5話(爆弾)
Easy Come ……
何てことなの……!
愛の大きく見開き切った両の目に、光景が映っている。
向かいのビルの屋上、愛のいるビルより階数が少ないために実現し成り得た、『屋上ステージ』。愛のいるビルの階の目前に――広がっている。
最低限、演奏に必要不可欠な音楽機材と、それを扱う人間たち。
それはキーボードと、ドラムと、ベースギターと、マイクと……バンド『SAKURA』のメンバー。愛のいる位置からは大きく数メートルと距離が離れてはいるが、愛が喉から手が出そうなほど求めている『彼』とは……愛のほぼ真正面と、向かいあって威風堂々と健在していた。
愛は心の中で叫ぶ。
『彼』……“レン”が……! あの、レンが。本物よ、間違いない。確かにレンが、こんな近くに……!
鍵の付いていない窓は、愛が押さえつけてもビクとも動きはしない。叫んだとしても、その叫びは果たしてガラスを越えてレンに届くのかどうか? いや……。
愛は両の手の平をガラスにぴったりと吸いつけて、ただただ釘づけになるばかりだった。
あなたに僕が見えますか
あなたに僕の声が聞こえますか
見えやしない
届きやしない
……
愛は悔しかった。
愛とレイを隔てている、この窓ガラスと距離が、存在がとても憎らしく。
それほどに興奮している愛……吸いつけた手の平は両方とも今度は、固く潰すほど強く握り締められていた。
曲は始まった。
一曲目はデビュー曲だった。愛も当然、知っている――
曲目開始と同時に、ワアアッ! と歓声が怒涛に天井から沸き起こった。「!?」
愛は轟音とも聞き取れた振動に身を竦ませた。縮こまった体がやがてほどけてくると、怖々天井を見上げてみる。天井自体には、何も変哲はなかった。
(さっき賑やかな音か声がしたかと思ったら……そうか、この上って)
愛はやっと理解ができた。自分のいるフロアは、最上階。この上は『屋上』なのだと。そして屋上には恐らく、自分を除くバンドのファンたちがいて、そこから見下ろすようにライブを観ているのだと……。
何故だか自分だけが此処へ連れて来られ、置いてきぼりにされたんだと事情を飲み込めた。自分はレンたちに選ばれて……。
選ばれて?
愛は目を最大限に開いてレンを一心に見つめた。片時も目を離すまい、そう決めていた。しかし、歌うレンは一向に愛と視線を合わすことはなかった。ライブじゅう、ずっとである。それは奇妙なことではないかと、時間が経ち曲目が進むにつれて愛を動揺させていった。
(まさか避けられている……? 何で? 自分たちが私を選んだんじゃないの?)
訳を教えて。自分を選んだ理由をと……。
そんな心の暗中で解釈を模索している勝手な思考のせいで、愛は歌に集中できないでいた。レンは音の波に乗って、その誰もが羨む自慢の声を自由に弾ませている。天性のその声を、複雑に即興で奏でられアレンジされている音の譜に便乗させて。
とてもレン本人は楽しげに、キーボードを叩いているメンバーの所へお邪魔してみたり、ベースギターのシークと同じマイクで歌ってみたり。せっかくの美声も時々わざとなのか裏返ってみたり、ドラム奏者にマイクを渡してみたり、屋上じゅうを走り回ってみたりと。普段は大人しくもあった彼のはずなのだが、今夜はまるで違っていた。大人には見えない。
子どものように、大はしゃぎで。
自由のように奔放で。
彼は……遊んでいる。
そして観客は。
ワアアァァアアア……ッ!
天井から響いていた。恐らくファン総勢98人。愛の頭上、屋上からである。愛からでは全く見えないのだが、地響きかと思われるくらいの歓声。叫び集まりとなった声の群集は、脅威だった。
もし愛もそのなかにいたら。
恐らくは、空気と音の波と勢いと活気と人と、あらゆる考えつくもの何もかも全てに押され潰されてしまうのではないかと思わされるほどに。愛も此処で、レンを含む『SAKURA』のメンバーたちと一緒に合わさってしまって――。
レンと。
音と。
声と。
同調し一体化する、いや。
支配される。
チン。
愛は気がつかなかった。自分の背後で、エレベータの出入り口が開いたことに。
そして。
何者かが、愛に近づいて来たことに……。
……
舞台では曲目が進み夜も時は進んでいく。すでに左右上下からライトアップされていた。
光をも支配しレンは、その作り上げられたイリュージョンのなかでマイクを離さず。気の済むまで歌い暴れ踊り続ける。
髪を掻き上げるたびにファンは興奮し歓声が沸き、片手を突き出せば屋上の手すりを越えそうになってファンというファンが手を同じく、レンを乞い求めている。そんな激情的なショウが続くなか、突然、歌のさなかに全ての照明が音もなく……全て消えた。
(え……?)
突如、月と周囲のビルの頼りない明かりだけになるステージ。もちろんファンは悲鳴を上げた。しかしレンを含めてメンバーは落ち着いている……。
愛も一瞬だけ驚いたが、たぶん演出だと思っていた。何故ならエレベータの事例がある。どうせ何か仕掛けがあるのだろうと思い、冷静だった。次に起きるのは何だろうワクワクと、好奇心が勝ってきていた……愛だった。……
だまされている
だまされて喜んでいる
人生は お飾りなんだ パーティーなんだ
……
……ふと、愛の脳裏にまた蘇ったフレーズだったが、それが予感だとは気がつかず。愛は次に来るレンの言葉を抵抗もなく、無防備に真っ向から受けることになった。
『本日をもって、バンドSAKURAは――解散する』
……ほどよくフィナーレが、そろそろかと思わしき時の舞台に。衝撃という爆弾が炸裂した。あれだけ騒がしかった場は不気味なほどシンと寸秒、静まり返った。
愛も……呼吸を寸時だけ忘れ去ってしまう……。
「イヤアアアアッ……!」
まず女子の誰かが金切り声を上げた。「嘘よおおおお! レェェエンッ!」そしてうるさく続く。
「キャアアアアアッッ!」
断続的に高音は仲間を増やしていき。此処は何処だ、戦場か、それとも亡者の蔓延る灼熱世界の地獄の底なのか……と阿鼻叫喚は散布しファンの悲鳴は暗い空へと広がって伝染していったという。一体、今に何が。愛も、混乱してつられて意味不明を叫びそうだった、その時。
「レンは、才あるが故に不幸だったんです」
抑揚のない声が矢のように貫く。愛は振り向く。
愛の背後3メートルあたりで、案内人の男が何もせず立っていた。愛を通して、バンドのメンバーたちを見つめているらしい。とても優しい目をしていた……。
(才あるが故……?)
愛は半ば麻痺したような頭で男を凝視していた。先ほどのレンの言葉が体から抜け切っていないのだった。男の言葉を耳は素通りしてしまいそうになる。
「どういうことなの……?」
泣きそうになっていく愛の感情などもお見通しで、男の語りは続いていった。
「レンの気まぐれに付き合わせてしまって申し訳ありません。今日の舞台を最後に、レンは音楽界から去るつもりです……これが彼なりのけじめだと。もう今後、表に上がってくることはないだろうと……」
「どうして!」
ついに愛は叫んだ、怒りと悲しみをぶつけて。でもそれだけでは無論、気は治まるはずはない。男は相も変わらず坦々と語っている。
「大手の音楽プロダクションからのいい話が来ました。ただそれは……彼の自由を奪うことになるという条件付きです。詳細はお教えできないので伏せますが、プロへとなる以上。彼は今までのように好き放題に歌うことが困難、またはできなくなるということです……それと」
まだ語っている。
「彼の歌は……公に出すには……危険すぎる」
そんなことを言った。
『危険』……?
愛の背後となっていた、窓の外でレンがマイク越しに言い伝えた。
『次がラストソングだ……聴いてくれ』