カゲワズライ
ブザーが鳴る。
客席照明のフェードアウト。
幕が上がる。
「戻りました!」
舞台照明のフェードインとともに、若いスーツ姿に黒鞄を手に下げた男が下手から舞台上へ入ってくる。年齢は三十手前、身長は百八十程もあるか。黒髪をオールバックにセットしている。しかし、不審な雰囲気はない。スポーツマンのような爽やかさを醸し出している。彼が結城一郎だ。
舞台のセットはオフィス。灰色の壁に観葉植物、オフィスデスクが七つ置かれている。塊に、島になった六つのデスクにはその主の姿は見えない。そこから少し離れた場所に置かれたデスクには、もう一人スーツ姿の男が座っている。しかし年齢は四十から五十、身長は定かではないが猫背のため小さく見える。頭は若干薄くなっており、手に持った書類を見るために老眼鏡を額まで上げて近づけたり遠ざけたりしていた。デスクの上には「課長 足立」の三角札。結城一郎の上司の足立徹である。
「課長! 課長!」
そういいながら、結城は徹のもとへ駆け寄りながら、手に持った黒鞄からクリアファイルを取り出した。
「おお、結城君。戻っていたのか」
「戻っていたのかじゃないですよ課長! 契約取れましたよ、一心建設との契約!」
「なに⁉ 本当か、本当なのか結城君!」
徹はバンと机を叩き、椅子をひっくり返す勢いで立ち上がる。
「はい、これが契約書です」
結城からクリアファイルを受け取る。
「ほう……ほう……これはすごい! あの一心建設とこの条件で契約をとってこれるなんてなあ! さすがは我が営業課のエースだ!」
バンバンと音が鳴るほどに結城の背を叩く。それを笑いながら受け止めているが、途中でせき込んでしまう。それをみて叩くのをやめる徹。
「いやいやエースなんてそんな」
「まあ、まあまあまあ座りなさい。そうだ、コーヒーでも淹れよう」
徹はクリアファイルを結城に渡して、上手へはける。しかしすぐに戻ってきて、
「君は座っていなさい」
誰かの椅子を自分のデスクの前においてまたそそくさと出て行った。結城はそれをみて少しためらったように頭を振るが、仕方ないとでもいうように座る。
「……よし、自分でいうのもなんだけど、これはなかなかすごいぞ!」
ガッツポーズ。
上手から足立がカップを二つ持って出てくる。
「結城君お待たせ。それじゃあ君の武勇伝を聞かせてくれないか」
「あ、ありがとうございます。武勇伝なんてそんな……」
「いやいや、こんな中小が一心建設なんて大手と直接契約をとって」
ずずず、とコーヒーを飲みながら、徹は結城と向かい合うようにデスクを挟んで座る。
「それがそうでもなかったんです。実はいま一心建設はデザインを任せてる事務所ともめていて、うちのデザインと契約料の安さをうったら」
「でも、あそこはなかなか契約取れないことで有名じゃないか」
「いやー確かになかなか気難しい人だったんですけど、僕と同じ横浜市出身だったんですよ。それで、マノリスファンだっていうから盛り上がっちゃって盛り上がっちゃって」
「はあーなるほどねえ。いや、だとしても君の営業の腕はさすがだ! 今日はもう帰るかい?」
結城は背筋をピンと伸ばして、
「いえ、残ってる仕事もありますので、できるだけ終わらせて帰ります」
「そうかそうか。ありがたいが、たまにはほどほどでも構わないんだよ? 確かもうすぐ入籍するんだろう?」
照れ笑いをしながら、結城はほほをかく。
「ええ、まあ……。実は子供もできたかもしれなくて」
「本当かい⁉ それはますますめでたいなあ。いや、君にはぜひ円満な家庭を気付いてほしいもんだ! おかわりいるかい?」
「そんな、自分で淹れてきますよ」
「あ、そう?」
手で徹を制して、椅子を立ちカップを片手に上手へ掃ける。
「いやあでも本当に一心建設からとってくるとはなあ」
徹がコーヒーをすすりながら結城の契約書を見ていると、下手から
「戻りました」
と声がして、男女が入ってくる。どちらも二十代前半。男の方は身長が一六五で童顔であり幼さを感じさせる。女の方はヒールを入れれば一七〇はある。長い黒髪にウェーブをかけて一つに束ねていて大人びた印象がある。高松慎吾と片山千夏だ。
二人はデスクの近くまで歩いてくる。
「二人ともおかえり。一緒だったのかい?」
「ええ、ちょうど下で高松君と一緒になって」
「僕、お客様からお菓子いただいちゃったんですけど……食べませんか?」
そういうと手に持った白い箱を開ける。
「ははは、高松君はいろんな人に好かれるねえ。この前はマドレーヌもらってきたんだっけ?」
「なんでですかねー。あ、今回はマカロンですよ」
「うっそやった!」
そこで、上手から結城が戻ってくる。
「高松くんと片山さんも帰ってたのか」
「あれ? 結城先輩?」
片山が不思議そうな顔をして首をかしげる。
「さっき、外でご飯食べてませんでしたか?」
「俺が?」
「はい」
「結城さんいつものカレー屋でご飯食べてましたよね?」
マカロンを出しながら慎吾もそういう。
「道路側のカウンターに座ってたから僕たち必死にアピールしたのに、全然気づいてくれなかったじゃないですか」
「いや、それ俺じゃないと思うんだけどなあ」
「えーでも、あの時計とか絶対結城さんだと思ったのに……」
「世界に同じ顔の人間が三人はいる、なんて話もあるしねえ。そんなに気にすることあないんじゃないかな。それよりもらってきたお菓子食べよう」
「そうですね!」
そういってみんなでマカロンを食べる準備をする。
舞台の照明が暗くなる。スポットライトが、上手側にいる結城にだけ当てられる。
結城はしかし、それに気づかず間食の準備に混ざっている。次第にスポットライト以外の照明がなくなっていく。舞台に勇気が一人残されるがそれに気づかない。
スポットライトがフェードアウトする。
暗闇。小さな物音。
場面は変わる。
照明が舞台を照らす。
背景はどこかのマンションの一室のようだ。白い壁に木でできたテーブル。椅子が向かい合うように二つ置かれている。他の家具も木目で統一されており、どこか柔らかい印象を受ける。
女性がいる。白いブラウスに青のスカート。ウェーブのかかった紙をポニーテールにしている。彼女はテーブルの上に食事を用意している。湯気の立ったごはんに焼き鮭、味噌汁、サラダ。
「ただいまー」
下手から結城が登場する。
「あ、おかえりなさい」
パッと顔をあげて、彼女は嬉しそうに勇気を見る。結城の婚約者の村町真波である。
「ごはんできてるよ」
「おお、ありがとう。じゃあ手洗ってくるから、そしたら夕飯にしようか」
「うん」
結城はジャケットと鞄を真波に渡して退場する。その間に真波は鞄を部屋の隅に置いて、ジャケットをハンガーにかける。
「お待たせ、じゃあ食べよう」
結城が戻ってくる。そして二人は向かい合って座る。
「いただきます」
「いただきます」
「そういえば、今日は一郎くんちょっと早かったね」
「いつも通りじゃないか?」
「だってほら、電話で八時くらいになるって言ってたのに、十五分も早い」
「電話?」
「うん。六時くらいに」
箸を動かしながらも、いぶかし気に真波を見る。
「俺、電話なんてしてないぞ?」
「え? だって電話とったら、今日は八時くらいに帰る、って一郎くんの声で」
「それ本当に俺か? なんか間違い電話かなんかじゃないのか?」
「ちがうよーあれは絶対一郎くんの声だったって」
「そういわれても、俺本当に電話なんてしてないんだけどな……」
考え込む結城をよそに、真波は笑顔で酒をつついている。
「このお魚、我ながら素晴らしい出来だと思うんだよね!」
「ああ、おいしいな」
「そう?」
「ああ」
「……ねえ、生返事? おいしくなかった?」
「いや、ぜんぜんそんなことない、おいしい」
結城は慌てて鮭にかぶりつく。
「今日会社でも似たようなことがあってさ」
「似たようなこと?」
「俺に似たやつをカレー屋で見かけたって後輩が言うんだけど、今日はカレー屋に入ってないんだよな。でも顔とか、つけてた時計まで俺と一緒だっていうんだよ」
「へえーすごいね! 一郎くんのファンかな?」
「おいおい、冗談でもそういうこと言うなよ。本当にストーカーだったら……」
「あはは、ごめんごめん。でもこんなことあるんだねー。声とか見た目とかが本当にそっくりな人が一日に二回も現れるなんて」
「でも、その両方とも俺は見てないんだよな」
「なんかさ、こういう妖怪いなかったっけ?」
「妖怪?」
二人は箸を止めてしばらく考えてから、揃って
「ドッペルゲンガーだ!」
といった。
パン、という破裂音とともに照明が落ち、スポットライトで再び結城だけが照らされる。結城は静かに椅子から立ち上がり、客席を見据える。
眉間にはしわが寄り目つきは鋭く、しかしどこか悲し気な雰囲気を纏った結城は、ゆっくりと口を開く。
「俺はこのときのことを、ただの偶然としか思わなかった。部下の見間違いか、彼女の聞き間違いか、あるいは……」
腕を大きく開き、訴えかけるように言葉が流れる。
「とにかく、俺は! このときに危険の一かけらにすら気づかなかった。偶然? そんなものはあり得ない。全ては必然によって成り立っている。神が定めたのか、あるいは宇宙ができたときに決められたのか……。その必然の向かう先を、俺たちが知ることはできない。仕方ない。仕方ないんだ。だが、なにかあったんじゃないのか? 逃れる術はなかったのか? なにか、なにか、なにか……」
結城はその場に崩れ落ちる。そして救いを求めるかのように上を向き、手を伸ばした。
一瞬、照明が強くなる。舞台が光に包まれる。
そして、結城は光とともに消えていく。
ごぽごぽ。
場面は変わる。
舞台の上はオフィスに戻っている。
結城は徹のデスクの前に立って、申し訳なさそうに顔を伏せている。
普段仏のように柔和な徹の顔は今は険しく、目は鋭く結城を糾弾している。
「どうしたんだ? いったい。君らしくもない。こんな初歩的なミスをするなんて」
「申し訳ありません」
「それに、さっきまた黒崎建設からもクレームが入ったんだ。突然電話がかかってきたと思ったら、君の名前で仕様変更を言われたって。それも一つや二つじゃなく白紙撤回同然だというじゃないか」
「……申し訳、ありません」
「どうしてこんなことをしたんだ!」
結城はただ謝り続けている。それを遠巻きに下手側で慎吾と千夏が見ている。
「最近、なんか結城さん変だよね」
「私この間、廊下ですれ違っただけですごい怒鳴られたんだよね。歩き方がなってないとかなんとか。本当にどうしたんだろう」
「結城さん、僕、すごい尊敬してたんだけどな……」
「いいか、結城くん! 私は君に全幅の信頼を寄せていたんだ。君の昇進だって上に掛け合っていたというのに、このままでは昇進どころか減俸になったっておかしくないんだぞ!」
「申し訳ありません」
結城はただひたすらに頭を下げ続ける。
「……言い訳は?」
結城はただ無言で首を振る。
「そうか……なあ結城くん。今日はもう帰りなさい。もし悩みがあるなら相談してくれ。体調が悪いなら休んでくれて構わない。とにかく、いつもの結城君に戻ったら、またここへ来なさい」
「はい……ありがとうございます」
結城はとぼとぼとデスクを離れる。そして舞台の中央で立ち止まり、客席の向こうを見つめる。
照明が消える。スポットライトが当たる。舞台の上で、結城一人が照らされる。
「あの日、そう、あの日だ。高松と片山が俺に似たやつを見かけ、うちには俺の声によく似たやつからの間違い電話が入った。あの日から、俺の周りには『結城一郎』を名乗る『誰か』が現れた。そしてそいつはまるで俺の成功が、幸せが憎いとでもいうように、俺に成りすましては悪事を働くようになった。部下を理由もなく怒鳴りつけ、報告書を改ざんし、取引先には無茶苦茶な電話を掛ける。仕事だけじゃない。真波にもそいつは手を出している。毎日毎日、ちょうど真波が仕事で忙しい時間に電話をかけては彼女の仕事の邪魔をし、一度は直接真波に会っている! そう、俺の知らないところで真波はそいつに会っている! だというのに!」
頭をかきむしる。怒りに体が震えている。「あいつは! 真波は! それが俺でないことに気付かなかったんだ!」
バン、と電気の落ちる音。スポットライトの消滅。一瞬の闇。
そして照明。
背景は町中に代わっている。住宅街の一角。結城はいない。
下手から真波が歩いてくる。手にはスーパーのビニール袋とハンドバッグ。
舞台の中央まで歩いてくると、ふと気になったかのようにビニール袋を開ける。
「トマト、ホウレンソウ、ピーマン、それとパンに……あ、ドレッシング買ってくるの忘れちゃった!」
はあ、とため息をつき、体を反転させる。
「おーい真波!」
上手から結城が走りこむ。
「あれ? 一郎くん、どうしたの?」
「奇遇だな、こんなところで会うなんて」
「え、うん……」
「取引先からの帰りなんだ」
「そうなんだ、お疲れさま!」
「お?」
結城は真波の持っているものに気付く。
「買い物帰り?」
「あ、そうそう! ドレッシング切れてたの買い忘れちゃってさ」
「そうか」
「うん。一郎くん一緒に帰る?」
「いや、一回会社に戻るけど」
「そしたら悪いんだけど、帰りに買ってきてくれないかな?」
両手を合わせてそういう。だがそれを見た結城は突然さげすむような顔になって、
「はあ? 俺、それ仕事帰りだよな?」
「え、うん」
「俺、疲れてるんだよ。取引先の社長が最近の若者は礼儀がないとか覚悟が足りないとかゆとり教育が間違いだとかうだうだいってきやがったせいでよ。そんな俺に、ドレッシング買ってこいだと⁉」
真波は結城の様子に若干身を引いて、腕で自分の体を守るように抱いている。
「ご、ごめんなさい……気づかなくて……」
「なんだって⁉」
「ごめんなさい」
「で? どうすんの?」
「……私が、戻って買ってくるね」
結城はその返答に威張りくさったようにふん、と鼻を鳴らした。
「そう、それでいいんだよ。ああそうだ、今日の夕飯はなに作るんだ?」
「えと、ごはんと、スープと、目玉焼きと、ピーマンの肉詰め……」
「ピーマン⁉」
大げさに、顔に手を当てて天を仰ぐような仕草をする結城。
「ふざけるな!」
と真波をにらみつける。
「俺がピーマン苦手なの知ってるだろう! なのにピーマンの肉詰めだと? それでもお前は俺の婚約者か!」
「ま、前に出したときすごいおいしいって……」
真波は泣きそうな声で答える。
「うるさい! とにかくメニューを変えろ!」
そういい捨てると、結城は大股で真波のそばを通り過ぎる。肩がぶつかり真波が転ぶが、一瞥もくれないままに下手へと消えていった。
転んだ拍子にビニール袋からトマトが転がる。静かに涙を流しながら、慌ててトマトを拾う真波。
上手から、結城が歩いてくる。
そして、地面に座って泣いている真波を見つける。
「真波……? おい真波、どうしたんだ?」
慌てて真波に駆け寄る結城。しかし結城の湯姿に真波はおびえて、
「こ、こないで!」
と思わず叫ぶ。
「真波?」
「い、一郎くん、なんで戻ってきたの? 私また何かした……?」
「なにかって……いや、それよりなんで泣いてるんだよ、こんなところで」
「一郎くんが突き飛ばしたんでしょ!」
「え? いや、ちょっと待ってくれ。何の話だよ」
「さっき突然怒って……」
「さっきって、俺は今まで取引先にいて、さっきやっと解放されたんだぞ?」
「え……?」
結城は真波のそばにしゃがみ、手を貸す。
「とりあえず立ちあがって……何があったんだよ、本当に」
「だからさっき一郎くんが来て……」
真波は多少警戒を緩めたのかおとなしく立ち上がるが、それでも結城に疑いの目を向けている。
「ドレッシングを俺に買わせるのか、とかピーマンは嫌いだっていってるだろ、とか怒り始めて」
「突き飛ばされたのか?」
「うん……」
結城は少し考え込むようにしていたが、だんだんと顔が青くなっていく。
「それ……俺の偽物だ」
「偽物?」
「この間真波に電話を掛けたってやつ! 俺の声で、俺のしてない電話をしたあいつだ!」
「あれは間違い電話じゃ……」
真波は結城をおびえたように見つめている。しかし結城は、目に怒りをたたえながら、唇をかんでうつむいている。
「違った、違ったんだ。あの電話は間違いなんかじゃない。俺を狙って、あいつは電話してきたんだ!」
「な、何の話?」
「真波には心配させたくなくて言ってなかったけど、あの後から俺の周りの人たちの前に現れては迷惑をかけてるんだ。俺の知らないところでそいつは俺に成り代わって、俺の評判を貶めている」
「そんなこと、ありえないよ!」
「あり得るんだよ。現に今、真波は俺によく似たやつに泣かされてただろ」
「それは……でも、あれは絶対に一郎くんだった。性格は違うけど、話し方とか見た目とか、一郎くんと一緒だった!」
結城は苦しそうに顔をゆがめる。
「そうか、そうか……真波にも見分けがつかないんだな」
「え?」
「とにかく、それは俺じゃない。もしくは、もう一人の俺だ」
「もう一人の……?」
「ドッペルゲンガーってやつさ。そういうの俺は信じない方だけど、これはそう考えるしかない。そっくりの他人だとか整形だとかそういうレベルじゃない。みんなそいつを『結城一郎』だと思ってる。真波、お前だってそうだ。お前にすら見分けがつかなかった」
結城は悲しそうに顔を伏せる。真波は結城に手を伸ばそうとするが、空中でその手は止まってしまった。
「……真波、今日は帰れないかもしれない」
「うん」
「いつ帰ってくるかもわからない」
「うん」
「ごめんな」
結城はそういうと、下手へと駆け出し、消えていく。その姿を見届けた真波も、上手へと走り去っていった。
舞台の中央から、どろどろとした黒い液体があふれ出す。地面が黒に染まる。ごぽごぽと。
照明が暗くなっていく。消える。
舞台は闇に包まれる。ごぽごぽという音だけが響いている。
場面が変わる。
背景はビルとビルの間の細い路地。ごみバケツやごみ袋が置かれ、たばこの吸い殻や空き缶がそこら中に転がっている。青い照明で照らされている。夜。
そこへ上手からふらりと結城が現れる。手にはビールの缶。かなり酔うっているようで、千鳥足だ。顔も紅潮している。
「ちくしょう、なんでだ。なんで俺ばっかりがこんな目に……」
ぶつぶつとつぶやきながら、時折ビールを煽る・
「ドッペルゲンガー? ふざけんなよ。結城一郎は! 俺一人だ! 文句があるなら出てこいこのくそ野郎!」
そういってビールの缶を投げる。少し残っていた黄色い液体をまき散らしながら、カンカランと転がっていった。
結城はその場に立ち尽くす。
ごぽごぽ、と音が響く。
「……なんだ?」
結城が目を凝らすと、缶の落ちた場所から黒い液体があふれ出している。
「う、うわ!」
思わずしりもちをつく。黒い液体は人と同じほどの大きさになったと思うと、ずるずると結城に近づいてきた。
「来るな! ば、化け物!」
「化け物じゃあないさ……」
黒い液体が、そう発声する。
「そ、その声、俺の……!」
黒い液体はだんだんと隆起し、人の形になっていく。体が形作られ、その表面を黒い液体が滑り落ち、中から結城一郎が出てきた。
「よう、『結城一郎』」
黒い液体から出てきた結城一郎は、結城と変わらない柔和な笑顔を浮かべている。しかしその眼光にはどこか鋭く、そして暗いものが混じっている。
「ゆ、結城一郎は俺の名前だ!」
「いいや違う! 俺の名前だ!」
激昂する結城一郎。
「それは! 『結城一郎』という名前は、お前が俺から奪ったんだろうが! 忘れもしないぞ。あれは俺が中学の時だ。あの頃の俺は最高だった。金はクラスの片隅で震えている奴から奪えばいい。馬鹿な教師はテストでいい点とって笑顔で取り繕ってりゃあ勝手にいい子だと信じた。何をしても俺は許された! 誰も俺を咎めなかった! 俺はあの時最高の人生を歩んでいたんだそれなのに! お前は突然俺の前に現れた。そして、お前は『結城一郎』にふさわしくないなどと抜かし! 俺の名前を奪ったんだ!」
「何を言ってるんだ、お前は」
その反応に、結城一郎の顔はさらにゆがみ、血を吐くかのような声で結城を責め立てる。「忘れているのか? わからないのか? ならはっきり、低能なお前にもわかるように言ってやる! 初めに影だったのはお前の方だ! 俺が本物の『結城一郎』なんだ!」
「そんなことがあるわけ――」
「しゃべるな!」
地面に転がっている結城に、結城一郎が覆いかぶさる。地面からごぽごぽと黒い液体があふれてくる。
「元いた場所に帰れ! 偽物!」
「やめろ、離せ! 離せええええ!」
結城が叫ぶ。しかしその声は誰に届くこともなく、体はずぶずぶと液体の中へ沈んでいった。
「はあ、はあ、はあ……」
ごぽごぽという音とともに、液体が舞台へと吸い込まれて消える。残された結城一郎は膝をついて、ぜえぜえと息を切らしているが、その顔は喜びに歪んでいる。
「はは、やった、戻ったぞ! 俺の顔だ俺の体だ俺の名前だ! 俺こそが結城一郎だ!」
照明が消える。
結城一郎の笑い声だけがいつまでも続いている。
場面は変わる。
再びオフィス。しかしそこに結城一郎の姿はない。
「課長、書類のチェックお願いします」
「ああ、はいはい。……なあ片山くん」
「なんでしょう?」
「新人君の様子はどうだい?」
「ええ、素直ですし呑み込みも早いですよ。ただ、細かいミスが多いので一人前にはまだまだですね」
肩をすくめて苦笑する片山。
「そうかそうか。まあ貴重な人材だ、ゆっくり育てていけばいい」
そういうと、足立はどこか遠い目でデスクの島を見る。
「人が変わると、デスクの雰囲気も変わるもんだね」
「……ええ、そうですね」
「ふう」
ため息とともに足立は立ち上がって、ポケットからピースを取り出す。
いつの間にかオフィスの外は夕暮れの赤に染まっていて、舞台の上には足立と片山だけが取り残されていた。
「なあ片山くん」
「はい」
「一本、いいかな?」
足立は片山の返答を待たず、煙草を一本咥える。
百円ライターを右手でつける。
舞台が暗くなっていく。
闇の中、ライターの炎だけが、赤く輝いていた。
終幕