25話(接点)
「葉上……高紀、……か?」
ステージの裏で、出演を終えた『我狼』のメンバーとシークは立ち並んでカーテンに隠れ、それぞれは湧いてきていた唾と息を飲みながら壇上の人物を見守っていた。一同の瞳は一心に『彼』へと釘付けであって他への散漫を一切許さずに、関心という心で身ごと囚われてしまっていた。葉上高紀――シークが確認するようにメンバーの前で名前を出していた。
「そうや、彼やんな、あの、凄い奴っちゅう!」
ひとり、またひとりとメンバーは歓喜めいた声で少しずつ騒ぎ立てていっていた。「シイッ、うるさいで!」
指を立てて制して、状況は静かに落ち着き、皆、演奏と歌に聴き入っていた。
シークは始めから騒ぎ立つこともなく、葉上と呼んだ若いひとりの男に注目していた。シークも知っていた、彼という人物が、音楽を愛好する者にとってはどのような存在だったのか。まだプロではなく活動自体は小さく地味で、告知らしい事前の告知はいつも当日ギリギリで、都会に多く各地に渡り出没しているという。気まぐれで出演を決めて行っているのか、拠点は何処なのか仕事はあるのか、年齢は、そもそも日本人なのか本当に男なのか、その髪はスタイルは――誰も、彼の素性を詳しくは知らないようで、雲の上の天上人のように扱っていた。
歌はステージの隅で弾く、ピアノ奏者の伴奏と合わさって、物音の出ない観客席を前に演じられている……
……
Solitary one is easy the nature at night
夜はひとりがいい
You will rest your body
体は休んだらいい
If the head also takes a rest though it might be good
頭も休んでくれたらいいのにね
May I run away?
逃げたっていいだろうか
Can you change without knowing?
知らなくても変われるだろうか
It is a lie after all,
A fiction,
And a reality
所詮は嘘と虚構と現実
Be warm in the morning
朝はあたたかくない
What does this body do?
体は言うことをきいてくれない
Do you keep worrying only?
悩んでばかりだ
Say someone to me
誰でもいいから言ってよ僕に
Tell a lie because no one is angry
嘘でいいからついてみせてよ
In the world, there is no change way
世界は変わりようがない
I want to begin to run
走り出したい
I want to begin to run
走り出したいよ
In the night
夜のなかを
It aims at the morning
朝めがけて
Though it is shameful
恥ずかしいけれど
May I shoot a dice?
サイコロを振っていいですか
……
葉上、その男の歌声はメランコリーに満ちていた。どうしようもなく聴く者の心を打つ。ピアノのイントロから始まり、ただでさえ感動的な美しいメロディーであるにも関わらずその精神を秘めた独特の歌声は相乗作用か、より一層、静寂のなかの美を突き詰めて表現しているのではと誰もが思えてしまっていた。
残念ながら歌詞は最後まで通しで英詞だったため、意味は伝わらなかっただろう、観客は感性だけで聴き、単調だが安定して作り出された音の世界を魂から足先まで隅々と堪能して、曲の終わりがくるまでにどの席でも会話は一切されなかった。
魅了され高揚感に支配されて、手の指先は細かく震え、全身で涙を誘う高低音を繰り返すバラード……1曲が済むと、端の席からもう1曲、という声が上がっていた。
受けて若いボーカルのその男は、人差し指を立ててピアノの方へとサインを出している。特段目立つような振る舞いでもない、あくまでも自然に見えていた。
(あいつ……『本物』だ)
シークも納得をしていた。せずにはいられず、今に所属しているバンドにおいては付け焼き刃的な価値でしかないだろう、自分のこのポジションに別れを――下手くそな、ボーカルとしての役割など、この男の前では綺麗に捨ててしまいたいと衝動に駆られていた。
本物だと称された男は音楽をさせられているのではない、『しようとして』いるのだった、それは意志というものである……ただ阿呆のように歌っているのではない、意志という情は情を呼んでいて、だが内に秘めているものをただあば擦れいい加減に吐露しているのではなく、整った旋律のなかから抜きん出て邪魔とならないよう真っ向から音とは感性を譲歩しながらと合わせられて……その技は、歪みなく真しやかな澄みきった結果を出している。アンコールは2度3度と叫ばれた。
だが人指し指を立てたのは、1度きりだった。
……
拍手喝采のなか歌を終えた彼をステージ袖で待ち構えていたのは、『我狼』のメンバーと店長だった。
「ねえねえ、どっから来たん? ……噂は知ってんねんで、葉上高紀、いうんやろ?」
「こんなとこで会えるなんて奇遇やわぁ、ちょっと飲みにいかん?」
「素晴らしかったよ、あんな独特な感性、聴いたことがない」
「なあ行こうや、俺たちと」
このように質問と誘い攻めだった、だが。「……用があるから」と、彼は拒絶し断っていた。
そのやり取りのなかに、シークの影はなかった。
……
ライブ帰りのホームである。シークは、我狼のメンバーとは乗り換え駅で別れてひとり、番線に来る次の電車を待っていた。煙草は吸わず、白線より下がって、電車待ちで数人と並んでいる所からは数歩離れて立っていた。
肩に掛けていたギグバッグの中には、愛用の赤いギターが入っている。かつて父親に渡されて初めて音楽というものに触れるきっかけともなったギターだったのだが、当初は僅か5分で飽きていた。
手ぶらな片方の手の指を空中で遊ばせながらシークは、自分の目の前を通りすぎていく人物に着目した。
それは、葉上。天上人扱いの男だった。見間違いではないよな、とシークは暫く葉上の様子を観察していた。
(何でこんなとこにいる……化け物め……)
シークに目をつけられているとは露知らず、葉上はシークの前を通りすぎた後に地面へ手荷物であるバッグを少々乱暴に落とし置いて、重そうな体でベンチへ着席したかと思うと、今度はどさり、と横になってしまっていた。
シークは何だこいつはと顔をギョッとさせて、尖らせた口で光景をずっと見守っていた。電車が定刻より3分遅れてホームに停車し出発を告げても、シークは動き出そうとはしなかった。自分が乗り込むはずだった電車が夜の闇へと走り出して行ってしまっても、それは持続していた。
(こいつの面の皮を剥いだあとには、何が出てくるんだろうよ……どうせなら、俺らんとこに来ないだろうか、ボーカルとして……いや)
自分の納得できる答えを探して、葉上へと強い視線を向けている。
(……せめてこいつの後ろでギターを弾けたなら)
どんなにいいか、と思う前に次の電車がやって来ていた。昇降する人数はまばらだったが、特に関心は持たれずに寝転がっていた葉上のそばを我先にと通りすぎて行った。