかな肌はすぐに学校指定のジャージに覆われて見えなくなった。


     *


 それから数日、るるは学校を休んだ。風邪を引いてしまったらしい。何度も咳をしながら律儀に電話を掛けてきた。

 るるがいないので、撮影はできない。急に予定が空いてしまうと、るるに出会う前に昼休みをやり過ごせていたのが信じられないほどに暇になってしまった。

 味のないパンを(かじ)りながらスマホの画面をスクロールしていると、ほとんど話したこともない隣の席のクラスメイトが話し掛けてきた。テニス部の副部長で、面倒見がいいことでみんなに慕われている人だ。そんな人が一体私に何の用だろう。

「そういうの、あんまり見ない方がいいんじゃないかな」

 あなたには関係ない、そう言おうとしたけれど、食べていたパンに喉の水分を奪われていて何も言えなかった。

「そういうところって、嘘も結構あるっていうし。気にしちゃ駄目だよ」

 別に気にしているわけではない。私は最後まで見届けたいだけだ。然るべき裁きが下されれば、私は完全に勝利したことになる。その日を今か今かと待っているだけだ。

 私が何も言わないでいると、彼女は諦めたように笑って話題を変えた。

「そういえば最近、金城さん来ないんだね」

「風邪引いたんだって。明日には来るんじゃないかな」

 るるが昼休みの度に教室に来ていたことは、ちゃんと印象に残っているようだ。あんな目立つ容姿の一年生が毎日二年生の教室にまで来ていたら当然だ。

「小池さんは、どうして金城さんに協力してるの?」

「別に……何となく面白そうだと思ったから」

 暇になってしまった今、るるの撮影に付き合うのはそれなりに楽しかったのだと実感している。少なくとも今クラスメイトと会話しているよりはずっと楽しい。私の選択は何一つ間違っていなかった。

「でも、気をつけた方がいいよ」

 クラスメイトは声を潜める。親切な人を演じるのにそこまで価値があるのだろうか。忠告の声はいつも泥のように濁った色をしている。

「何を?」

 るるなら、こういうときにどう返すのだろうか。るるは怒ったりはしない気がする。でも、心底不思議そうにどういうことなのか聞くだろう。

「小池さん、色々あって有名になっちゃったから……」

「あのことは関係ないよ」

「でも、みんなが……」

 みんな、の中には面倒見が良くて親切な彼女も入っているのだろう。私がどう思われているかなんて言われなくてもわかっている。わかっていないのはそっちの方だ。何もかも、私が描いたとおりに進んでいる。

 本を開いて、それ以上の質問を拒否すると、今度は校内放送が私を呼び出した。担任の水原が生徒指導室で待っているらしい。教室や職員室ではなくわざわざ個室に呼ばれるなんて、嫌な予感しかしない。隣の席の彼女が私を一瞥(いちべつ)して、すぐにスマホに視線を落とした。

 生徒指導室は、狭い部屋の中に机と椅子が置かれているだけの殺風景な部屋だ。水原はその椅子に座って、濃い色の口紅が引かれた唇を歪ませていた。促されるまま、水原の向かい側の椅子に座る。まるで被告人席だ。

「小池さん……最近、一年生の金城さんと仲良くしているみたいだけれど」

「まあ、そうなりますね」

「小池さんが金城さんと何かをやっている、ということが学校中の噂になっているの」

 でしょうね、とは言わなかった。学校の噂なんて、先生より生徒の方が詳しいだろう。学校中にその名を知られる変人を利用したのだ。噂にならない方がおかしい。水原の言葉はただ耳を通過していくだけだった。

「この前、屋上でずぶ濡れになった上に制服を汚して、保健室にジャージを借りに行ったというのは本当なの?」

「本当です」

「そう。……あのね、小池さん」

 水原の言葉を真面目に聞くつもりは毛頭ない。どうせ聞いたところで何の利益もない。けれどそれを態度には出さず、私は太腿の上で右手を左手の上に乗せた。

「最近の小池さんを見ていると、ちょっと心配になるのよ。あんなことがあったから自暴自棄になっているんじゃないかって」

「……別に、そんなことは」

「これまでだったら、あんな風に制服を汚したりして周囲に迷惑を掛けるなんてなかったはずよ。もし小池さんが悩んでいるなら、いいカウンセラーさんを紹介してあげるから」

 頭の中に黒い染みが広がっていく。あの事件の後、水原をはじめ、親や近所の噂好きのおばさんたち、果ては訳知り顔のクラスメイトにさえカウンセラーや医者のところに行けと言われた。私が悪いのだろうか。あの事件のとき、私は冷静に最善の行動を取ることができた。周囲は私の中に傷を見出して、それを治そうとする。しかし、存在しない傷をどうやって治せと言うのだろう。

「もし必要になったらお願いします」

 そんな日は一生来ないだろうけれど。それよりも早くここから出たい。頭の中が黒で塗り潰されていく。チューブから出した絵の具をそのまま塗りつけているような濃い黒色で一面真っ黒になってしまっても、更に厚く重ねられる。制服の上から左腕を掴む。この腕に爪を立てたい。早く、そうしなければならない。

 何でもいいから早く終わらせて欲しい。指先に力を込めた瞬間、生徒指導室の扉が勢いよく開いた。

「真帆!」

 色素の薄いるるは、逆光でまるで光を凝縮したもののように見えた。地獄から這い上がる蜘蛛の糸のような腕が私に向かって真っ直ぐ伸ばされている。

「先生、真帆は私に頼まれて色々やってるだけよ。だから真帆だけを注意するのはやめてちょうだい」

「るる……」

「責任は全て私にあるわ。だから――邪魔しないで」

 るるの声が一瞬だけ冷たくなった。空気の粒が氷柱(つらら)のように尖った。耳鳴りのような高く長い電子音が微かに響く。私も水原も、るるが作った空気に呑まれそうになっていた。

 暫くして、どうにか平静を取り戻したらしい水原が何かを言おうとするが、るるはそれを聞くこともなく、私の右腕を引いて生徒指導室を出た。

「……るる、どうして」

「放送で呼び出されてたんだから、どこにいるかはわかるわよ」

「そうじゃなくて、何で……」

「終わったら話をしようと思って待ってたのよ。でもこのまま待ってても(らち)があかないと思って」

 るるは私の右腕を掴んだまま、屋上に向かう階段を昇り始める。白く塗られた綺麗な爪が少しだけ肌に食い込んでいた。その力の強さは、るるの怒りの表れのようにも、私の動きを封じようとしているようにも思えた。

「それにしても、どうして真帆に言うのかしら。私に直接言えばいいじゃない」

「休んでたからじゃない?」

「今日は朝からちゃんと学校来てるわよ。次ああいう用事で呼び出されたら、私のこと呼んでね」

 次はもうないだろう。返事をしないでいると、るるがそっと私の右腕を解放した。

「……それとも、もう嫌だって言うならやめてもいいけれど」

「やめないよ。水原の言うことなんて気にしてないし」

 水原だけではない。誰が何と言おうと、こんなところで引き下がるわけにはいかない。今日のことだって、考えようによっては好都合だ。計画は順調に進んでいるのだ。

「真帆、それで話なんだけれど」

 屋上の扉が閉まると同時に、るるが急に真剣な声で切り出した。

「……もし、真帆が嫌でなければ、私は真帆の傷を撮りたい」

 空気が張り詰める。るるの漆黒の瞳は湖のような静かさを(たた)えていた。その意図を読み取ろうと覗きこんでみても、底が見えることはない。

「今、真帆の左腕にある傷を私は隠したくない。かといってわざわざ出すものではないというのもわかってる。でも、私はそれが綺麗だと思うから、撮りたい」

 自分の爪でつけた傷が綺麗なわけないだろう。けれどるるの目は嘘を言っているようには見えなかった。私は制服の布越しに腕の傷に触れる。微かに脈打っている傷。人に見せていいものではない。これを撮ってしまったら、これまで順調だった計画に揺らぎが生じてしまう気がした。

「……悪趣味」

「そうね。自分でもそう思う」

「あなたも、あの事件で傷を負ったから、私がこんなことしてると思ってるの?」

 喉から絞り出した声は、微かに震えていた。るるにまでそう言われてしまったら、もう私は本当に真っ黒になってしまう。傷口に制服の布が触れる。耐えられない。

「私は、あんなことで傷つくほど弱くない……!」

 制服の袖を捲り上げ、爪を立てる。その手をるるの白い指先が止めた。

「真帆が自分を傷つける理由なんて知らないわ。けれど、一つだけわかったことがあるわ」

 るるは指先を真っ白にして、私の右手を左腕から引き剥がす。抵抗できないほどの力ではないのに、指の一本一本を剥がされて、その小さな手の中で抑え込まれてしまう。まだ力を抜いていない私の手の甲を、るるは羽毛でなぞるように優しく撫でた。

「真帆は強くなりたいのね。だから綺麗なんだわ」

 その言葉で、頭の中を埋めていた黒が弾け飛んだ。目頭が熱くなって視界が歪む。しゃくり上げる私を、るるが細い腕でそっと抱き締めた。るるの体は私よりも小さいのに、まるで大きな(まゆ)の中にいるようだった。

「私は、あんなことに負けてなんかない……」

「真帆はちゃんと勝ったのよ。誰が何と言おうと」

 その言葉を、もっと早く聞きたかった。手遅れになってしまう前に、私がまだ白に引き返せるときに聞ければ良かった。けれどもう何もかもが遅すぎる。漂白できる段階はもう通り過ぎてしまった。私自身が、私が汚れてしまったことを認めてしまった以上、こびりついた染みは一生消えない。

 それでも、あまりに遅すぎる言葉だったとしても、るるだけが私を見てくれたのは事実だった。


     *


 塾からの帰り、自宅近くの路地でのことだった。私はいつものようにただ普通に歩いて、高校生らしく、代わり映えのしない生活を嘆いたりしながら家を目指していた。

 あまりにも普通の帰り道だった。だから私は、真横の雑木林から出てきた男のことを認識すらしていなかった。男はすれ違いざまに私の鳩尾(みぞおち)を殴った。痛みで声も上げられないうちに、男は私を引きずるように雑木林の中に連れ込んだ。

「静かにしてないと殺す」

 ナイフをちらつかせながら男が言った。私はぼんやりと、数日前にネットで見た記事を思い出していた。ナイフは刃渡りが何センチであっても不当な目的で所持していれば銃刀法違反になるらしい。このナイフはキャンプ用品としても使われるようなもので、刃渡りは十センチもないだろう。男は荒い息を私に吹きかけながら、私の下半身に手を伸ばした。

 静かにしていなければ殺すと男は言った。でも叫んで、抵抗するべきだと私は判断した。このまま私はこの男に襲われるだろう。紛れもない犯罪行為。犯罪は法で裁かれるべきだ。そのためにはまず、この男が捕まる必要がある。叫んでも人通りが少ないこの道では気付いてもらえないだろう。けれど抵抗したという事実を残さなければならない。この汚く卑劣な男が、抵抗しなかったから同意の下だっただなんて主張するのは絶対に(ゆる)さない。私をそんな風に汚されてたまるものか。

 出来るだけ大声で叫んで、暴れろ。男の体に引っ掻き傷でも作れればなおいい。指令を全身に送る。別に私は悲鳴を上げる必要などなかった。私は、男が捕まった後のことを考えてひたすら叫んだ。男がナイフを突きつけて私の口を(ふさ)ぐ。怯えた表情を顔に貼り付けてやると、男はにたりと気持ちの悪い笑みを浮かべて私を犯した。

 痛かったが泣き叫ぶほどのものでもなく、もちろん快楽など微塵もなかった。男は気味の悪い笑顔のまま、女を支配しているという事実に酔っているようだった。けれど私の悲鳴も抵抗も怯えも全部演技だ。ご愁傷様。人選が悪かった、と手が後ろに回ってから悔いればいい。私はただひたすら、悲鳴と抵抗が単調にならないように工夫しながら解放されるのを待った。

 男は事が終わると、私に黒いビデオカメラを突きつけて「誰にも言うな」と言ってその場を後にした。そんな映像が脅しになるわけがない。それは紛れもなく男の犯罪の証拠なのだから。私は簡単に服を整えて立ち上がる。このまま警察に駆け込む前に、手を打たなければならないことがある。

 そこから一番近い産婦人科に駆け込んで、怯えてパニックになっている振りをしたら、ただならぬ様子を察して手早く処置がなされた。警察にも自分で行くつもりだったが、看護師さんが処置中に連絡してくれた。

 それから程なくして、あの男は逮捕された。他にも被害者がいたことはそのときに知った。男が逮捕された瞬間、私は数年間続いていた連続婦女暴行事件の最後の被害者となったのだ。

 それから程なくして、男が撮りためていた映像がネットに流出した。押収されていたはずのものが流出したせいで、秘密裏に処理されていたはずの事件が一気に明るみに出た。その映像の中には私もしっかりと映っていて、たまたまそれを見つけてしまった同級生が友人に話したのをきっかけとして私が被害者であることは学校中に広がっていった。

 私はあんな男に汚されたりしないはずだった。私は最善を尽くして、私に危害を加えた男に合法的に裁きを与えることに成功したのだ。映像の流出だって何の痛手にもならなかった。あの男の卑劣さを知らしめてやることができたのだ。むしろ好都合だったとさえ言える。私は私を褒めてやりたいと思った。私は勝利したのだ。敵将の首を持って凱旋する戦士のような高揚感すら抱いていた。

 しかし私の勝利を褒め称える人は誰もいなかった。それどころか被害者として扱われ、良識的な大人や同級生たちに同情され気を遣われる度に、私の中の白い部分はどんどん黒いものに侵蝕されていった。


 そうして白い部分を完全に失った私は、あの日、自分を終わらせるために屋上に立ったのだ。


     *


「ありがとう、るる」

 真っ白だった頃にはもう戻れない。このまま生き続けても黒く汚されていく一方で、決して漂白されたりはしないだろう。だから私は私を終わらせることにした。その前にるるに協力することを決めたのは、あそこで死ねば、私はあの事件の傷で死んだことになってしまうと思ったからだ。るるという異物と関わることで、あの事件の被害者という要素の上に別の色を重ねたかった。

 私は、死ぬためにるるとの撮影を続けてきた。そろそろ仕上げの時期だ。るるが引いた絵コンテに沿うように、私の計画も進んでいる。十三階段の向こうに行けば、これ以上汚されることはない。

「さっき水原先生にも言ったけれど、全ての責任は私が取るわ。……真帆の命のことも」

「るる……いつから、わかってたの?」

「出会った段階で真帆は死ぬつもりだった。そんな人がすぐに協力してくれるなんておかしい話じゃない。酷い話よね。もし上手くいったら私に色々降りかかるのに」

「るるが嫌なら、他の方法を考えるよ」

「駄目よ。もう真帆の命は私が引き受けるって決めたんだから。その代わり、私は真帆の傷と、真帆の現在と、真帆の未来の全てを撮るわ」

 るるは私から離れて、屋上の柵に向かって歩き始めた。真珠のように(つや)やかな髪が風に靡いて揺れる。その揺れが大きな旗のはためきのように見えた。

「でも残念ね。真帆にはきっと演技の才能があるわ。もしかしたら違う道も切り開けたのかもしれないのに」

「才能なんてないよ。あったとしても、そっちの道は選ばなかったと思う」

「……そう」

 るるは深く溜息を吐いて、ゆっくりと振り返った。引き絞られた弓のように張り詰めた表情で、るるが言う。

「じゃあ、最後のシーンの撮影日を決めましょうか」

 それが私の命日だ。できれば特別でもない、私に何も関係のない日がいい。るるはスマホでカレンダーを確認してから、淡々とその日を告げた。

「いいよ、私の準備はもうできてる」

「その日までに他のシーンを全部撮影して、ほぼ完成ってところまで持っていくから」

 私はもうるるに従うことを決めている。私が言って欲しい言葉をくれたのはるるだけだった。他の人が、わかったふりをして全く理解しようとしなかった私のことを、るるが見つけてくれた。るるが私の全てを撮るというなら、私はそれに協力しよう。それはきっと、何よりも雄弁な私の遺書になる。


     *


 最後の日が決まったその日の放課後は、いつもと違う風が吹いていた。向かい風が時折私のスカーフを揺らしていく。湿った空気を裂くように吹く風の中だと、幾分か呼吸がしやすい。夕方になっても勢いを失わない日差しを避けながら、私は家路を辿っていた。

 白い欄干の橋にさしかかる。前に遺書を投げ捨てた場所だ。もうあのときの紙は残っていないだろうと思って、橋から下を流れる川を覗き込む。

 けれど私の予想に反して、小さな紙片が川岸のコンクリートにへばりついて残ってしまっていた。川の流速が足りなかったのだろう。私は橋を渡って、川べりの階段を使って川に降りる。コンクリートにへばりついていた紙片に書かれていた文字はもう読めなくなっていて、紙の端も少し水に溶けていた。次はどこかに引っかかることがないように、最後の一つを川の流れに乗せる。この先にある海までちゃんと流れていけばいい。

 この先にある海で、最後の撮影が行われるという。海での撮影は、私にとっても都合が良かった。足が付かないところまで歩いて行けばいいだけだ。私はこの川のように迷ったりせず、真っ直ぐに進める。紙片が流れに乗って行くのを確認してから、私は川から上がった。

 橋の上からは海が見える。何もない海だ。余計なものはない方がいい。私は絵コンテに書かれていた終盤のシーンを思い起こした。るるの作っている映像に台詞はないけれど、一つだけ何かを喋っている口元を映すらしい。今の私を導く未来の私が口にする言葉。水平線に向かって私はその言葉を口にした。

「――私の色は、私が決める」

 そのためには、水平線の向こう側まで歩いて行かなければならない。白いスカーフが海からの風に靡いていた。



 家に帰るとすぐに制服を脱いで、スマホを手に取る。部屋着のズボンを片手で穿()きながら、ブラウザを起動した。目をつぶっていてもアクセスできる程に開いたページを読み込む。あの連続婦女暴行事件は映像が流出したことで世間の注目を浴び、犯人の男の情報なども盛んに噂されていた。

 最近はスレッドを賑わせる話題もなく、何も書き込みがない日もあるほどだった。けれど今日は珍しくいくつかの書き込みが増えていた。誰かがどうして流出したのかについて持論を展開したのが、そのきっかけのようだ。

 どうして流出したのかについて、さして興味はない。私が知りたいのは男がどんな裁きを下されるか、ただそれだけだ。役に立たない情報を勢いよくスクロールして読み飛ばす。しかし指が引っかかり、途中で止まってしまった。

 そこには流出した映像のキャプチャ画像が何枚も連なっていた。きっとこの中に私もいるのだろう。今更こんな画像なんて上げなくても、どうせみんな見ているのだ。もう一度スクロールしようとして、私は何かが引っかかって手を止めた。

「これって……」

 左胸の下の三角形の黒子。その特徴的な黒子から思い出されるのは、金城るるに他ならなかった。けれどすぐに(かぶり)を振る。これがるるであるはずがない。キャプチャ画像の二人目の少女の目は日本人離れした緑がかった茶色をしている。るるの瞳は吸い込まれそうな黒だ。だからきっとこれはるるではない。左胸の下にある黒子も、偶然に違いない。

 私は(はや)る鼓動を鎮めてからブラウザを閉じた。でも、あれがもしるるだとしたら、彼女が私の勝利を認めてくれたのも道理かもしれない。同じ事件の被害者なら、気持ちも多少は理解できる。

 でも、あれがるるだとは思えない。るるがあの男に屈するような人間であるはずがない。私にできたことがるるにできなかったなんてあり得ないのだ。私は画面が黒くなったスマホを胸の上で握り締めた。


     *


 次の日の放課後、まだほとんどの人が教室に残っている中にるるが飛び込んできた。遠慮なく上級生の教室に入ってきたるるをクラスメイトたちは好奇と軽蔑が入り交じった目で見ている。るるはそんな視線は全く気にしていないようだ。そもそも見えていないのかもしれない。

「撮影するの?」

「今日は、これから私の家に来て欲しいの」

「るるの家に? どこにあるの?」

 あまり遠いと帰りが遅くなるので行けない。あの事件以来、両親は門限を厳しくしたのだ。そんなことをしたところで白昼堂々襲ってくる人がいれば何の意味もないのに。けれど特に遅くなるような用事もなかったから、結果的に親に従っている。今更それを破って説教で時間を浪費したくはない。

「歩いて十五分よ。衣装が届いたから、一度着てみてほしくて。時間に余裕があれば撮影もしたいわ」

「ああ、衣装ね……」

 今の私とは違う、未来の私。それが登場するシーンを撮り終わる頃には何もかもが終わっているのだ。私はそのことに心を躍らせていた。



 学校を出て、駅とは反対方向に向かう。近くを歩いているほとんどの生徒とはその時点で別々になった。老夫婦が経営している小さな自転車屋の前を通り過ぎて、二番目の角を右に曲がる。かなり狭い道だ。一本隣の広い道沿いには新しい家が建ち並んでいるけれど、私たちが歩いている道には壁の一部をトタンで修復したような古い家がひしめいていた。るるの家はどんな家なのだろうか。新築の白亜の家か、それとも生きたまま廃墟になっているような家なのか。どちらでもおかしくはない。

 狭い道を抜けると、住宅街の見本のような景色が広がった。茶色や灰色や白の、四階建て程のマンションや二階建ての一軒家が配置されている。あまりにも同じような建物が多くて、道に迷ってしまいそうだ。

「ここよ」

 くすんだ白色の似たような外観の一軒家が三軒並んでいる。玄関先に子供のマウンテンバイクがある右端の家。白のワゴンが停まっている真ん中の家。るるが指しているのは、玄関先に空の植木鉢が置いてある左端の家だった。

「入って」

 鍵を開けたるるが言う。おそるおそる入った玄関は朝の慌ただしさを彷彿(ほうふつ)とさせる雑然さだった。私の家も平日の玄関は同じように散らかっている。けれど散らかっている靴の種類の違いが、ここは他人の家だということを主張していた。靴を脱いだ私は、るるの後ろをついて、家のものに体が触れないように歩く。

「今日は夜まで私しかいないから、楽にしていいわよ」

 るるは洗面所で手を洗い、百円ショップで買ったと(おぼ)しき黄緑色のプラスチックのコップでうがいをする。私の家で使っているのは、このコップの色違いだ。コップの隣には誰かのコンタクトケースが無造作に置かれている。ささくれだった指先でなぞられたような感覚が胸に広がった。私は落ち着かない気持ちをなだめるために、るると同じように手を洗う。

 るるの部屋は二階の奥にあった。その途中にあるもう一つの扉は、高校卒業と同時に一人暮らしを始めたるるの姉の部屋らしい。るるに姉がいたとは思わなかった。そもそも両親がどんな人かも想像がつかない。るるは最初から一人で金城るるとして存在していたような気さえしてしまう。

 るるの部屋は、明日にでも引っ越しできそうなほど物がなかった。不安になるほど何もない部屋の片隅に、白い壁に向けられたプロジェクターだけがある。カーテンすらない部屋に剥き出しの西日が差し込んできた。普通の高校生の部屋には服や本などが散乱していたっておかしくない。けれど、この部屋には必要だと思われる寝具や勉強机すら置いていなかった。ここでどうやって生活しているのか全くわからない。

「何か飲む? 確かお茶とコーヒーはあったはずだけど」

「いいよ。それより衣装は?」

「待って」

 るるはクローゼットを開けてワインレッドの大きな紙袋を取り出した。ここから一番近いところにあるデパートの袋だ。クローゼットの中にはさすがに物が置いてあるのが見えたけれど、目を凝らしてみれば、それは何も書かれていない段ボール箱の山だった。

「格好いい服がいいとは思ったのだけど、あまり衣装っぽくても画面から浮いちゃう気がして。これなら普段着の範疇(はんちゅう)だから悪くないんじゃないかしら」

 中には白のシャツワンピースと黒のショートパンツと薄手の黒のTシャツと白のくるぶし丈のソックスが入っていた。確かに普段でも着られそうだ。

「風が吹けばマントみたいに靡いていいんじゃないかと思って。どう?」

「いいけど……足結構出るよね、これ」

「水辺のシーンがあるから、わざわざ捲るよりこの方が楽じゃない?」

 合理的な判断なのはわかるけれど、自分の脚の細さに自信があるわけでもない。そう言うと、るるは首を傾げた。

「別に脚の細さなんて求めてないわよ、私は」

 心底不思議そうな顔をされると、私の方が間違っているのだろうかという気分にさせられる。るるはこういう人間だ。同じ年頃の女性なのだから私の気持ちもわかってくれそうなものだが、るるには通用しない。

「どうしても真帆が嫌だって言うなら、考えるけれど」

「いいよ、どうしてもって程じゃないし。これを着ればいいのね」

「着替える前に、ついでだから撮ってもいいからしら」

 一瞬、るるの言葉が処理できずに宙に浮く。るるはすでにスマートフォンを構えていた。その顔には相変わらず花が開いたような無邪気な笑みが浮かんでいる。

「着替えるところまで撮るの?」

「下着姿を撮ろうってわけじゃないわよ。スカーフと傷が撮れればいいわ」

 結局は着替えを撮っていることになるのだけれど、冷静に思い直してみればそこまで嫌がるようなことでもなかった。この映像がどう使われようが、それはるるの自由だ。その方がいい。るるのスマートフォンが録画開始を告げる軽快な音を奏でた後、私はゆっくりと白いスカーフを外した。床に落としたそれをるるのスマホが撮影しているのを見ながら、いつも家でやっているように適当に制服を脱ぎ捨てた。

「これで撮れる?」

「ええ、十分よ」

 るるが笑って私に少し近付く。カメラは私の左腕だけを見つめていた。るるはどうして私の傷を撮りたいなどと言ったのだろう。新しい傷と古い傷が入り交じった腕は綺麗とはとても言いがたい。るるはそこに何を見出しているのか。それを聞くこともできず、私はがらんどうの部屋をぼんやりと眺めていた。空っぽの箱のような部屋は、持ち主の心を伝えてくれはしない。骨壺の中のように白くて、静かだ。

 撮影が終わったので衣装に着替える。るるの部屋について考えるのはやめにすることにした。考えたってわかるはずがない。適当な憶測で決めつけたくもない。るるにはるるの考えがあって、部屋に何も置いていないのだ。それは他人である私には関係のないことだ。余計な考えを振り払って、貼り付いた袖を指で開きながら衣装を身につけると、不思議と背筋が伸びるような気がした。これは未来の私の衣装。るるが決めた設定に、るるが選んだ衣装だけれど、私のものだと自信を持って言えた。背伸びして買った新しい服を初めて着るときのような気恥ずかしさと、服に合わせて自分が少しだけ成長したような気分の良さが入り交じって体中に広がった。

「似合ってるわね、真帆。でも何か足りないわね……」

「何か?」

「そうだ、未来の自分のところだけお化粧するのはどう?」

「でも私、化粧道具とか全然持ってないけど」

 確かに未来の自分なのだから化粧をしていても不自然ではないし、その方が少し大人びて見えもするだろう。けれどそういう類のものはせいぜいリップクリームくらいしか持っていない。

「私のを貸してあげる。唇だけでも様になるわよ」

 るるはスカートのポケットから白いケースの口紅を取り出した。るるが蓋を外して中身を繰り出すと、目の醒めるような赤色が見えた。

「動かないでね」

 るるは真剣そのものの顔で私の唇に口紅を塗った。リップクリームを塗ったときとは違う、少し引っ張られているような感覚がある。スマホの黒い画面を鏡代わりにして見てみると、いつもよりも大人びた顔をした私がそこにいた。

 いつもとは違う自分の唇に触れたくて、けれど触れれば口紅が落ちてしまうからできなかった。るるは口紅の蓋を閉めて、再びそれを制服のポケットにしまった。

「よく似合ってるわ、真帆。これで決まりね」

「うん。でも何か唇に違和感があるかな……」

「しばらくしたら慣れるわよ」

 るるが笑って、ポケットにしまった口紅をもう一度取り出して、自分の唇に塗る。唇は色付いていくのに、それがいっそうるるの肌の白さを際立たせていた。上唇と下唇を合わせて口紅を馴染ませると、音を立てて口紅の蓋を閉めた。

「……それで、これからどうするの?」

「せっかくだからもう少し撮影するわ。せっかく化粧もしたし、いい風も吹いてるし。学校に戻るわよ」

 まだ部活をやっている人たちが大勢残っているだろう。私服が禁止されている学校の中で撮影すればかなり目立つ。また水原に小言を言われるかもしれないが、それこそが私の狙いだ。


     *


 絵コンテの写しに付けた印を確認する。今日撮影する予定のものを除けば、あと二つのシーンを残すだけになっていた。最後のシーンの撮影場所はこの街の海。海沿いの道を少し歩いたところに人があまり寄りつかない狭い入り江があるらしい。そこはるるが選んだ場所だけれど、私の密かな条件にも見事に当てはまっている。るるは時折、私の心を読んでいるかのような選択をする。その度に私が演じる未来の私の姿と、るるの姿が重なって見えた。私とるるは似ても似つかないはずなのに。

 今日は土曜日だが、るるの家に泊まることになっている。夜までゆっくり撮影して、最後のシーン以外の編集まで終わらせる予定だという。休日に出歩くのは久しぶりなんだな、と思いながらるるの家の呼び鈴を押した。元々、出歩くのが好きではなかった上に、あの事件以来、外出しようとすると両親が心配してどこに行くのか、いつ帰ってくるのかを聞くようになったので億劫になってしまったのだ。

 けれど今日は、事前にるるが私の両親に掛け合って外泊許可を取り付けてくれたので、こうして堂々と出かけることができている。けれど夜、外で撮影するだとか、今日はるるの両親がいないだとか、本当のことを言ってしまったらきっと許してもらえなかっただろう。

「上がっていいわよ。もう誰もいないから」

「お邪魔します」

 ここにはるるの普段の生活がある。それなのにるるはこの家の雰囲気からも浮いて見える。あの何もない部屋に対して、この家は生活感に溢れた物があまりに多すぎた。おそらく昨日の夜はカレーで、今日の夜もカレーなのだろう。嗅いだことのある二日目のカレーの匂いが微かにする。

「まだ撮影には早いし、編集が終わったところまで見てみる?」

「うん」

 るるが部屋のドアを開けると、既にプロジェクターが準備されていた。るるは床に転がっていたオフホワイトの四角いクッションを抱き、早く隣に座るようにと私を促した。

「昨日、夜中の四時まで編集してたのよ!」

 るるの顔には化粧でも隠し切れていない(くま)が見える。欠伸(あくび)をかみ殺したるるは、白いマニキュアが塗られた指先で目尻に浮かんだ涙を拭った。爪が少し伸び始めているのか、根元に少し薄桃色の部分が見える。

「そんな遅くまでやらなくてもよかったんじゃない? 締切があるわけでもないし」

「でも絶対いいものになる気がして、いてもたってもいられなくて」

 るるは猫のようにスマートフォンのところまで飛んで行って、再生ボタンを押す。まずは最初のシーン。屋上で私が寝ているカットだ。無表情な寝顔に雲の影が落ちて、それが風の動きに合わせて動いていく。顔に掛かった影が消えると同時に私の口角が少しだけ上がった。不敵な笑みにも、悲しげな笑みにも見える顔だ。その表情が何なのかわかる前に画面が暗転して、白い文字が表示された。

「……『untitled(無題)』?」

「そうよ。下手なタイトルはつけない方がいいと思って」

「うん。それがいい」

 題名なんてない方がいい。題名があれば、子供の落書きにしか見えない前衛的な絵だとしても、絵を注視することすらせずに何か理解した気になる人が多いのだ。題名があることで、最後まで見ることもなくわかったつもりになって欲しくはなかった。

 画面が切り替わって、風にはためく白い旗が映し出された。この前衣装で学校に戻ったときに、いい風が吹いているからと、るるが急遽(きゅうきょ)撮影したシーンだ。だから旗も校庭に落ちていた太く(いびつ)な枝に白い布をくくりつけただけのものだ。けれどモノクロに加工されているせいか、それも一つの味になっていた。

 旗の揺らめきに重なるように、今度は制服の白いスカーフが映し出された。シーンとシーンをただ繋ぎ合わせるだけではなく、どう繋ぎ合わせるかもちゃんと考えられているらしい。るるの絵コンテはその部分が省略されているので、見るまでどんなものができるのか予想が付かなかったのだ。

「こんなこともできるんだ」

「アプリを色々いじってたら見つけたのよ」

 画面が切り替わり、灰色の空の下、屋上に立つ私がスクリーン代わりの壁に映し出された。正真正銘、これが全ての始まりだ。私がるると出会ったあの日。るるは画面を食い入るように見つめている。漆黒の瞳は夜の海のようだ。月の光を反射して(きら)めくけれど、その奥に理知的な静かさがある。

 時折、未来の私のカットが一瞬だけ挿入される。逆光で顔がほとんど見えないように撮影されているその姿は、私ではない人のように見えた。未来の私は少しずつ画面の方に振り返っている。一つの映像を切って使っているのだ。凛と佇むその姿に、自分だとわかっていても惹きつけられてしまった。

「真帆、やっぱり演技の才能あるわね」

「そんなことないでしょ」

「撮影始めると表情変わるのよ。気付いてないかもしれないけれど」

 未来の私を演じるときに何を考えていたのか、実はあまり覚えていない。るるの指示通りに動いていたら、いつの間にか終わっていた。私は知らず知らずのうちにるるが作った世界に入り込んでいるのだろう。それが才能なのかどうかはわからないし、おそらく違うだろうと思った。

 映像は雨の屋上で私が踊るシーンにさしかかっていた。白いスカーフを持って踊る自分を改めて見るのは少し気恥ずかしかった。

「もうちょっと雨の粒が上手く撮れたら良かったんだけど」

「スマホのカメラじゃ無理じゃない?」

「じゃあ次は雨も綺麗に映せるカメラを探さないと」

 それはもう私のいない未来の話だ。私の物語は、この撮影が終わるのと同時に幕を閉じる。それはるると出会ったあの日に既に決めたことだ。

 白い壁に映し出される未来の私が、とうとう完全にこちらを見る。しかしその表情を確認する間もなく、映像は屋上のシーンに戻った。

「私このシーン好きよ。楽しかった」

「あれちょっと痛かったんだけど」

 雨の中で踊っている私に、見えないところからペイント弾が飛んでくる。画面に映っていないるるは確かに楽しかったのだろう。私は思ったよりも痛かったし、制服が汚れてしまった。いや、それでも少しは楽しかったのかもしれない。

 未来の私が再び画面に背を向けた。白いシャツワンピースがその動きに合わせて広がる。少しだけ映った私の顔をるるが指差した。

「私、ここがすごくいいと思うの。真帆が少し笑っているみたいに見えて」

「たまたまだと思うけど。そんな指示なかったし」

「そうかもしれないけれど、こういう不敵な笑みって格好いいじゃない。それに話にも合ってるわ」

 私はるるの編集が上手いだけだと思った。偶然撮れたものを見つけ出して繋ぎ合わせ、物語を構築する。そうやってるるが作り上げた世界に、私の体が溶け込んでいくような気がした。水よりもすんなりと体に馴染む世界。一切の汚れを許さない白の国。その中にいるときは少しだけ呼吸が楽になるような気がする。画面を見つめていると、不意にるるが笑った。

「真帆、撮影の時と同じ顔してるわ」

「……るるのせいじゃない?」

「私のせい?」

 るるが首を傾げると白い髪が揺れた。るるは台風の目だ。周囲をかき乱しているのに、中心である彼女のところだけは晴れ渡っている。朱の中にあっても赤くならず白いままのるるに、私は焼けつくような気持ちを感じ始めていた。私はるると違って汚れてしまった。けれどこれ以上は汚れないように、私は私を終わらせて完全な白に戻す。それが今の私にとっては、何よりの救いだった。

「ねぇ、るる。るるはどうして撮影を始めたの?」

「どうしてって?」

「色々あるじゃない。きっかけになった作品とか、そういうの」

 最後に少しだけ、るるのことを知りたくなった。私の人生の最後を預ける人について何も知らない、というのも不安だ、と自分の中で言い訳したけれど、本当はただの好奇心だった。

「きっかけはよく覚えてないわ。でも、撮っていれば安心するからそうしてたの」

 出会ったときに聞いた話と矛盾すると思ったけれど、それは言わないでおいた。当たり障りのない嘘なんて誰でも吐く。この話だって単なる暇つぶしの延長線上のものでしかない。終わりに向かっている今、何もかも結局はどうでもいいものなのだ。

「画面の向こう側の綺麗なものを眺めていたら、自分の中もその綺麗なものでいっぱいになるような気がするの。だから安心するのよ」

 そう言って壁に映る私に手を伸ばす彼女の仕草は、酷く芝居がかって見えた。まるでるるが誰かが撮影した映像の中にいる人のような、そんな錯覚さえ覚える。

「もっと沢山撮影したら、いつか溢れてくれるのかしらね」

 ぽつりとるるが呟いた。きっとそんな日は来ないだろう、と私は冷たく思った。るるもわかっているだろう。この世界に、溢れるほどの綺麗なものなんて存在しないのだ。



 映像を見終わると、先に夕食を摂ることになった。二日目のカレーを温めて皿に盛りつけるだけだ。福神漬けを入れたタッパーがテーブルの中央に置かれる。

「らっきょうはないの?」

「うちでは使わないわね」

「そっか」

 じゃがいもとにんじんと玉ねぎと豚肉の、ごく一般的な家庭のカレーだ。それとるるの取り合わせはどうにも違和感がある。

「いただきます」

 二日目のカレーだけあって、具材に味が染みこんでおいしい。じゃがいもが少し溶け出してしまっているところもいい。人の家の料理を食べるなんて、そういえば初めてだ。今までそういう機会がなかったけれど、案外悪くはないかもしれない。

「ご飯食べて少し休憩したら、少し外で撮影して、それから私は編集するから」

「うん」

「真帆は撮影終わったら自由にしてていいわよ。寝るときは姉さんの部屋を使ってもらえばいいから。布団も用意してあるし」

 不意に、るるの姉はどんな人なんだろうと思った。るるの両親にも会ったことはない。どんな人に育てられたら、るるのようになれるのだろうか。そんなことを思いながらるるがカレーを食べる様子を眺めていると、あることに気が付いた。

「にんじん、嫌いなの?」

「……食べられないわけじゃないのよ」

「食べようか? 私にんじん好きだし」

「本当?」

 目を輝かせる姿は子供のようだ。私は小さめに切られたにんじんをスプーンでるるの皿からすくって、そのまま自分の口に運んだ。


     *


 るるの姉の部屋は、物に溢れた、いたって普通の部屋だった。おそらく小学校の頃から使っていたのであろう学習机の上には写真が入っていないフォトフレームが置かれている。

 るるは自分の部屋で動画の編集をするらしい。明日の朝にはできたものを見る、と意気込んでいた。私はベッドの白いシーツの上に横になり、スマホを取り出した。母親からメールが来ている。るるの家に泊まるのは言ってあるけれど、それでも心配になってしまうようだ。けれどそんな心配ももうじき終わるんだ、と返信ボタンを押しながら思った。

 メールを返信し終わって、ブラウザを開く。このページを開くのもあと数回になるのだろう。それまで何か動きがありそうな気配はなかった。この前見てしまった写真はなるべく見ないように慎重にスクロールする。けれどポップアップ広告を避けようとした瞬間に、その部分がたまたま目に入ってしまった。左胸の下に三つの黒子がある女の子。けれどこれはるるではないとこの前結論づけたはずだ。親指で画像を下へと送って、新たに更新された書き込みを流し読みする。

 今日も特に意味のある書き込みは増えていなかった。スマホの画面を消して、目を閉じる。明日の朝になれば、海で撮影する最後のシーンを除く全てのシーンが完成する。今日見せてもらった部分だけでも予想以上の仕上がりになっていた。どんなものが出来上がるのか。少しだけ胸を躍らせながら私は眠りについた。



 次の日、窓から差し込む太陽の強い光で私は目を覚ました。カーテンを開けたまま寝てしまったので、夏の太陽が直接肌を刺している。起きたばかりの目にその光は眩しすぎて、私はカーテンを閉めて、スマホの画面で時間を確認した。午前十一時。本来の予定であれば、もうとっくに起きて映像の確認をしている時間だった。

 るるが起こしに来ないということは、るるも寝ているのだろう。眠い目を(こす)りながらるるの部屋のドアを開ける。るるは充電コードに繋いだスマホを握り締めたまま床で眠っていた。おおかた昨日作業をしている途中で寝てしまったのだろう。一昨日も四時に寝たと言っていた。さすがに二日連続の夜更かしはつらかったようだ。

「るる、起きて」

 るるの肩を揺り動かすと、寝ぼけた声が聞こえた。けれどまだ目を覚ましてはいないらしい。余程疲れているのだろう。もう一度肩を揺り動かすと、るるが薄目を開いた。

 私はるるの目を見た――しかし、その色を一瞬認識することができなかった。緑がかった茶色の瞳が私を捉えると同時に大きく見開かれる。頭の中できつく張られいた白い糸が弾かれて、高い音を鳴らす。推測に過ぎなかったものが確信に変わった。

 るるはあの連続婦女暴行事件の被害者の一人だ。けれど私に至るまで犯行が続いたということは、おそらく泣き寝入りしたのだろう。そして事件の後、髪の色と瞳の色を変えた。だから私のように、動画が流出した後も被害者であるということが発覚しなかったのだ。

 何を言えばいいのかわからなかった。私はるるが隠したがっているものを見てしまったのだ。きっと私が起きる前に目を覚まして、コンタクトをはめるつもりだったのだろう。けれど寝不足のせいで起きられなかったのだ。

 るるは私が気付いていると言うことにはまだ気付いていない。それなら今は黙っていた方がいいと思った。それはるるのためと言うよりは自分のためだった。少し頭を整理する時間が欲しい。真実だとわかっていても、魚の小骨のように喉に突き刺さってなかなか呑み込めなかった。

「……カラコンだったんだね」

「そうよ。この方が、この髪の色に合うかと思って」

「編集は終わったの?」

 話題を変えると、るるはいつものように笑った。印籠(いんろう)のようにスマホを私の目の前に突き出す。

「バッチリ終わったわ! ご飯食べたら一緒に見るわよ」

「うん。楽しみにしてる」

 ひとまずこの場をやり過ごせたことに、私は安堵の溜息を漏らした。るるの真実を知ってしまったからといってやることは変わらない。だからこのことは文字通り墓場まで持って行くことにした。


     *


 るるからもらった、途中までの動画データを見返す。いよいよ海での撮影は明日に迫っていた。明日で何もかもが終わる。私がこれ以上黒に汚されることはなくなるのだ。

 暗い道を未来の私が海に向かって歩き出し、それを現在の私が追いかけるシーンで動画は終わっている。ここからは海で撮影する二つのシーンを追加するだけだ。

 るるが作り出した未来の私は、とても強い人だった。周りの色に汚されることなく、ただ真っ直ぐ進むことができる人。その風に靡く白い旗で、私を導いてくれる人。それは、私にとってのるるだった。

 けれど、いつものようにスマホで新しい書き込みがないか探す度、私の心がざわめくのも事実だった。あの事件に巻き込まれたるるに何が起こったのか、推測ばかりが頭を埋め尽くしてしまう。勝手に散らばった点を線で繋いでしまおうとする度、私は首を横に振った。私はるるに余計な色を塗りつけたくはなかった。

 るるは私にはできなかったことをやってのけた。私にはその事実だけで十分だった。見た目を変えて、誰にもるるが被害者の一人であることを気付かせなかった。周囲が黒を塗りつけてくる前に、決して汚れることのない白を手に入れたのだ。るるが作る映像だってそうだ。ここにはるるの、真っ白な世界がある。るるが作るものなら、私の全てを伝えることができるだろう。るるになら何もかもを託すことができる。

 きっと、るるは私に最後に残された白だった――あの日、あの屋上でるるに出会えて良かったと、心から思える。

 準備は整った。後はただ前に進むだけだ。るるの描く白い世界を歩んで、私は私を白で覆う。その場所へと誘うように、視界の片隅で制服の白いスカーフが揺れた。


     *


 夏とはいえ、深夜の海はさすがに肌寒かった。そこまで寒くないだろうと高を(くく)っていた私たちは、羽織るものも何も持たずに来てしまったのだ。

「るる、寒くない?」

「このくらいなら何とかなるわ。真帆は?」

「シャツワンピが意外にあったかいから大丈夫」

 口紅を塗った唇にそっと触れてから、スニーカーに衣装のくるぶし丈の白いソックスを詰め込んで波打ち際まで裸足で歩く。そこから今日の撮影は始まる。未来の私が登場する最後の場面だ。るるが木の枝で作られた旗を私に手渡す。しっかりと木の枝を握り締めると、ささくれだった木の皮が(てのひら)を刺激した。

「じゃあ行くわよ」

 るるの合図で、旗を持ったまま海の中に入っていく。今日は満月で、月明かりが黒い海の上に光の道を描いていた。それを辿るように、未来の私は前に進んでいく。海の向こうから風が吹いて、旗を揺らした。

 脳裏に描く自分の姿に、るるの姿を重ね合わせる。未来の私は私であって私ではない。るるが作った、白くて綺麗な私だ。

 決められた場所で立ち止まって、振り返る。ここで、私はこの映像で唯一の台詞を口にするのだ。けれど私の声が映像に入れられることはない。ただ口の動きだけを映すだけだとるるは言っていた。

「――私の色は、私が決める」

 るるはどういう思いでこの言葉を決めたのだろう。口に出してしまえばありきたりなのに、私にとってはこんな方法でしか果たせなかったことだ。るるは何を考えたのだろう。同じ事件に巻き込まれて、けれど私とは違う道を辿る中で、この言葉にどんな思いを乗せたのだろう。

 るるが笑顔でピースサインを出して、問題なく撮影が終わったことを告げる。私は歩いてきた道を引き返して岸辺に戻った。

「最高の出来よ」

 るるの目の奥が輝いていた。私の左手を両手で包み込んで、今にも踊り出しそうな勢いだ。

「これで、いよいよ最後のシーンね」

「……うん」

 右手に持った旗をるるに手渡す。少し力を入れすぎていたのか痺れが残っていて、私は何度か拳を握ったり開いたりした。右手が滑らかに動くようになったのを確認してから、私は着替えるために、羽織っていたシャツワンピースを脱いだ。

「……あ」

「どうしたの?」

「寒いんだったら、これ着るといいよ。少しあったかいから」

「ありがとう。真帆は本当に優しいわね」

 優しいのだろうか。そもそも優しい、というのはどういう人のことを言うのか。私にはそれすらもわからなかった。るるが隠していることに触れないのが優しさなのか、それとも知っているということを言っておくべきなのか。もうすぐ死んでしまうのだから、どちらでも構わないのか。

 衣装を全て脱いで、制服に着替える。最後に白いスカーフを巻いて、るるが差し出したメイク落としシートを受け取った。唇を拭うと、これで本当に撮影が終わるんだと改めて実感させられた。もう未来の私は現れない。

「あと、これも返さないと」

 口紅を渡すと、るるは神妙な顔でそれを受け取り、自分の制服のポケットの中にそれをしまった。

「準備はいい?」

「うん、大丈夫」

 水の温度にはもう慣れた。さっき辿ったのと同じ、けれどもう戻らない道を進んでいく。これは私の十三階段だ。

 前の遺書はとっくに捨ててしまったし、新しい遺書は書かなかった。そんなものをわざわざ書いたところで、私に傷を押し付けたい人たちは、存在しない文字を勝手にあぶり出して、自分が納得できる理由を作り出す。あんなことがあったから。あの事件で傷を負って、自棄(やけ)になって死んだのだと言うだろう。それよりはるるが撮った映像の方が雄弁な私の遺書となるはずだ。

 けれど、海の中を進む度に、水深が増す度に、私の足取りは重くなっていった。どんなことがあってもこの計画は変わらないはずだった。誰よりも目立つ存在を利用して、私の印象を書き換える。けれど、塗りたくった色が剥がれ始めていた。

 るるは何を思って、あのとき私を撮ったのか。考えてみれば、るるは私があの事件の被害者だとわかった上で撮影をした。綺麗だった、だけでは済まされない思いがそこにはあったのではないか。私はるるを利用しているつもりで、逆にるるの目的のために動いていたのではないか。そんな考えさえ頭をよぎった。

 こんな余計なことは忘れなければならない。根拠のない推測を並べても、るるを汚すことにしかならないのだ。私は決めたとおりに前に進むだけでいい。るるの真実がどこにあったとしても、それは私が不用意に触れて、自分の色を塗っていいものではない。るるの色は白のままであってほしい。

 足に海藻か何かが絡みついた。あと十数歩で、さっき止まった場所を越える。しかし絡みついたものが私の歩みを遅くしていた。それでもまとわりついたものをかき分けて足を進める。今ここで止まって振り返ってしまえば、塩の柱になってしまう。

 それでも、るると出会ってからの日々が頭の中を巡る。屋上で出会ったあの日。るるがサンドイッチを食べながら撮影しようとしていた日。雨の日の屋上で撮影して、制服を汚して保健室に行ったこと。荷物が一切ないがらんどうの部屋。矢のように通り過ぎた日々が、前から後ろへと流れていく。

 るるは岸辺で私を撮影しているのだろう。画面越しに私を見ながら、彼女は何を考えているのか。凪いでいた私の心に小石が投げ入れられ、波紋が広がっていく。

 そして、とうとう私は足を止めて振り返った。遠くにいると思っていたるるの瞳に近い距離でぶつかる。いつの間にか私の背後を歩いていたらしい。見開かれたるるの目に、私の姿が反射して映っている。

「――どうして」

 るるは絞り出すように言ったあと、二の句が継げないようだった。手に持ったスマホを下ろすこともできず、呆然とした顔で私を見ている。

「るるに聞きたいことがあるの」

 喉が渇いて、口の中に舌が貼り付いている。私はそれを唾液で剥がした。私は心に投げ入れられた小石を呑み込んで、るるを問いただす言葉を口にする。

「るるも、あの事件の被害者なんでしょ?」

 るるが油を差していないブリキの人形のようにぎこちなくスマホを下ろす。録画の終了を知らせる音だけが空中に放られて、るるが数歩後ずさる。そこからは風の音すら聞こえない沈黙が訪れた。るるは何かを言おうとして、口を閉ざす。私はいつまでも待つつもりだ。勝手に自分の解釈を塗りつけないように、るるの言葉で、るるの真実を聞かなければならなかった。

 水を打ったような静けさを破るように、るるが顔を上げる。るるはスマホを一度強く握り締めてから、いつもの声で言った。

「どうしてそう思ったの?」

 るるが後ずさる分だけ、私は前に進む。足に絡みついていたものが一歩を踏み出す度にひとりでに解けていった。

「あの動画のキャプチャ画像を見たの。その中の一人は、るると同じ場所に同じ黒子があって、同じ色の目をしていた」

 るるが足を止め、溜息と同時に空を仰いだ。

「……そこまで見られてるなら、言い逃れはできないわね」

 るるは顔に掛かった髪をかき上げて言う。黒い瞳にはもう私の姿も映っていなかった。

「で、それがどうしたの? 私が被害者だったからって真帆に何か影響あるの?」

 投げやりな口調でるるが吐き捨てる。

「あるよ。私は傷まで撮られたのに、るるは私に何も見せてくれないの?」

 その目を覗き込む。夜の海のような色をした目に一瞬、光が点るのが見えた。るるは虚を突かれたような顔をしている。けれどすぐに俯いて、揺れる水面を見つめた。

「……私は、真帆みたいにはできなかったから」

「私みたいに?」

「真帆は、ちゃんと勝った。真帆が逃げなかったから、あいつは捕まった。――でも、私は」

 るるは誰にも言わなかったのだろうと予想はしていた。大きめの波に押されるように、るるが一歩後ろに下がった。

「私は、逃げたの。どうしようもなくて、何もわからなくなって、ただ真っ黒に塗り潰されるのが嫌で」

 るるがこめかみに手首を押し付けて頭を抱える。白く染めた髪がカーテンのように垂れ下がって、るるの表情はわからなかった。

「あの映像が誰かに見られたら私だってわかってしまうから、見た目も変えて、私は」

「……るる」

「私が逃げなければ、真帆が巻き込まれることだって――」

 私はるるの手首を掴んだ。それを振り払おうと、るるが力を込める。押さえつける私の指先が白くなっていた。ゆっくりとるるの手を頭から引き剥がして、前を向かせる。

「るるは、強いよ」

「真帆……」

「るるは、誰にも汚されない、るるの世界を作ることができた。その髪も、目も、るるが撮る映像も、全部るるが自分で考えてやったことでしょ?」

 私の中で、るるは相変わらず強い光を放っている。本当のことを知っても、それは少しも揺らがなかった。

「るるはちゃんと勝ったんだよ、るるのやり方で」

 るるの目が大きく見開かれて、そこから涙が一筋流れ落ちた。白く染められた髪に触れると、るるが小さく笑う。

「ありがとう、真帆。やっぱり真帆は強いわね」

「るる。……もう一つ聞きたいことがあるんだけど」

「何?」

「あのとき、屋上で私を撮ったのは偶然? それとも――」

 るるが笑う。答えは予想が付いていた。るるの目が細められて、形のいい唇がゆっくりと動く。

「ずっと、真帆のことは気にしていたのよ。真帆が死のうとしているのがわかって、撮らなきゃいけない、と思ったの」

「そっか、よかった」

「どういうこと?」

 偶然でも、必然でも、私の望みは変わらない。少しだけ、必然だったらいいと思っていただけだ。私は目を閉じて静かに息を吐ききってから、自分の制服のスカーフに手を伸ばした。

「真帆?」

 スカーフを外して、セーラー服のチャックも下ろす。制服を全部脱いで下着姿になった私は、るるに自分の制服を突き出した。

「交換するの。るるも脱いで」

「わかったわ」

 るるはまず、羽織っていた白いシャツワンピースを脱ぐ。それから私と同じようにスカーフを外し、制服を脱いで下着だけになった。胸の下にある三つの黒子がはっきりと見えた。

 るるが私の、私がるるの制服を着る。脱いだばかりの制服には、るるの温もりが微かに残っていた。るるの制服はまるで最初から自分のもののように肌に馴染む。るるは制服の中に入り込んだ髪を外に出して、両手を胸に当てた。

「不思議ね。自分の制服よりしっくりくるわ」

「うん、私も」

 スカーフはもともと自分が使っていたものを巻き直す。るるは緑で、私は白だ。

「ねぇ、るる」

 るるは言った。このスカーフがまるで自由を求める人たちを導く旗手が持つ旗のように見えた、と。これは単なる制服のスカーフで、私以外にも二年生なら皆がこれを身につけている。これが旗になるのは、るるが作り出した美しい世界の中だけだ。

「るるの撮影に付き合うのは、楽しかった。るるの作ったものは、私に白をくれたの」

 一度汚されて、元に戻らなくなってしまった私の白。けれど私はるるの映像の中でなら呼吸ができた。幾重にも塗りつけられた重油のようなどす黒い色を、るるの白が塗り替えた。

「私も楽しかったわよ、真帆。あなたがいたから『untitled』は生まれた。真帆が私の手を引いてくれたの」

 私は頷く。私は一度真っ黒に汚されて、これ以上汚れないために、少しでも白を取り戻すために、るるを利用してから死のうとしていた。けれどそんなことをしたって、心配していると言いながら私に黒を塗りつける人たちは、きっとまた勝手な解釈をして、私の死を黒く汚すだろう。

 けれど、るると一緒にいれば、るるが作る世界の中で生きられるなら、私はるるの色で白に戻ることができる。それは砂糖でできたまやかしの城のようなものかもしれないけれど、それで構わない。

 最後に白いシャツワンピースを羽織って、るるを見つめる。そのとき、水平線から顔を出した太陽が、水面を赤く染めた。太陽の色はじわじわと広がっていき、私たちの顔も同じ色に変えていく。

 るるに話し掛けようと口を開いた瞬間、制服のポケットに固いものが入っていることに気付いた。そっと取り出すと、それはるるに返したはずの口紅だった。

「るる」

 首を傾げたるるの頬に手を添えて、口紅の色をるるの唇に乗せていく。これはるるから借りた口紅であり、未来の私が塗っていたものでもある。私は口紅の蓋を閉めて、るるにそれを差し出した。

「私を撮って。――これからも、それが必要なくなるまで」

 るるが描く世界の中でなら、私は白くいられるだろう。るるは答えの代わりに、口紅を受け取り、私の唇にそれを塗った。最初に塗られたときは引っ張られるような感覚があった。今もそれは変わらない。けれどその感覚に安堵している自分が確かに存在していた。

 るるがスマホを構える。カメラが向けられた瞬間に、私の周りに白が広がった。



     *


「じゃあ、次のシーン撮る前に少し休憩しましょうか」

 海での撮影が終わってから数ヶ月。私たちの撮影は未だに続けられていた。十分弱の映像だった『untitled』は既に三十分を超える長さになっている。るるの機材もそれにともなって増えていき、空っぽだったるるの部屋は少しずつ埋め尽くされていった。るるの部屋に獣道のような導線ができた頃、あの事件の犯人に何らかの判決が下されたらしいけれど、もうそんなことはどうでも良かった。私たちの撮影に口を出す人も少なくなった。飽きたか諦めたかのどちらかだろう。

「それで、冬休みの予定だけど」

「補習以外は全部空いてるよ」

「それなら、行きたい場所があるの」

 るるは山と積まれた本の中から、一冊の写真集を取り出してきた。付箋が貼られたページを開くと、映画に出てきそうな幻想的な滝の写真が大きく載っていた。

「一番いいのは日の出の時間帯らしいから、泊まりがけになるのだけど」

「じゃあ、泊まる場所探さないと」

 冬休み期間は大勢の人が旅行に出かけるから、ホテルが取れるかどうかが心配だ。この前るるが買ったビーズクッションにもたれながら、予約サイトを見る。

「まあ、ツイン一室ならいけそうな感じかな」

「よかったわ。じゃあ滝だけじゃもったいないから、他にもいい場所がないか探さないと」

「あ、これなんてどう? 近くにポピー畑があるらしいよ」

 スマホの画面を見せると、るるが思わぬ食いつきを見せた。口紅を塗った唇が笑みの形になる。

「でも駅から遠いわね、ここ」

「いいじゃない。時間はあるんだし」

「それもそうね」

 冬休みの予定で手帳を埋め尽くしてから、撮影が再開される。るるが私の唇に口紅を塗り直して、窓際に立つように言った。

「じゃあ、行くわよ」

 カメラ越しのるるに見つめられながら、私はるるが定めた私を演じる。それは私とは違う自分なのに、不思議と自分自身よりも体に馴染む。裸でいるよりも服を着ていた方が安心するのにも似ている気がした。

 指先まで神経を使って、るるの世界を具現化する。それが今の私の全てだ。るるの世界を演じることで私は白を手に入れる。そしてるるはその映像を見て白を手にする。いつか私たちが完全に白になる日まで、この撮影は続くのだろう。


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