27話(決断)
深夜1時を過ぎていた。
終電を気にかけていたシークだったが、心配は御無用と理香は優平から指示を受けタクシーを呼ぶ。夜のなかを同じ黒の色でとけ込んで来て、高級感たっぷりのハイグレード車はシークと理香、2人を乗せてまた、見通しの悪い暗いなかを集団と並列にある街灯などのライト頼りに、街へと駆け出して行った。
後部座席に座るシークと理香の2人は何十分という無言の時間を過ごしてはきたのだが、理香の方が静けさを嫌い、シークに話しかけていた。「あのさ、君」
「は?」
寝ぼけたような、知ったことではないと無視をするような、やる気のない返事をしていた。
「さっきの、こちら側が申し出た要求のことだけど……君、どうする気なのかなあ、なんてね……」
愛嬌のある顔をさせながら、理香はシークの機嫌と反応を見て苦笑いをした。夏でもないのに不快指数を表すその顔は、来る者を拒んでいたわけではない、彼にとっての『楽』な姿勢だった。
「さあな……あいつらにも聞いてみないと。こっちの判断だけじゃ決断できない」
後部座席の窓から後方へと流れる景色は単調で、退屈なものだった。道に人もいなければ温かみもなく、24時間開いているコンビニや夜になって役割を果たす街灯の光が走る速度に沿って離れて行った。
理香は、シークに冷えた視線を投げかけていた。
「あなたは、仲間が止めてくれたらやめる? 私たちの方へ来るのを。それとも、止める止めないに関係なく、あなたはこちら側に来るつもりはないのかしら。あなたの運命は、仲間の反応で決まるのかしらね……」
シークに突きつけられた問題が迫っていた。理香に迎えられ、優平たちとともに『M.A.D.E.』事務所へと案内されたシークは、説明を受けて改めて勧誘を受ける。勧誘、即ちそれはギタリスト、音楽家としての本格的なプロ入りの話である。
しかし、それには条件があった、シークに下された『別れ』、『選択』である。
スカウトをしているのはシークだけであって、彼が所属しているバンドのメンバー、マンセイたちを一緒に連れていくことはできないと言い渡される。聞いたシークは何故だ、と聞き返さずにはいられなかった。だが優平は動じることはなく意向も変えず、ガラステーブルに広げられた何枚もの書類の上を指で何度か叩いていた。コン、コン……。落ち着いている優平、そばに立つ理香、来客用のソファに腰かけている葉上、レン。隣でシークは……言葉を失っていた。
(俺だけがプロ入りか……)
優平の見解がシークを混乱に陥れていた。優平の言っていたことを車に揺られて鮮明に思い返されながら、心が揺れていた。車は止まらずに道路を走っている。
理香の冷えた視線は、矛先を変えて、窓の外にと移っていた。
「私たちは真剣よ、お遊びじゃないの。怖がらせるつもりじゃないけど、もしひとつでも事業に失敗でもしたら、多大な迷惑……損失が必ずある。あなたひとりで何とかできる規模のものではないし、下手をすれば死人だって出る。命くらい懸けて真剣にやってもらわないと、こっちとしては困るわけね。ああいう平然に見えて、優平も社長たちも死線を一体幾つ乗り越えてきたことか……」
理香の話は後半に私情というぼやきを挟み、シークに言いたいことを言っていた。
「優平があなたを高く評価した、その期待に応えるのか、それを蹴ってまで連れ添った仲間に固執するのかどうか……決めるのは、あなたよ」
最後に理香の目には、温かさがあった。解凍していったシークの頭のなかから口先へと運びこまれた言葉に、理香は微笑みさえ浮かべるようになる。
シークは尋ねていた。
「聞きたかったことだが……」
「何?」
「何で俺をそんなに高く評価する?」
シークが疑問に思うことには無理もなかった。
「俺は……あの、優平とかいう人とは駅で会ったのが初めてで、それまで面識はないはずだぜ、少なくとも俺は、な。何処で俺のギターを聴いたってんだか、まさか、ライブに来てたのか? 俺にはどうしてもその謎が解けない」
理香は「ああ、それね、それはね……」と、軽く受けて返していた。
「直感といえば直感だけどね。たださ……優平によると」
「?」
何もない上を見上げながら、口元がほころんでいた。
「レンがさ……『どっかで見たことが』あるって言っちゃったのを聞いたか・ら・よ」
「はあ?」
顔をしかめていたシークの反応は理香には面白かったようで、ますます笑いが込み上げてきていた。「あはははは……だからさ」
ほどなく2人を乗せたタクシーは高速へと進入し、ただでさえ寂しく暗い、単調だった風景は、これもますますと黙調になっていった。
「君を高く評価したのは、レンだったということね。普段、外界には自分から見向きもしないあの気まぐれレンの気を惹いた見事で稀なギター演奏、今度私にも聴かせてね」
……シークのなかにふつふつと熱いものが沸き上がってきていた。内情は本人にしか分からないことだが、熱いもの、それは何故沸いてきたものなのか、または何なのかと探ることは本人にとっても小難しく、また分かったとしても素直には認めたくなかったのだろう、顔色を変えず隠していた。
(神……あいつに導かれたみたいだな……)
自分の力量のことなどどうでもよく、『あいつ』の関心を惹いた、そう思い込むことでシークに意志という火は弱くとも点き始めていた。これがシークにとっての2の人生の始まりになろうということは、この時にはまだシーク、彼には思いもしていなかったことなのだろう……。
深夜のタクシーは、シークを家へと無事に届けるために高速を駆けて行く。
整備のされた道路を通り、夜をも突き抜けようと、シークは今後の行く先を腹の内で決めていた。
……
シークは自分が住んでいるマンションに到着するとすぐに、『我狼』メンバーのひとりであるマンセイなる男に携帯から電話をかけていた。深夜3時半、相手が寝ていようがお構いなしといった態度で、シークは「よう……」と擦れた声で呼び出していた。
『何じゃい、こんな夜中に……疲れて寝てんのや、こっちは。んにゃぁ、今帰ったんか、まさかお前?』
かなり寝ぼけた感を出しながら、マンセイはシークに聞き返していた。小型の冷蔵庫を開けて、冷えた缶ビールを出すとシークは、フローリングの床の上に横になり転がっていた。缶ビールは蓋を開けず、手に持ったままで冷たさが神経を伝い、頭に冷静さを運んでくるように感じられていた。
「大事な話なんだが……いいか。俺、あの『M.A.D.E.』にスカウトされた」
用件は、飾りたてなくそのままで相手に伝えられていた。無論のこと、マンセイは素っ頓狂な反応を示していた。『は、……。……なにいい!?』さらに、『“メイド”って、“あっち”の方や……ないよなあ!?』と、混乱を誘う。「“あっち”って……何処だ」シークには通じなかったようで、大真面目に受けていた。
ともかく、ちょっと待ってくれと一度電話から離れ、改めてマンセイはシークから事情を聞いていた。真剣に話をするシークの邪魔をせずに、区切りがつくまで熱心に、マンセイは醒覚させた頭と耳でしっかりと内容をこぼさず……黙って頷き聞いていた。
『そうか……』
聞いた後に答えた言葉は、しばらくの沈黙を迎えている。
立てた缶ビールを同じ床で寝転がっていたシークは……重くなるまぶたに耐えて、見つめていた。
「俺は……どうしたらいいんだろうと……迷った……」
相手の声しか届けない電話に、語りかけるようにシークは、見えない先の結末の所在を探すように……吐露していた。
「でも、やりたいことが見つけられたんだ」
体は疲れていても、眠くはならなかった。
「あいつの後ろで、演奏ができたら」
眠くなるどころか、熱を帯びたものが体から蒸気しつつある。「最高だと」どくどくと、心臓の高鳴りは激しくなっていった。
開けて網戸になっていた窓からは隣のマンションや奥に建つビルが暗い形となって見えている。沈黙や闇夜は今のシークには非常に助けよろしい装いで、冷静さを見失わずにすんでいた。時折、吹く風の音が、ベランダの付近でカタカタと小物を鳴らし、完璧な沈黙を遠ざけてはいた。
『おめでと、シーク』
そのなかで、マンセイの声は電話の向こうから届き、聞こえて続いていた。
『んじゃ、明日っちゅうか、今日からな、シーク』
「ん?」
『来んでええよ、もう。他の連中には言っとく。バイバイや』
それが最後の会話だった。