4話(ようこそ)
Easy Come ……
遅刻だ。
愛は、焦燥と諦めの狭間にいた。もう開演時間の7時なんてとっくにまわっているんだろう……せっかく自分は余裕を持って家を出て来たというのに、それなのに! ……と、こぶしを握り締めて憤慨している。
愛はビルに戻って来た。そして、突き当たりのエレベータへと直進する。心境は文句のひとつでも直接つけに来たクレーマーと同じである。憤り、興奮。今の愛は、行き場のない悔しさで全身を支配されていた。
エレベータの前には案内人の男がひとりで。
礼儀正しい彼は愛を見て、不満もなく柔らかく微笑んで出迎えている。
「お待ちしていましたよ」
「!」
自分の猪のような突進をにこやかに止められて。一歩後ろへと引き下がってしまった愛。
(待っていた……?)
何のこっちゃと、片方の眉を上げて今さらながらこの男を不審に思った。男の愛を見る目が突然、嫌らしく思えてしまったりする。
「ははは、変な目で見ないで下さいよ。あなたが最後のお客様です……他の皆さん、もう上の階へ行かれましたよ。ささ、乗って下さい。あなたが着くまで、ライブは始まりませんから」
自分が戻って来るまで待ってくれていたというのだろうか。
とにかく、感謝した。愛は開いたエレベータの出入り口からなかへと静かに入っていった。
案内人の男は入っては来ないで、入り口の前に待機していた。すぐに入り口を閉めないのは何故だろうと思っていた矢先、すぐに目の前の光景に目が行った。先ほど愛に、お茶を礼だと称しておごってくれた男が走り寄ってきて、エレベータに乗り込んで来たのだった。
すぐに出入り口が閉まっていく――愛は「あ」と声を上げ、男を凝視した。肩で息をつき、前屈みになって両手を両膝に当てて乱れた呼吸を整えようとしている――男。
愛の視界には、彼のキャップの先端しか見えてはいない。
「ふう、間に合った。早い早い」
やっと声と同時に体を起こす。すると視線が愛と重なった。
「……?」
顔に見覚えがあると思った。愛はそれもあって、また不審な表情を浮かべてしまった。
この狭い箱の空間に2人きり。
男と女……愛はかなりの不安に襲われていた。寒気を隠している。
「俺もライブに行く」
「え」
男は突然そんなことを言い出した。「遠回りだけど」
エレベータは2人を乗せて上へと動き昇り出す。人を運ぶことしか能のない箱……きっとレンならそう言うんだわと、不安の消えない愛は必死にレンのことを考えていた。
レンが自分を護ってくれますようにと……。
「なあ」
「え?」
「お前、小学生の割り算できる?」
男は入り口の方を向いていて、一階ずつ箱が昇る度にパッ、パッ、パッと移り変わっていく階数表示のランプを眺めている。愛は相手の質問の意図が分かりかねて黙っていた。男は言いたいことを言うようにペラペラと口を動かしていく、……それは。
「本日100人限定ライブ」
箱は止まることがなく、指定された通りの階へと向かって上昇する。
「エレベータの定員は、7人」
上昇していく。
「俺らで最後」
止まらない。
「100わる7は?」
チン。
到着の合図だった。
エレベータは2人に知らせていた……着きましたよ、と。
愛が解答を言う前に出入り口は堂々と開いた。到着したんだと思い込んでいた愛は、先に降りてみるが……何故かそこは屋上ではなかったのだった。
(あ、あれ……?)
愛は訳の分からないまま、2歩3歩と自然に進む足が……やがて立ち止まる。呆然としていると背後から声がした。
「ようこそ選ばれたゲスト様」
愛はゆっくりと振り向く……。
男が、箱のなかで突っ立って清々しい顔をしていた。
微かに笑い、……そして。「選ばれた……?」愛の瞳に光がひとつ差し込まれる。閃きという――光が。
男の顔に見覚えがあった。思い出しかけて、ええと……と、頭を捻る。それと相まって、100わる7という計算は、答えは14と……
……あまり2人。
答えはすぐに出た。あまりが2とは、即ち……。
2人とは、愛と……
「レン……!」
その時に。レンの歌が頭のなかで流れて見ている姿と重なる。幻覚だと最初は思っていた。愛は、ああ、まただ、いつも私をからかうかのようにしてレンは……と、背筋を引き締め身を凍らせて幻のなかと実際の彼の姿を重ねて合わせ、まるで聞こえてくる音楽に耳、いっそ傾けていた……
真実は何処
だまされている
だまされて喜んでいる
人生は お飾りなんだ パーティーなんだ
あなたも そうなんだ
……
「窓を見て開演を待ってて。……すぐ行くから」
パタリ……エレベータの出入り口が静かに閉じた。愛だけを階に降ろして。男は……。
「レン……何故……?」
頭のなかが混乱していた。ひとり、残された愛は頭を抱えてしまう。
(一体、私の身に何が起こったの……?)
さっぱり訳が分からないままに、愛は入り口の閉じられたエレベータから屋内の方へと視線を移していた。床は、鉛丹色一色の絨毯が一面に敷かれており、愛はパンプスを履いていたが少し強めに足で床を叩いてみてもほとんど音を吸収してしまっているようだった。歩を進み歩いたが、足音は無にも等しく全くしないという。
愛は天井近くにまで高く大きい外張りの窓ガラスへと向かった。何も考えず……いや、無意識に、といった所でだろうか、そうかもしれない。
すると何処かで、声が微かに聞こえた気がした。間違いなく外からだとは思っていた。だが、しかし……? 正体はつかめない。
愛はあらゆる答えを求めていた。この部屋は、何……? どうして私はあの案内人の男やレンに、こんな所に……連れて来られてしまったの? そう、疑問だけが取り巻いている。
窓際に向かって、ガラス製の天板がのった鉄のひとつ足テーブル。そして白い、オフィスなどで来客用としてよくある普通の2人掛けのソファ。
そこから少し離れてはいたが、邪魔にはならない程度の距離の所に観葉植物のアレカヤシが白い鉢に植えられて置いてあり、リラクセーションの演出効果をもたらしていた。どうぞ、お寛ぎ下さいと言われているように思える。
それ以外に屋内には、何も物は置いてはいなかった。
「……」
心細い愛。
先ほどのレンの姿が、やっと冷静になってきていた愛の頭のなかにまた浮かび上がってきていた。次に、レンの口から放たれた言葉が蘇ってくる。
『窓を見て開演を待ってて』と……彼が言い残して去っていったことを。
「窓を……」
愛は窓際へと寄って行く。すると急に、だった。
ダダダダダダ。
はっきりと、何かを連続で叩く音が聞こえてきていた。愛には聞き覚えのある叩く音。そう、ドラムである、打楽器だ。「!」
向かいのビル!
そう愛は驚いて大口を開けてしまった。
向かいのビルは、今、愛がいるビルより5メートル以上は離れ、建物の高さが低かった。よって愛のいる階の目線では、ちょうど向かいのビルの屋上あたりが位置している造りになっているのだ。
つまり愛の目の前は、隣のビルの屋上『ステージ』となっているのだった。
愛の視界に広がるその屋上『ステージ』には。「……!」
愛には、信じられなかった。
『ステージ』の中央あたりにドラム、ドラム奏者が。ベースギターを抱えた人物、それからキーボード2台を横に並べて待機している、目立たないワイシャツの男。それぞれのポジションに人がいる、それと。
愛には名前の分からない機材一式が暗がりで見える。
ダダダダダダ……
ドラムは、小刻みに軽快そうにただ叩かれる。
ギュワンンッ……
恐らくはベースギター。チューニングでもしているのだろうか。そんな調子の音をさせて。
あとは、一本足のマイクが『ステージ』の中央に堂々と存在する。
愛の心臓が高鳴ってくる。
彼らを知っている――バンド『 SAKURA 』のメンバーだったのだ。
だから当然、あのマイクに立って現れてくれる人物とは、……決まっている。
愛は窓に両の手の平をついた。窓は鍵がついてはいなかった。窓が開こうが開くまいが、今の愛にはどうでもよかった。愛は興奮して、激しく脈打つ心臓が喉から叫びと共に飛び出してきそうになるのに耐えた。頭がおかしくなりそうで。……
やがて『ステージ』に現れた人物。さっき見た格好と同じ人物が、颯爽と登場する。
「レェンン……!」