この物語に、名前をつける人間はもういない
「よお、偏屈魔女」
「これはこれは、ご機嫌いかがかな? 無能科学者」
あるところに、魔女と科学者がいた。この二人は大変仲が良く、顔を合わせれば嫌味の言い合い、科学と魔法のどちらが優れているかの議論は尽きなかった。
科学者の彼が魔法のバカバカしさをからかえば、魔女の彼女は科学が無知であると笑ったものだ。
さて、研究室のビーカーにコーヒーが注がれ、森の一軒家に紅茶の香りが漂うたびに、彼と彼女は薄々と感じ始めることをどちらともなしに話すようになった。
曰く、『人間を作ることができるのは、科学か魔法か』。
「科学に決まっている。今や擬似的空間を作り、遠くの星への移住者も送り出しているのは科学だからだ」
「魔法でしょう? なぜならあなたたち凡人ができないことを、魔法はすべてこなしてきたのだから」
魔女が空を飛んで研究室の窓をたたき、科学者が森に車を走らせる。それが気温も星も一巡り二巡りとする間続いても、議論に決着はつかず。
では実際に作ってみようと動き出したのは二人が同じ家に住むようになってすぐのことだった。
「人工骨格、人工筋肉、人工内臓。すべての人間の器官を人工で作り出した。こいつはプログラムで動く……いわば『心』を持たない人間だ」
すべてが人工物で構成された、『心』以外は限りなく人間を真似したロボット。それが科学者の答えだ。
「喜び、怒り、悲しみ、笑い、弱くて、それでいて誰かに寄り添おうとする。体は『肉体』ではなく人形だけれど、これには心が宿っているわ」
『肉体』がないかわりに、人間の心というものを限りなく模倣した人形。それが魔女の答えだ。
「なんだいそりゃあ、ただのしゃべる人形じゃないか」
「あら、あなたの方こそ、それっぽく振舞うだけのロボットでしょう?」
いつもの議論が始まるかと思いきや、一言しゃべったきりだんまりになった。
二人とも、これで人間が作れたなんて思っちゃいなかったから。
ただその日の夜は、高いワインの栓が開いた。
*
始まりの朝、魔女と科学者は旅立つ前に人形とロボットを引き合わせ、彼らに『人間を目指せ』と言い聞かせた。しわだらけの手と、そこから伝わる暖かさだけが、目指す先に立つ道しるべだった。
「はじめまして、ロボットです」
多少不自然ながらも、人工的に作られた声帯は問題なく言葉を発することができた。人間にあるような機微は表現できず、スピーカーから出ているような無機質な印象を与える声だ。
「あらそう。私はナードゥル、よろしくね」
対して人形はどこからどうやって声を出しているのか、あたりに声を響かせた。まともに解き明かそうとすれば頭がおかしくなるだろうことだけが解明済みだ。
「ナードゥル、あなたと共に人間を目指せること、嬉しく思います」
「私もお友達がいてくれて嬉しいわ、ところであなたに名前はないの?」
「製作者がウィルトヴェックと呼ぶのを一度だけ聞きました」
製作者とは科学者のことで、魔女のライバルではあったが、名付けに関しては照れが出てしまい張り合えなかった。しかしながら、迂闊なつぶやきが自分の製作物の耳に入ったことについぞ気付くことができず、こうして彼の不器用で個人的な願いはロボットと人形に託されることとなる。
「ふーん、いい名前だと思うけど、長いからウィルって呼ぶことにするわ。だってそのほうが人間っぽいでしょ?」
記念すべき最初の会話、記念すべき最初の呼び名、そして記念すべき口癖の始まりであった。彼女はこの先、毎日1回は口にする決まり文句をこの時に得たのだった。
*
青空とそよぐ風の日、さらさらと庭にある桜の葉が揺れていた。枝の低い木だが、それでも足元に心地よい日陰を作っている。
「昼寝をしませんか、人間は心地よいところで寝ることが好きだという情報を得ました」
ウィルは相変わらず不器用な発音で、照りつける日差しの中にくっきりと浮かぶ黒い室内に向けて呼びかける。
「そう、それじゃあ追加で教えてあげるわ。人によっては部屋の中が心地よいことだってあるの。心はさまざまなんだから」
人形は心の多様性にこだわった。それが時折面倒な衝突を起こすこともあったが、数年も経てばうまい付き合い方を覚えていくものだ。
一方でロボットは行動を真似することが多かった。彼はあくまでプログラムで動いており、好んで何かをするということはないはずだが、それでも自然と行動に偏りが生まれていた。
「あなたはそこが心地いいのですか。それはちょうどいい、僕はこの日陰が心地いいから、木の根を枕にしてあなたと話ができますね」
叩きつけるような日差しに照らされる真っ白い壁に浮かぶ、黒い窓。白いお皿のチョコレートは、ぎぃぃ、と融けて中からかわいらしい人形が顔を見せてくれる。
「家に入るときは泥と草を払うこと、寝ぼけて忘れないでね」
皮肉から始まった他愛無い話は、青が赤に、白が赤に変わるまで続いた。
*
しんと冷えた部屋の中、暖炉に薪を組み、火をつける。
パチパチ、ぼうぼうと揺らめく音が、部屋から冷たい静寂を追い払った。
規則正しい足音が近づいてきて、この部屋のドアを開ける。
「おはよう、今日は私の勝ちね」
「今日はいつもより22分14秒早いですね、おはようございます」
「ええ、たまにはこういう気まぐれを起こすことにしてるの。だってその方が人間っぽいでしょう?」
起きてきたばかりのウィルは、全くいつも通りの口調でコーヒーを淹れる。作業していても話は聞いていると知っているナードゥルは暖炉前の揺り椅子で胸を張り、しゃべり始める。
たいした相槌もないが、話は尽きなかったし、炎は暖かい。
*
枯れ葉掃除はウィルの仕事で、焼いた芋を食べるのはナードゥルの仕事だ。一口ごとに違う反応をする彼女を見て、彼は憧れを抱いた。
「それだけ美味しそうにしていただけると、落ち葉を集めたかいがありますね」
「もぐ、そういえば、もぐ。あなたっていつも同じような反応よね、『たまには違う』っていうのはないの?」
「乱数という仕組みを使うことで、気分による行動の違いを表現することはできます」
ランダムな数字を出して、あらかじめ決めてあった『それがいくらだったら何をどうするか』を当てはめて行動を分岐させる仕組みはあったが、彼はあまり使わなかった。物事を決めかねるときに使うものだったために、何事もしっかりと決められる彼には使いどころがわからなかったのである。
「ふーん、それ使ったほうがいいよ。人間には心があるんだから」
「はい、憶えておきます」
プログラムの判断で“微笑んだ”ウィルが、そっと箒で落ち葉を一掻きした。
*
実際のところ、ウィルは人間になれない。
あくまで彼は作られた存在で、感情らしきものを表現しているのは全てプログラムだ。
彼に待つのは劣化からの破損であって、老化からの死ではない。
対して、ナードゥルは超自然的な存在だ。誰の知識にも無い現象を、魔女の経験的手段によって引き起こしている。
もしかしたら、という可能性がナードゥルにはあるのだ。ウィルには無い可能性が。
ナードゥルはそれを理解していたが、決して悟られぬように細心の注意を払っていた。
彼は私と競う立場なのだから。
「ナードゥル? 部屋の明かりを消したままでどうしたんです」
「たまにはそういうのも人間らしいことなのよ」
「はぁ、何だかわかりませんが、食事にしましょう。今日は自信作です」
無邪気なロボットは、何も知らずに暖かいスープを作ってくれていた。
「自信作も何も、あなた失敗なんてしようがないでしょ」
「ええ、ですから乱数を導入してみました」
「料理に使うのはやめてくれないかしら」
その微笑みすらいつか壊れると知って、暗い部屋を出た。
*
ナードゥルは自身の持つ可能性が、ウィルにまで波及しうるのではないかと思い立った。
人形にまがい物とはいえ意思が宿った状態。ここに人間の心を芽生えさせることができたなら、その種をウィルに埋めることで同じように育てることができるのではないかと。
勝算は高い。なにせ、単なる人形ではなく彼こそは限りなく人間に近い肉体を持っているのだ。
むしろ、どうして科学者と魔女は共同で一人の人間を作ろうとしなかったのだろうか。科学者が作った肉体に、魔女が意思を埋め込めば、それだけで自分たちよりも人間に近いものが作れたのではないだろうか。
魔女と科学者がそうしなかった理由はわからない。競うことに意味があるのか、それとも、くだらない感傷からくるものか。
考えるのはやめよう、と首を振る。人間らしい仕草はいつも頭の片隅にある。でも心はわからない。
心がわからないから、魔女も科学者も理解することができない。いつか、いつか自分に心が芽生えたときにわかるだろうかと、人形は思いを馳せた。
*
ウィルが部屋の掃除に入ってくる。端っこの埃がどうだとか、ここ数年元気が無いぞとか、そんな事を言いながら。
目を瞑ると、口うるさくお説教をしながら部屋の中を動き回る存在を感じ取れた。それが、ただただ心地よかった。
「ねぇ、ウィル」
「何ですか」
「好き」
説教を切り上げようと適当なことを言ったと思われたのか、ウィルは大きくため息をついてみせた。
「あなたは人間になったのですか」
「んー、たぶんまだ」
「では好きというのは勘違いです。それは人間だけが持つものですから」
話している間にも、掃除の手は緩むことはなく。
「ふーん、じゃあ人間になったらまた言うわ」
「ええ、そのときは信じましょう」
掃除を終えたウィルが部屋を出ていく。扉が閉まれば、心地よかったはずの部屋は冷たく暗い水底に沈んだようだった。
ベッドの上で、息継ぎを求めるようにぽつりと零した。
「わかってるクセに」
人間になんかなれっこないって、わかってるクセに。
*
命令されたから、人間を目指す。
そんな動機では人間とかけ離れているのではないかとウィルは考えていた。
欲求があるはずだ。それも、動物にはない独自のものが。それこそが人間に至るヒント、知ることで大きく人間に近づける。
こういう精神的なものはどちらかと言えばナードゥルのほうが詳しいか、少し話を聞いてみようと彼女の部屋をノックした。
「ナードゥル? まだ寝ていますか?」
返事が無いので部屋の主の許可なく入室する。彼女はこういうことに怒ってみせることはあるのだが、あまり長続きはしない。怒りの種類や量の管理が苦手なのだ……つまり、本当は怒ってなどいない。
山奥の滝のように何でも水に流す彼女だったが、今日に限って言えば雪解け水がつくる静謐な池のように何の反応もない。ただ、そこにあるだけ。
「ナードゥル?」
名前を呼ぶことは無意味だ、彼女は何も聞いていない。
肩を揺することは無意味だ、彼女は何も感じていない。
目を覗き込むのは無意味だ、彼女は何も……。
「っ!」
はじかれたように離れる。何も見えていない彼女の目が鏡のように映した自分の顔に、ひどい嫌悪感を抱いてしまったからだ。
グラスアイ、人間に似ているだけの瞳。なのに、覗き込んだ自分こそが作り物だと突きつけられるようだった。
「僕はウィルトヴェック」
確認するように、言い聞かせるようにつぶやく。製作者から一度だけ呼ばれた名を。
「人に似せた作り物、ただし、人間を目指している。感情を取得しようとしている」
この動悸はプログラムによるものだ。作り物の緊張、動揺、それらで感情を表現しようとしている。
人間になるために。胸を張って、自分は人間だというために。
それはなぜだったか、今、目の前で動きを止めた彼女だったら知っていただろうか。
動くことをやめてしまったナードゥルの前で、同じように硬直していたウィルは、日が一度沈み、そしてまた上ると、再び動き出した。
*
ナードゥルが停止して1日目、彼女の食事を用意した。無駄になった。
10日目、彼女は人形ゆえに、食事を必要としない。しかし彼女は食事が好きだった。食卓を囲っているとき、笑ってくれていた。
100日目、日課となったように彼女の身体を拭く。丁寧に、ゆっくりと時間をかけて。夏の日、外に出たがらなかったことを思い出した。
1000日目、まだ目を覚まさない。
10年目、彼女は人形だ、まだ死んでいない。
エラーで時計が初期化されてしまった、暑い夏の日だが、今日から1月1日だ。窓辺に立ち、まぶしく入り込む外の景色を見つめる。桜の木の根元、濃い影の落ちたそこから、かつて彼女に話しかけたことがあったはずだ。
何回目かの1月1日、外には雪が積もっている。まっさらな雪原に足跡をつける者はいない。
*
ナードゥルが眠るベッドの横に座り、彼女の手を握る。
時間には精密な自負があった。何せ人工物の身体とそれを動かすプログラムで出来たロボットなのだ。時間について秒単位でものを言えば、ナードゥルは「人間らしくない!」と叱ってきた。
しかし、もはや今がいつなのか分からない。思い出が何年前なのかも。全く、カレンダーを忘れるなんて人間らしいではないか。
そんなに人間らしいところを見せれば、彼女は悔しがるだろうか、それとも「まあまあやるんじゃない?」なんて負け惜しみを言ってくれるだろうか。
彼女の手をさする指が、湿り気に引っかかった。雨漏りだろうか?
屋根は毎年補修しているし、たまにくる1月1日にもチェックしていたはずだ。いよいよ時間の感覚が消え去ったか。
ぱたぱた、彼女の白い作り物の手に、水滴が落ちるのを見た。
この部屋が雨漏りするのはまずい。
一度物置に向かい、脚立を持ってくる。天井を調べたが、雨漏りの箇所は見つからない。
首をかしげながら、しかしどうすることも出来ずに脚立を物置に戻す。すると脚立を置いた手に水滴が落ちた。物置にまで雨漏りが起きている。補修を繰り返したこの家も、いよいよ駄目になってしまっただろうか。
家の中をうろついてみたが、そこかしこに水滴が落ちていた。彼女と囲んだ食卓、急かされながら立ったキッチン、冬に二人で並んだ暖炉、彼女がよく遊びにきてくれた自室、難しいものばかりだと文句を言われた本棚、出迎えてくれた玄関、廊下に無意味に転がったこともあった、いや、階段を転がり落ちた後だったか。
雨漏りはあきらめて、彼女の眠る部屋へと戻った。
彼女は変わらず眠り続けている。
*
また手を取り、祈るように頭を垂れた。ぱたぱた、ぱたぱたと、雫が落ちるのを止められない。
雨漏りは、自身の目から来ていることにウィルが気付いたのはこの時だった。だが、両目からとめどなく溢れる体温と同じ温度の水に何という名がついているかくらい、よく知っている。
指先で涙を払っても、次から次へと溢れて止めることができない。自分が涙を流していると自覚した瞬間、勢いが増したのだ。
目をぎゅっと、これでもかと強く瞑り、その上から両手で押さえつける。指先でかき上げた前髪が鬱陶しい。自然と指は前髪を握りこんだ。
それでも、岩から染み出す湧き水のように、頬を伝って顎に水滴がたまっては床にしたたる。
ウィルはこれ以上どうすればいいかわからなかった。ただ目を瞑った暗闇の中、涙の川を手で止めようともがくだけだった。
溺れる者は藁をも掴むと言ったか、しかし暗い川の中では藁一筋ほどの光明も見えない。
いや、光明が見えないのは彼が目を閉じたからだ、手でまぶたを覆ったからだ。
だから、目の前の人形がぴくりと動いたことに気づかなかった。
ナードゥルが動いたことに気づいたのは、彼女の冷たい手に抱きしめられた時だ。
顔を抑えた手ごと、その胸元に抱き寄せられ、巻き込んだ布団を濡らした。しかし、涙の染みはこれ以上広がることはない。
「おはよ、ごめんね」
久しぶりに声というものを聞いた。いや、今からどれだけ遡ればいいかもわからないほどの間、ずっと無音の中にいたことを自覚した。温度や、光、匂いも失っていた。
彼女の声を聞いた瞬間、すべてが戻ってきた。セミの煩い声が窓から強烈な光とともに入り込んできて、蒸し風呂のような熱気がいきなり部屋の中に満ちた。その中で、懐かしい花の香りが肺いっぱいに入り込み、石のようだった頭の中がほぐれていった。
「寝坊ですよ……だいたい、数千年」
「うん、あなたにフラれたのがショックでふて寝してた」
意識の深い海の底から命からがら戻ってきた彼女は、ふふっ、とこぼれるように笑ってから。
「私は、どうしても人間じゃないけれど、心を真似しただけの偽物だけれど。それでもあなたが泣いてるって思ったら、胸が苦しくなったの」
「……はい」
抱きしめられた頭部に彼女の涙が落ちるのを、ウィルは確かに感じていた。
*
それからの二人は、またかつてのように戻った。
食卓を囲み、他愛ない話で笑いあい、並んで暖炉の火を見つめ、窓越しにまた談笑した。
少し変わったことといえば、ウィルは時間の表現が大雑把になったことと、ナードゥルの口癖が二言目には「好き」と言うようになったことだろうか。
ナードゥルは眠っているように見える意識の底で、ひたすら必死に探していた。ウィルに対する好意の核心を。存在しないはずの心臓が締め付けられる痛みの元を。
そして見つけた、心だけでなく、全身が彼を思っているのだと。意識とも心とも無関係に彼を抱きしめたとき、そう確信した。
ウィルは最初の1月1日時点でその頭の中にあったプログラムが完全に停止していた。彼がその後も動き続けたのは、ひとえに執念だった。執念とはつまり、同居人に帰ってきてほしいと願う、心だった。
体は到底人間とは言えない、でももう二人はお互いを否定しない。自分も相手も人間だと思って接している。なぜなら、自分たちには心があるのだから。
二人は、心と共にあるものを得たことに気づいた。人間が、心と同じように持っているもの。それが二人の作り物だったはずの体を少しずつ鈍くしていっていることにも。
長く暮らしたある冬の日、暖炉に火を入れ、ソファに二人で座る。お互いが体重を支えあうように寄りかかる。パキパキと火の燃える音と、ゆらめく光を眺めた。長い長い思い出話と、一人ぼっちだったウィルの愚痴と、ナードゥルのささやきが、部屋の中に二人にしか見えない鮮やかな光景を作り上げた。
やがて暖炉脇の薪が最後の一本となり、それをウィルが火に放り込んだ後、暖かい光に照らされながら二人は死んだ。眠るようではあったが、間違いなく死だった。
この二人の物語に、名前をつける人間はもういない。
だが死ぬ間際、数千年を経た二人は同じことを思い、つぶやいた。
『いい人生だった』と。