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23話(REN・2)


『Little Brown Jug(茶色の小瓶)』


 アメリカ合州国の伝承歌謡。グレン・ミラー楽団がジャズにアレンジして有名に。1869年にジョセフ・E・ウィナーが作詞作曲したと言われている。



 レンは誰とも遊ばなかった。アメリカの土地で幼少を過ごして、10歳になっていた。容姿の面では少しダークがかったブロンドのクセのある髪、ヘーゼルと呼ばれる淡い褐色の目をしていて、白人ではなく、日本人である母親の形質を受け継いでいるのか肌の色はアジア人に近かった。レンの通うスクールでは9割以上が白人で、レンはひと際目立つ存在でもあった。


 からかわれることが多い。追い詰められていたわけではないが、レンが自ら集団のなかに飛び込むといったような無鉄砲、おかしな真似は、まず、ない。


 レンは外界と自分の世界とをきれいに『分け』て、内なる自分を育てていっていた。

 よって単独行動が多く人と群れることをせず、自分の価値観、自分の趣向に従い自分の知らないことには無関心と無視、それでいて――独特は形成されていっていた。


(何処の子だろう……)


 龍平は、刈り取られたばかりの畑の前で、歌をひとりで歌っていた子どもに出会った。龍平は歩いて農道を、道は道なりに沿って来ていたわけだが、畑を挟んで数十メートル向こうから鳥のような、オーディオから流れた整った音楽のような、聞こえに美しい旋律に気がつき発信源を探していた。それで見つけてみるとそれは子ども、少年から発せられた声で、青のナイロンジャケットを水色の染柄タンクトップの上から羽織っていて、だぶだぶのカーキ色ズボンと汚れたスニーカーを履いていたことが近づくにつれて分かった。金髪に見える髪がメッシュキャップから覗いていた。


 ありふれて何処にでもいそうな、地味で大人しそうな子どもだと龍平は思った。だが声に惹かれ、関心を持っていた。


(……。この歌は……)


 アメリカの民謡だった。元は19世紀に楽曲として発表されたものではあるが、親しまれて民謡となり、アレンジされてジャズのスタンダード・ナンバーとしても知られる有名な曲である。

 龍平も小学生の時に習ったことがあり、よく知っていたのでピンときていた。

(おいおい……酒の歌なんか子どもが歌うなよ……)


 龍平が習ったのは日本語に直された歌詞の方で、子どもが歌っていたのは英語で原曲の歌詞だった。子どもは龍平には全然気がつかずに、遠くを見ながら歌をただひたすらに歌っていた。畑の向こうの、山の連なりを細い目で、真剣に眺めて……


『If all the folks in Adam's race, were gathered together in one place, then I'd prepare to shed a tear, Before I'd part from you, my dear……』

(アダムの民の奴らが集まって来たなら、愛しいお前にお別れだ、此処までかと俺は……たぶん涙を流すのだろうな……)


 歌は酒を止められない男を歌った、陽気な歌のはずだった。そう龍平は解釈している。だが何故か聴いていると、どうもそうではないような、思わず涙を浮かべてしまうような危機にも迫る、思い深い歌声、愁いを帯びた声だった。


「よお」

 龍平は声をかけていた。歌を歌うのをぶち切り、過敏に反応した様子の子どもは首を遅く、龍平が立っている方へと振り向いていた。「……」表情は悲しくも喜んでいるようでもなかった。動くことを忘れた玩具と化していた。

「とても上手いじゃないか、おじさん感動しちまったよ」

 片言交じりだが真面目に英語で発音し、オーバーなアクションをつけて賛評を表していた。誉められた子どもは特に何も言い返さず、無言で俯いていた。龍平は「えーっと……」と、会話を続けたくて話題を探し、必死で考えていた。「その酒の歌は、何処で覚えたの? スクール? 家かな?」ともかく話しかけていた。


「家にレコードがあったからそれで……親は家にいないよ。ヘルパーがいるけど」


 そう子どもは答えた。親のことなど聞いたつもりはなかったが、とちょっとばかり唖然とした龍平は、質問の向きを変えてみた。「ジャズは、好きなのかな?」子どもは素直にうん、と返事をしていた。

 ホッと安心した龍平は、笑顔になって「じゃあ、その今歌っていた歌が好きなんだね」と言う。また頷くか、それとも首を振るのかを期待していた、だが。


「大好きなことを止めるように言われて……悲しいんだ……」


 眉をひそめたくなる答えが返ってきてしまっていた。龍平は「どういうこと?」と単純に聞き返すしかなかった。「僕じゃない、歌の人の話だよ」寂しそうに顔をつくっている。

「歌の話?」

 酒を止められない男の歌、それだけしか龍平には分からなかったが、子どもには何かが見えているのか、それを説明してくれていた。

「どれだけ酒飲みを止めるように妻や他人に言われても……貧困でも、大好きなことは止めなかった。でもアダム、神様が言ったから、止めようと決心したんだ……好きなことを諦めたんだ。それって悔しい……悲しい、……悲しい」


 子どもは始め泣きそうになっていたが、言い切ると本当に涙が頬を伝っていた。「ま、待て待て待て。泣くな、泣くのが解らん」


 龍平は慌てて子どもの肩を叩いている。叩かれて揺れながら子どもは「ソーリー……」と腕で涙を拭き、急に歩き出して行った。「お、おい!」伸ばされた龍平の手は空をかいている。子どもは止まらず歩き続けて行ってしまった。


 残された龍平は、ポカンと狐につままれたような顔をして、「ううーむ……」と受けた衝撃を隠すことが難しく、腕を組んで唸っていた。


(大好きなことを止めるように言われて……悲しい、か……俺だって昔はさ……)


 あんな、まだ小さい子どもに言われたことを、いつまでも後に引きずって、龍平は来た道を戻りながらこれまで自分が歩いてきた人生を振り返って考えてみていた。若い、そうだな20歳代、あの頃はまだ若かった、何でも自分が最強で、やる気が実現を果たすんだと根拠のない強がりを存分に発揮していた時代だった、と思い返される。でもそれは理想であり未来を描くビジョンであり、例えば10あった理想のうち一体どれだけが実現したのかと10年ほど時が経って数えてみれば、結局は1つ程度にしか過ぎなかったんだと……気がついて知る。


 知ったことで、初めて大人になれたような感覚を覚え思い知った。龍平は、ああこれが経験というものだと自覚したのだった。若い時には若いから解らない。


 それで今だが、龍平の心に新しい風が吹いている。


(これは……)


 間違いなく予感だ、と龍平は思っていた。背筋から、ジワジワと見えない何かがすぐそこまで来て龍平の心の隙を窺っているような、ゾクゾクとした寒気があった。

(今すぐ帰って、準備をしなければ……)


 あの子どもに突き動かされていたのに間違いはない、龍平に俄然とやる気が湧き起こっていた。両のこぶしを握り締め、俺はやるぞと夕焼けに近い空のなかへ叫んでいた。


 好きなことが出来る、それが大人だ……龍平はそうも叫んでいる。子どもだと力も無く実現不可能だったことが、努力と運と知恵次第で可能になることだって多いのだ、それを見せてやろう、俺のこの両手に誓ってと、……この子どものような大人は叫んでいる。


 子どもの歌声は、このように人を動かしていた。


 ……


 結局、龍平がいるホテルに滞在期間中、一度も訪問はなく、最初に訪れた日の翌日に足を運び再訪してみても、外出中ですと言われ妹に会うことはなく門前払いだった。

 普段からもっと電話をして近況を聞いたり、顔を見せにと、交流を少なからず持っておけばよかったと非常に後悔していた。仕事詰めで忙しかった若い頃からに続く日々の弊害が、このような所に及んでいる。龍平は納得がいかないながらも、置いてきた仕事たちを放っておくわけにもいかず日本にしぶしぶ戻って行った。


 また来年でもいい、必ずあの子と座って共に話をしよう……。

 龍平はそう心に決めて、日本に帰って来たらまず、あの子どもが歌った歌のレコードを買いに走るかと、先の予定を考え始めていっていた。



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