20話(激昂)
毎日毎日とレンは非常に忙しい。筋肉、声、必要あればダンスのトレーニングがまずの日課である。そして健康管理にも気を遣わねばならず、風邪には細心の注意を払わねばならなかった。作詞、作曲をメンバーとともに手掛け、頭と感性も随時、働かせている。打ち合わせも国内国外問わず何十回と頻繁に行われていた。
新曲を出すたびにプロモーション用の撮影を行い、CMや音楽トーク番組などに出演し――最も、レンはメンバーの出演回数に比べて時たまにしか、テレビや雑誌などのメディアの前で姿を晒すことはなかった……それはレンのたっての希望というより、メンバーや関わるスタッフからの、レンに対する計らいでもあったと言えよう。主力のレンが――孤高の彼――が、曲作りに徹底して専念できるように。誰にも邪魔をされないために。
レンは勿論、そのことなどとうに知っていて、言葉には出さないけれど素直に感謝していた。自分に出来ることは、ひとつでも曲を、歌を……世に生み出すことだと使命に持っている。
周囲の皆が望んでいる、レンの活躍を。何処にいてもいなくても。
レンが生み出す芸術は、感動、時には衝動、感涙、懐古、安らぎをも、性別、年齢問わずに与えていた。英語を織り交ぜた日本語で新風を巻き起こすかのような独特の歌詞、深く情緒を感応させる感傷的で和歌めいた歌詞、ラップのように韻を踏みながらポップに仕上げた若い子世代向けの歌詞。ロック、ジャズ、静と動のバラードにも……重量感があり、透明で繊細な声質は以前から変わることは全くない。
「さすがだ」――音楽に関わる者は全員、必ず圧倒されてしまうという現象は、もう少し経てば令名を頂き、『社会現象』と呼ばれる日が近くやって来るのかもしれない。彼の聖域は広く、万人に向いていた。もはや、走り出した駆動は加速する一方でブレーキをかけ忘れている。
その代表が、世間である。
「お帰り下さーい! どうぞお帰り下さーい! 通行の妨げになります、ちょっとそこ、どいてどいて!」
「危険ですので、お下がり下さーい!」
「本日、バンドメンバーはおりません! お帰り下さあーい!」
ファンがスタジオの玄関口でギュウギュウ詰めにごった返すなか、警備員の総勢10名ほどは大変な思いをしていた。ファンは人の言うことを全然聞かず、もしやメンバーのひとりでも何処かに潜み隠れているのでは、という淡い希望を懲りもせず絶えず抱いて、どんな可能性のあるどんな所へでも足を運び、待ち伏せようとしていた。
「レンがいるんじゃないのおー!?」
「レーン!」
「いつ出てくんのよおおおー」
カメラを持ったメディア関係者たちも多くそのなかに交じっている。
有難迷惑で、良い悪いといった限度の見境がない。困ったものだった。
そんな柄の悪い、うんざりするような報告を受けるのはもう慣れっこになっていたバンドメンバーやスタッフたちである。テレビや雑誌で注意を喚起したこともあった。だが、効果が多少なりともあったのかは断然不明である。
大手全国テレビ局の一室を借りて、短時間予定の打ち合わせ会議が厳かに行われていた。レンを含めバンドのメインメンバーと、携わるスタッフ、それから、三富優平と秘書の二渡部理香がその場にいて討議していた。
いよいよ本ライブ期日が迫ってきていたさなか、神経質になる者、気合いを入れる者、変わりのない平常心の者など、心持ちは様々だった。だが、レンたちにとって重大な事実が明かされることになる。
花火の中止。それから、観客動員数と規模の縮小、進行の見直し――
花火の中止は、予定していた野外競技場の周辺住民の反対の声があったからだった。それに伴い、注文していた花火のキャンセル料は会社に膨大な損失を招く。それはそうとて、これだけ並外れて世間で大に騒がれていては、予定通りにチケット先行予約販売が開始した時点であらゆる渋滞、麻痺や、犯罪に関わってくる事態が容易に予想され、危惧されるだろうと言い出した者が続出した。一般的な具体例で言えば、ネットアクセス増加または集中による回線ストップ、過負荷。ダフ屋と言われる不正に取り引きする業者が必ずといっていいほど存在すること。販売されている映像のコピー、即ち海賊版は、今では常時当たり前のように闇で取り引きをされており、どれだけ規制という重圧をかけても企みの輩は企むのだろう、抑えることが不可である。
特別、『SAKURA』に限ったことではないため、『容易に』予想されていた。
しかしレンが一番に憤慨したのは、花火の中止だった。
「今さらどういうことだ!」
ガシャン! 激しい金物音を立てて、簡易椅子を床に叩き殴るように倒していた。叫んだのはレン、ただひとりだけで、辺りは水を打ったようにシンと静まり返っていた。
「ふざけんな! ……ここまで来て!」
長机に、ぶらさげたままの両手を打ちつけている。自分の頭髪を全爪で斬り掻き肩をぶるぶるといわせ、焦げ焼き射抜きつかせる視線で見えない敵を線上で睨み、レンの眼は血走っていた。
幽霊にとり憑かれた者と同位ではないかと見えるほど、レンは荒れて狂っていた。「落ち着け、レン!」「そうだよ! そんなに怒らないで……ライブが中止になったわけじゃない」
「取り乱すな、馬鹿が」
シメたのは、毒吐きでお馴染みのシークである。メンバー以外は黙ってことを見守る形をとっていた。「んだとぉ……?」
何度も何度も握り込んだこぶしを机の上に叩きつける。怒りは治まる所を与えられず、痛めつけられた手は青く染まり、これは尋常ではないと判断したセイが慌ててレンの手を押さえにかかっていた。
「やめろ! 手を使えなくするつもりか馬鹿やろう!」
すぐにジュンも同じく身を呈して止めていた。腕を組んでのシークは高見の見物、と決めこみ、愛用の煙草をシャツの胸元から取り出していた。
(何のためにここまで……)
最後、歯ぎしりでレンは会議室を素早く出て行く。「待て、レェェン!」
セイが呼んでいた。だが、レンの足が止まることはなく、空しく声はこだまするだけとなった……
(誰も俺の邪魔をするな……鬱陶しい)
会議室を出た後は、照明灯の照らす迷路のような長く分岐の多い廊下を、レンは乱雑に歩き続けて行った。階段を何階か下りていくと、騒がしい人声がしてきていることに関心が寄せられていった。それはまだ下へと繋がっている階段のもっと先向こうの……発信源は、1階の玄関先だということに気がついた。
(……何で騒いでる)
頭のなかが固まって重くなっていたレンだったが、歩みは止めなかった。すれ違う人のいない暗がりの非常用階段、段上をひたすらに下りて行き、騒音が近づいてくるにつれて歩の速度は緩み遅くなっていったわけではあるが、小さな好奇の心がレンの足を止めなかった。
ゆっくりと迫ってくるものに、目を触れた……。