7話(歌詞)
あのまだ生まれたてだった頃。僕らは皆、幸せだった。
円を描くように夢、描いてた。……
その先を知らないで。
……
終演の時。
立つ鳥は跡を濁さない。
小さな羽を広げて、彼は――大きく羽ばたく。
月照らす闇の中を自由と思い方向を定めず。
先を求めて。
……愛は黒の空に見えない鳥を見つけて、それが幼きレンを想像させていた。
「『Easy Come……』の歌詞の中で……」
窓から見えるビルの夜景と、ガラスに映る自分の瞳を見た。どちらも温度を感じることはなかった。「レンに聞きたい……」愛の呟きは、窓の向こうの世界に伝わるのだろうか。
「あなたには分かる……?」
誰に語りかけているのかがはっきりとは分からない、迷いとも聞こえる愛の呟きは、届かない。何も残されていない目の前の漆黒のステージには、誰もいない、いなかった。
「何処の部分でしたでしょうか?」
急に現実に引き戻される言葉を返してきたのは案内人の男だった。ずっと愛の傍にいた。いまだ彼の素性は知れていない。
男を改めて見る愛。白のカッターシャツに黒のズボンで、飾らない体質の細身の男。だが何処か落ち着いていて、安心を人に与えてくれる色彩を持っている。
「ベルと、本……」
愛は 、かつて自分が訳した歌詞を記憶の底から掘り起こす。一字一句、正確だと自分では奇妙にも確信をしていた。
『僕は ベルを信じた 信じすぎていた だから離れた どうしようもなく(無力だった)』
「私は、ベルとは……夢なんじゃないかって。決めつけていたの。何となくだったけど……」
『本を開いてごらんなよ 嘘ばっかり書いてやがるから』
「週刊誌のゴシップを見たとか、バッシングでも受けたのかと……勝手に色々と想像してた」
『だまされている だまされて喜んでいる』
「誰も本当のレンの心なんて知らない」
『人生は お飾りなんだ パーティーなんだ』
「人は仮面を被って人生という社会へ出て行くものだと」
『僕も そうなんだ』
「私も……あなたも」
『得やすいものは』
「皆……ただの お飾り」
The one obtained
Easily is destroyed at once
得られたものは すぐに壊される
「レンは、プロには……なれないのね」
愛はクス、と軽く笑った。馬鹿にしたのではない、おかしなことね、と思った途端に自然と笑えてきたのだった。
好きなように歌って好きなように過ごしただけなのに。
社会という鳥籠は彼を捕まえようとするのね。珍しいから。
でも悔しいわ。鳥籠に入らなきゃ、社会では生きていけないの、悔しいわ……。
愛はそんな風にレンのことを思っていた。レンに与えられた立場、境遇、思いを膨らませて、加速していた。思い込みと、想像と、幻想と……そして確信へ、と。
「プロになっても歌は歌えます。彼の好きなように。存分に歌えば、いい……」
と、案内人の男は始め見ていた夜景から目を逸らし、エレベータへと音もなく歩き出した。そして『下』への階ボタンを押した。エレベータは下の階から上昇し、呼ばれて近づいてやって来ている。
「レンを求めて屋上から跳び降りようとも、レンの声に毒されてファンが自殺しようとも」
愛から離れた男の抑揚のない、けれど下へと吐かれ沈みそうな声は、重く愛の耳にも充分に響く。
ジサツ?
愛は眉をひそめていた。そんな事実は全く知らず、だが、しかし確かめるまでとも行かずに愛は胸中へとそっと押し込んだ。男は話し続けていた。
「レンの知る所ではない。ファンがどのような末路になった所で、彼の罪では、ない」
チン、と。音を立ててエレベータは到着した。まだ男の饒舌は止まることがなかった。
「彼の歌詞を知っているんでしょう? ……彼は何と叫びましたか」
愛は言われて即座に脳中の記憶のページを開いていく。ええと、と考えた。
「『壊れ出したら 止まらない、誰か……』」
思い出しながらの言葉と、重なる記憶のなかのレンの幻想。愛とレンの幻の声は、2つがひとつに。その言葉とは――愛のなかで閃きが瞬いた。
Someone, help
誰か、助けて
……
エレベータの入り口が開き、男は愛を気持ちよく招いた。「どうぞ……」
男の大きな片手は入り口の扉に添えられて閉じないように、もう片手は、なかへと愛を導くように添えられた。
男は案内人なのだ。それが男に与えられた唯一の仕事だった。
「……」
しばらく、愛の時間は止められていた。だが、再び愛は動き出す。男に誘われるがまま、与えられた見えない、恐らくは赤のカーペットの道を辿るように……それは当然のように。
愛はゲストで、お客様。今日、この特別な場に招待された、選ばれた――。
「あなたならレンを救えるかもしれないと思いました」
閉ざされようとしている箱の前で、男は言った。
「誰も拾わなかった札入れを持ち主に届けてくれた、あなたなら」
「あれも……?」
今から思えば、と愛は少しずつ顔を赤らめた。何も考えず、何も見えず。愛はレンがレンだとは思いもよらず、気がつかず……普通に追いかけ、普通に話しかけ、普通にお茶をおごってもらい。思い込みだけで過ごした時間――恥ずかしくて、たまらなくなった。
エレベータも同様で、レンの仕掛けか、罠。わざと札入れを落としてファンの子達の動向を確かめたのか? ……それにまんまと釣られたと分かった愛は、両手で顔を隠してしまっていた。赤い顔を隠す仮面を持ち合わせてなどいなかった。
察した男は目を伏せて、愛を見送ることにした。「きっと優しい……あなたなら」
パタン……入り口は閉じられた。
エレベータは、すでに押されていた『一階』へと下降して走り出す。愛ひとりだけを乗せて。僅かに聞こえる機械の音は、うるさくはなかった。むしろ……静かだとさえ思えていた。下へと引っ張られる重力という力を心地よく全身で感じている。
そのなかで愛は、また。レンの幻の声を聞いてしまう。歌声ではない、生々しい声を――。
これで、お礼、終わり。