21話(棲み潜む悪魔)
レンは沈黙していた。壁、手すり、窓、階段と、周囲の物質と同じに、存在だけがあるように呼吸さえも忘れていた。
目下遠くで雑音が聞こえた。人の肉声、重なり合った、烏合の衆の叫びの声がしていた。レンを助けるはずで内心に備わっていたはずの小うるさい危険信号が働かなかったことは、果たして誰を何処まで責められようか。
場はひとつの惨状となりつつあった。
「早くお帰り下さい! 此処にはバンドの誰も、いませんから!」
「さあ帰った帰った。此処にいても会えませんよ!」
予め配置されていた警備員数名は忙しく、何処かの工事現場から借りてきたのか用意がよろしいLED合図灯を持っていて、それで外来のファンらしき人々に向けて振りまわし、追い払っているという始末だった。
「嘘でしょー、此処で撮影するって聞いてきたんだから。会わせてよ!」
「そうよそうだ、会わせなさいよぉ!」
若い女の子が数人で、早口に捲し立てていた。20代後半くらいで、青地の制服を着ていた若い男の警備員は『しっしっ』と手でも追い払っている。「ざけんじゃねえよ、会わせろって言ったら会わせろよああ?」
汚い台詞が飛んできていた。状況は放っておくと激化していき、デッドヒートしている。
そんな光景を階段出口から目の当たりにしてしまったレンがいた。玄関までの距離はだいぶ開いてはいたものの、ファンや警備員の罵声や豪声は感受性高きレンへと直に深く刻み込まれ、突き刺さっていく……。
「レンに会えるまで帰らない!」「お帰り下さい、困ります!」
「どうしても会わせねえってんなら、火ィつけたらあ!」
合わせてキャーという悲鳴も聞こえてきていた。乱闘が起こっているらしい、レンは聞くに堪えられず、足を止めて自分が見えないよう、壁に背を打ち当てて片手は額を押していた。「何てことだ……」
何でもいいから吐きたかった。胃からの嘔吐ではない、視覚、聴覚……五感以上の感覚から自分のなかに入ってきたものを、『吐き出し』たがっていた。だが一度取り込んでしまったものは消える気配を見せず、奥底に先着し滞留していた異物は、まるで薬の副作用のように思っていたものとは違う効果――別の感情を呼び起こす。
(俺の声でファンが死ぬんだぜ……)
棲み潜む悪魔。自分のなかの、臆病が首を長くして顔を出していた。下辺を蔑み、温かく湿った舌を出していた――レンの分身ではと、正体の可能性は想像の範疇でしかない。
『どいつもこいつも死ねばいいんだ。そして――俺も死ぬ。歌ってみろ? 今の心情を。きっと聴いた奴らは、屋上から飛び降りるんだぜ……俺が導く、導いたように……』
不可思議な世界だった。誰にも理解されない許し難い世界があった。耳を、関心の塊を、そちらの方へと渡してしまいそうになって危険は危険を呼び、行ってしまうともう戻っては来られなくなるだろう……楽へと誘われていた。
だが、レンの手がふいに腹の辺りのシャツを掴んだ、そのおかげで突破口が開けていた。――ぐしゃり。聞き逃してしまいそうなビニールの小さな音を耳でレンは拾うことができた、それは、偶然にもシャツの胸ポケットにたったひとつだけ残されて入っていた、人づてからの贈り物の――
――キャンディである。
「愛……」
個装に包まれて、確かスタッフの誰かからもらっただけの、フルーツキャンディだった。頭を使うと糖分が要りますねと、からかわれたように感じて気恥ずかしくなったのを思い出していた。
(俺は歌うことでしか自分を表現できない――『臆病』め!)
人に笑いかけることも苦痛、人を追い込むのも苦痛、言葉を使うのも器用さからはほど遠く、人と同一には決してなりたくはない、共感もしたくはない。明らかに『孤立』するレンに、誰が理解を示すだろうか。――ひとり、いた。
『大丈夫。私はいつも、そばにいるよ……』
レンは最後のキャンディを、包みを開けてなかを取り出し、口のなかへと投げ入れていた。キャンディは甘く、舐めていると数分で溶けてなくなってしまった。後にまだキャンディの味が広がってはいたが、そのうちになくなっていくのだろう、余韻に浸っていた。
(何だかんだで……周りから支えられてんだ、誰でも、俺も)
ゆらりと体が揺れた。向きを変えて、下っていた階段をレンは反対に上り始めていた。暗い表情は前髪に隠れて見えないが、会議室で痛めつけられて青く変貌していた手は隠さなかった。病魔に侵された患者を演じて、人気がないのを幸いに元来た道を戻って行った。
ゆっくりと思考力は戻ってくる。喜ばしく、冷静さを取り戻していっていた。
歩くのに疲れてレンは、非常階段から離れエレベータに乗り込もうと思い発った。気分が明るくなった、とまでは行かないが、くたびれたものから逸脱することができたと安心を手に入れ穏やかになりつつあった。しかし待ち立っていた所に来たエレベータの扉が開くと、途端に顔を曇らせてしまった。
上階から降りてきたシークとバッタリ対面してしまったせいである。
「気まぐれか、ご苦労」
両腕を組み肩で壁にもたれて、レンを迎えていた。「……下は行かない方がよさげだった」
エレベータはこのまま、下へ行こうとランプが点いて知らせていた。「……仕方ねえな」レンの言葉に反応して、シークは身を起こしてレンが待つ出入口に向かい、エレベータをいったん降りることにした。それからレンとシークは2人で横並びになって、一度下へと行ったエレベータを再び迎えうち乗ると、会議室のある上階へと動き出して行った。その時にエレベータにいたのは2人の他に男が3人だった。ひとりはまだ若さがある風貌で、局の何処かのADか若手俳優だろうと思われる。あとの2人は貫録もそこそこで、固そうに見えていた。
「こうも騒ぎ立てられちゃ、煙草も買いに行けやしねえな……チッ」
なかで、シークが不満を漏らした。シークはレンの様子をみに来たわけではない、恐らくはきれた煙草を買いに部屋を出てきたのだろうとレンはシークの激しい舌打ちを聞き流していた。
「お前がいねえと、話が進まねえぜ、気まぐれ坊や」
珍しくおしゃべりなシークだったが、内容は毒づいていて普段と調子は変わりない。レンはすでに落ち着き払っていて、毒にも挑発にも特には応じなかった。
「頭を冷やした。花火については、一考する。代わりに何か考えるつもりだ」
今後のことを適確に判断し指針を示していた。「……あそ」シークは指で爪を掻きながら、どうでもいいような一応の返事をする。狭く、閉ざされていたエレベータのなかで、息の詰まる思いだった。
奇妙なことに、同じ乗り合わせていた何の面識もなかった男が声をかけていた。「疲れた……」
レンたちとは別に、同乗していた3人のうちのひとりだった。年は30代くらいで、髪は薄く、黒とグレーのアンサンブルTシャツを着ていた。首をもたげて、淀んだ目でレンたちをいつからか見ていた。関心が向けられレンは何だと初めて気がついている。「……?」防ぎようのない距離で、レンは一歩身を引いて後ずさった。
「疲れた……あんたのおかげで……」
一瞬、息を止めた。何故なら、男が手にカッターを持っていたからだった。60度の折り刃式カッター、何処でも手に入る安価な刃物はチキチキと刃を出す音を立て、注目を浴びている。
レンが息を呑み対処を求められる前に、刃は襲いかかってきていた。