26話(勧誘)
『2番線に入ります電車は……』
感情の持たないアナウンスは、事務的に案内を繰り返している。帰路への電車へ乗り込むことをすっかりと忘れシークは、ベンチで未だに寝転がっている男に一瞥をくれていた。夜も深くなっていくのだが、帰りたいという気からは遠ざかっていっていた。
男、葉上が場所をとって寝ている横に座ってから、数十分が経過し、電車は何度でも通りすぎて行く。足を組んで腕も組んで、煙草は吸わず、息だけをシークという男はしていた。
一体いつまで、この男たちは此処に居続けているのだろうかと疑問が膨れ上がる時分、ある男の影が迫ってきて、状況に変化をもたらしていた。
「待たせた、レン。行こうか……」
いち早くシークは下げていた顔を上げた、そして声のした方に光を向ける。過敏となった目の光は、現れた男に集中して射す、だが男には残念ながら振り向いてはもらえなかったようだった。
背中が丸く、スーツを堅苦しく着こなしていそうな体格のその男は、明らかに葉上を指して呼んでいた。ただし葉上、という名で呼んではいない、そのことにシークは奇妙感を抱き、人違いではないかと警戒心が立っていた。
(『レン』……? どういうことだ?)
男の口ぶりからして待ち合わせていたともとれる呼びかけに、シークはまだ黙って聞いていた。すると現れた男に反応したのか、それまで大人しく眠っていた葉上、彼は、突如目をはっきりと開けて起き上がり、即座に立ち上がって折れていたコートの端を整えていた。
「こんな所で堂々と寝るな、呆れた奴だ、はっはっはっ……全く」
彼の髪をぐしゃぐしゃと掻いて、肩を強く叩いて、背中から前へと押し出していた。「それじゃ行こうか。理香を待たせているんだ」……太みの男は、そこで初めて隣の人物の視線に気がついて注目する。「ん?」
シークと男の目線がばっちりと衝突した瞬間だった。ぎくりと肝を刹那に冷やしたシークだったが、相手の男の方が大人だったことに救われている。「やあ」少し口元を微笑ませ、何もないように男に話しかけられていた。
「君は、ギタリスト?」
シークが何も呼応できないのを構わず、優しく問いかけていた。足元に置いてあったギグバッグを見てそう思ったのだろう、問いかけは自然と出てきただけだった。「ああ」……シークの低い声は非常に聞き取りにくかったため、同じ質問で返ってきてしまう。「ギタリストなのかな?」今度のシークは頷いていた。
葉上もシークが視界に入り、長身の彼を見上げていた。
「どっかで見たことが」
思ったことを口にしたのか、言いかけた言葉は先がなく見失い、相手任せへと化していた。
「さっき同じライブハウスで演奏してただろ、あんたは眼中になかったかもしれねえけどよ」
機嫌を損ねたに振る舞っているわけではなく、彼のこれ、この態度が自身にとっては決めてのマイペースなのだと察知するに至るまで、加えて僅かな時間を要するだろうということは初対面では理解し難かった。「あいにく、物覚えは悪い方なんで」
葉上は葉上で、自分の調子を崩さず答えていた。間に入るように男が話題を変えていた。
「なるほど、そういう繋がりか……何かの縁だな、そうは思わないかい? 君」
恰幅のよい男はにこにことし出し、シークの出方を窺っているかのように手を擦り合わせてやがて本領を発揮していた。「さて君、これから……時間はあるかな?」男の細くなった目は、冗漫にも見えるが見ていると寒気がしてきて気分のいいものではなく、鋭い長針で狙われている獲物の立場に追われていた。つまり、本気の目で見られている。
「言ってる意味がもうひとつ分か……」
分からない、と言い切る前に、シークの腕を引っ張って付け加えていた。
「私の勤める事務所に来てくれないか、要するにだな、これは勧誘」
「勧誘?」
引っ張られている腕を振り解こうとする前に、男は言い直していた。
「スカウト」
男は三富優平と名乗った。名刺を渡され、シークは自分の目をまず疑ってしまった……白い小さな紙に書かれたものが本当のことであるならば、シークにとっては信じられない事態に当たっているらしい。
タクシーを使って駅からは離れて、葉上と同じに並んで後部座席にと乗り込んだシークは、窓から見える景色がひどく別の世界のものに見えていた。もう此処には戻って来られないのかもしれないと、余計な心配が自分を取り囲んでいる。
「おい、葉上」
タクシーに同乗して、難しい顔に出来た皺を掻きながら、隣に座っている相手に話しかけていた。「何ですか」目は話す方には向けず、窓に寄りかけた頬杖づく手も動かなかった。遠慮という概念がまるで感じ取れないでいた。
「お前、レンって呼ばれてるのか? 葉上、で、今、返事したから合ってるんだろうがよ……紛らわしいな、葉上」
2度3度と繰り返す名前に、「おかしくはない」と言い返した。
「仲間うちでは本名で呼ばれて、別におかしくも何ともないだろ?」……
そこでシークは「……はぁ?」とさらに顔を曇らせてしまったという。
行き着こうとする所は、スカイビルだった。
地上55階、地下5階、北、西、東、南へとタワー4棟で構成され、それを連結した円形が螺旋を描く造りになっている。空中には庭園である憩いの場が設置され、街をそこから上下四方八方見渡せて限りはなく、展望が自由だった。
幾多の外資系企業、製造業、研究機関が入居しており、領事館もあったため観光をするには正規の身分証明と高質の常識が絶対的に要とされている偏倚部分もあるが、モダン、レトロを再現するなど趣向を凝らした飲食街、最新科学を実践した展望台や映画館などは観光スポットとして人気が高めだった。
エトワール凱旋門に似た大アーチをくぐり抜けて彼らを乗せたタクシーは、大広場へと続く小路手前の乗り場で静かに停車し、ひとりずつ順番に降ろされていった……シークは、来たこともなければ自分の身とは不釣り合いなこの地に居心地悪さと、煙草を吸いたいのだがという欲求に見舞われている。
「先に飯でもどうだい? まだ開いているレストランがあるんだ、何なら今日はホテルをとって休んでもらってもいい……レンも、そうするか? 疲れたろ?」
降車して一番に優平は話を持ち出した。だが、話を触れられた2人は互いを見合うことをせず、拒否反応を示していた。「いい」「結構」「理香さんは?」
ちょうどその頃、暗いなかから元気のよい明るい声が遠くからやって来ていた。
「すみませーん! 遅くなってしまいましたああー!」
噂の『理香』である。二渡部理香、三富優平の秘書でありよく働く活発な女性だった。グレーのスーツ姿で、ヒールを履いてはいるがどうでも構わず駆けてきていた。
「何処行ってたんだ。10時頃に着くと言ったろう」
「すみませえん……外国人に道を聞かれちゃって、案内してきちゃいました。あ、あなたが“A級”ギタリスト?」
出迎えの遅れた言い訳を簡単に済ませ、理香は優平のそばにいる背の高い、むっつり顔のシークをじろじろと物色するように足元から頭まで先々を見つめていた。
(何だよ“A級”とか……気に食わねえ)
シークは、嫌悪感でさらに顔を曇らせていた。それを見た理香はやっと自分のした失礼に気がついて、慌てて謝っていた。
「きゃー、ごめんなさい、違うのよ、変な目で見ていたわけじゃないの。初めまして、ようこそ『M.A.D.E.』へ……此処が何処だか、把握してるよね?」
両手を合わせた奥から瞳を覗かせて、理香はシークのご機嫌を窺っていたが、シークの最悪な表情は変化なかった。腕を組み首を傾けていたシークは、「スターにしてやるって、連れて来られたけど?」とどうでもいいように扱っていた。
「気位は高いようね、そうこなくっちゃあ。君みたいのがね、此処にはごろごろといるのよ、隣にいる彼もそう。まあ彼の場合はまたちょっと違って、“S級”クラスだけどねん」
平然と差を言ってつけた理香に優平は、「こら、しゃべるなお前は。理香!」と叱りつけて、シークたちの案内を始めている。
「これからの詳細は事務所内でしようか。立ち話じゃなんだかな、大事なことなんだし」
そう言って優平、理香、葉上――レンは、シークより前に敷地内へと向かって歩き出している。シークはあとを追いながら、自分の今後のことを――将来像を、そびえたつビルの高層に見立てていて、これから俺は何処へと向かっていくのだろうという、不安という沈黙を腹に抱えてしまって……
流されていっていた。