22話(REN・1)
刃先は迷うことなく黙り立つレンに向けられて軌道を描いていた。男の握り締められたカッターに込められていた力は自然に、線上で爆発的なエネルギーとなってレンに降りかかる。
それを制してくれたのは、レンの頭身から頭ひとつ出た高さを持つ身長の、隣にいたシークの手の平だった。エレベータに居合わせていた一同は、色を失う。
レンの胸板に届く寸前で、シークは手を伸ばし肉で刃を止めたのだった。だが当然のことながら、突き立てられ食い刺さった刃先からは、血が流れて飛沫が床に滴り落ちていた。
僅かに顔を歪めたシークの伸びた腕の向こうで、無傷だったレンの背筋は凍っている。
「何してんだ! オイ!」
若い、紺のパーカーを着ていた男は焦り迅速機敏に、咄嗟の判断でレンを襲った中年の男を後ろから羽交い絞めにして地に倒していた。された男は全く抵抗することがなく放心状態で、口元から泡を吹いて涙目で目線にある地面を見ている。この男の身に何があったのかなど、考える余地などはなかった。シークの手の平から刃は抜かれたが、開いた穴は塞がらない、流血してくる状態を何とかしないといけなかった。
ちょうどその時、出入口が開き、エレベータを待っていた数人の前でことの有り様を見せつける羽目になってしまった。「きゃああああ!」「何ごとだ!」「ちょっと……誰か来てえええ!」「……警察を呼んで下さい!」間を置かずに場が騒然となる。悲鳴で混声になった動揺のなか、紺のパーカーの若い男が犯行に及んだ男を押さえつけながら何度も警察をとしきりに叫んでいた。
――混沌としながら、レンに男の囁きが今一度沸き蘇って、――レンに背後から忍び寄り身の毛がよだつ恐怖を与えていた。
『疲れた……』
襲った男は、彼は、バンド『SAKURA』の関係者だったのだろうか、警備にでも携わる者だったのだろうか。『何に』疲れたと言っていたのだろうか。警護? 生活? 人生、か? それはレンのせいで起きていた苦痛だったのだろうか。男の素性も身柄も何も解らなかった。
(俺が……人を……)
寒気が止まらなくなっていた。焦点が定まらない目で立ち尽くすしかなかった。
呆けていたレンを復帰させてきたのは、他ならないシークだった。自失のレンの頭の髪をきれいな方の手で乱暴に鷲掴みにし壁にと押しつけて、痛みを堪えているのかそうでもないのか見えない何かを憎んでいたのか、レンをシークは瞳で射抜く。
ざっくばらんに切り揃えられていた髪が揺れ、そのなかから覗き出るシークの表情は最悪だった。嫌なものにでも触っているかのように歪め、嫌悪感丸出しだった。レンはシークの体からにおう、煙草混じりの体臭が不快で気分が悪くなっていった。
シークはそれが分かっていながら、レンの髪を掴んだまま自分の顔を近づけていった。仄かに漂うフレグランスにも敏感に反応してしまうがレンは何に対しても抵抗できなかった。
「止まんなよ……ビビり」
レンが視線を下にさげると、髪を掴んではいない、シークのぶら下げていた止血されない手の傷口からは、赤い血が遅く流れて床にポタポタと落ちていっていた。レンは血を見ながら、麻痺していた脳が覚醒していく感を覚える。「分かってる……分かった」声が震えないように細心の注意を払っていた。
『俺は止まらない』……レンはこれまでの自分を再び思い直していた。
夢は、きれいだった。でも道は、きれいではない。
何を犠牲にしても、理想を手に入れるために手段を選び――歩く。
夢さえも不透明で困難ばかりが襲ってきたとしても、レンは、見たいからと追いかける。それは好奇で、追いかけることには後悔はしないだろう。してもしなくても、どっちでもよかったのかもしれない、追わなかった時の方が、後悔するのだと思っている。
レンは探しながら、追う、見えない向こうの住人に会うために。
夢とは何か? ――それを知るために。
……
父親は銃自殺し、日本人だった母親はアメリカに残った。生まれたばかりのレンを連れて田舎に住み、レンは、そこで幼少時代を過ごすことになる。死んだ父親について母親は何も語らなかったため、レンのなかに父親の姿は何処にもなかった。噂によれば、父親は変わった人だったと言い、お金にもならないことばかりを平然とやってのける慈善主義者だったとか、時々に手がつけられなくなる乱暴者だったとか――どれも所詮は噂だった、今さら真実を解き明かした所で父親が戻ってくるわけではない、レンも特に興味が起きなかった。
レンの母親は昔、日本にいた時は看護師だったらしいと聞いていた。それがどうしてレンの父親と出会いアメリカに渡ってくることになったのかは想像のなかの物語としてどうとでも考えて楽しめばいいと思われるが、母親の兄、レンには伯父にあたる人物が、レンにとっては主要な存在となってくることだけは押さえておきたい『運命』だった。
彼の名は三富龍平、レンの生まれるずっと前の若い頃は、建築家をめざしていた。これもどういった巡り合わせか、龍平の向かう自分の将来像からは少しばかり離れていって、それが段々と距離が開いていき結局は音楽に関連する事業で華咲かすことに落ち着いたという経緯である。
彼の起こした小さな会社『M.A.D.E』は、才能ある者を探していた。
そう簡単に見つかるわけはなく、気が遠くなるような年月を要していた。龍平は独自の見で才能のレベルを各段階に分け、上級をAとして個性を選んでいた。BやC級クラスに値する者は結構な数が集まるが、それ以上になる者というのが狭く限られている。龍平は、これも仕方のないことさと諦めかけて肩をすくめる毎日だった。
仕事が軌道にも乗りかけ順調に先が見え出した頃、秒刻みで仕事詰めだった龍平は珍しく、養生休暇をとって日本を離れてアメリカに渡る。
仕事も持っていたが、それよりも、一緒に生活を過ごし育ってきた可愛い妹に久しぶりに会いたいという目的があった。性格は明るく社交的で、旅行や写真が大好きで、でも怖がりで泣き虫力を存分に発揮する可愛い妹だった。結婚してからは日本を離れてしまい全く疎遠になってしまって残念だったが、たぶん元気でやっているのだろうと龍平は思い込んでいた。
しかし期待していたアットホームさとは打って変わって、龍平はショックを隠しきれないでいた。
まず父親である主人がいない、そして妹であり母親であるはずの者が家を空けることが多い。連絡なしに突然と訪れた龍平を待っていたのは、金髪の中年女性雇われホームヘルパーだった。
「奥様は外出中ではございますが……どちら様?」
両腕をさすりながら、眠そうに玄関先から登場していたその女性、見るからに日本人でスーツ姿だった龍平を訝しげな顔で見ていた。龍平はヘルパーの横柄そうな態度に尻ごみをしてしまう。「妹に会いに来たんですが……明日はおられますか?」片言の英語で、通じてほしいと願っていた。
どうにか通じたようで、ヘルパーは承諾してくれていた。「では、伝えておきますので、明日にでもまたお越し下さい」
答えると格子状で花装飾されていた門を閉じて家のなかにさっさと去ろうとしていた。龍平は慌てて呼びとめて、手帳に自分の宿泊しているホテルの名前と携帯電話の番号を書き、紙を破ってそれを渡しておいた。家を去る時にひとまずはいいかと息を吐いた龍平だったが、辺りを見回し、このアメリカという風土が我が妹にどんな影響を与えてきたのだろうかと農道を歩くたびに心配になってきていた。
景色はいい、大きな通り沿いの閑散とした家並みを出ると、畑が視界に見え出してきていた。畑の規模は小さいのだろう、それでも広く、見渡す限りの自然に見えていた。人の気配が少ないが、ムクドリに似た鳥の鳴き声をよく耳にする。林の奥からはヒバリのような美しい鳴き声が聞こえてきていて、ああ此処は田舎だな……と思いながら来た道を辿って戻って行った。
途中、麦の穂の色の髪をした少年と会う。