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19話(通過点)


 レンが日本に来てから数年。ボイストレーニングやレッスンを日常的に受けこなし、着実に力をつけていったレン、彼は、三富龍平の許可のもと、路上ライブを行うようになった。それはレンが初めて自分からしたいと言い出した具体的なことで、龍平は最初とても驚いていたが、次第に落ち着いて喜びが増していった。


 いつも何処か遠くを見ていて、いつかふっと(さら)われて消えるようにいなくなってしまうのではないかと思われていた彼が自発的な行動に出るということになると。無論、周囲はそれに伴って『変化』をしていく――元々にあった才能は、満を持して開花するに至る……。


 彼は突如『化けた』のか? 違うだろう。

 彼は人前に出た、それだけだった。

 道はある、それを辿ればいいだけ、無ければ、つくるだけ。

 例え今それが見つからなくても。



「今、俺が此処にいるのは……愛のおかげだ」


 レンのしっかりとした腕のなかで、愛は心地の良い寝息を立てて眠りについていた。夢と、そうでない間の境をさ迷いながら、愛は、答えのようで答えではない返事を頭のなかで繰り返していた。寝惚けて、こんな風に。


 ああ何だ……そういうこと。夢は、ひとつなのね。ひとつだったのね。

 そこに行くまでが……道なのね。


 ……


 すっかり体温に馴染んだベッドの温もりのなかで、愛が眠りから目を覚ますと、隣で寝ていると思い込んでいたレンの姿は何処にもなかった。「レン……?」裸のままの愛が上半身を起こして部屋のなかを隅々まで見渡してみても、幻さえ浮かばなかった。


 レンはいない。……行ってしまった。

 閉められていた遮光カーテンの隙間から朝日が漏れている、視界は段々と開けていった。やがて目が薄明かりに慣れてきた頃、愛は、もぞもぞと身をベッドから脱出させて、冷えていた床に降り立った。頭のなかが冴え渡っている。

(起きたよ……レン……)


 あんなにしっかりと抱かれていたのに、自分も、離されてしまわないように一生懸命に彼を掴んでいたというのに……愛は手軽なシャツを着て下着を履きながら、冷静になってから、……残された自分の体を抱き締めていた。


(此処にはもう、いないのよ……)


 戒めにも似て自分にきつく言い聞かせていた。そうやって、懲りずにいつもの我慢をするのだと……理性を拾い上げていた。服を着た愛は寝室を出て、湯でも沸かそうとキッチンに向かい、リビングのなかを通りすぎようとした――その時だった。


 書き置いた覚えのないメモ用紙が目にとまる。「……?」

 テーブルの上にボールペンと一緒に置かれていたそれは、非常に存在感を持っていた。誰に問うまでもなく、愛の物ではないと分かっているならば仕掛けたのはレンでしか有り得ない。愛がメモを取り上げると、下に敷かれていた長細い紙が顔を出していた。「これは……」


 長細い紙とは、チケットだった。大きなヴィヴァルディ体のフォントで、『SUKURA LIVE〜DREAMFACTORY〜』と書かれている、夏に行われる野外ライブの――特別招待券だった。チケットの意味する所はすぐに解る。愛を招いているのだ……『このライブに来て下さい』。愛は、当たり前よ必ず行くわと思いながら口をキュッとつぐんでいた。


 チケットに目を通した後は、メモの内容へと移る。愛はレンの直筆で書かれた文章を追っていった……若干の、肩上がりの英語筆記体にも見え得る癖のある字で……綴られている。


『愛。

“Candy”の歌、覚えているか? 忘れているなら、思い出してほしい。


 ずっと一緒にいる事が愛じゃないと思うんだ。同じ場所に住む必要はないと思うんだ。

 俺は愛のそばにはいないけど、それっておかしいんだろうか? 間違ってるんだろうか? 歌が届いてほしい。

 歌が、愛のそばにいてほしい。片時も離れずに。


 あまり言葉を使いたくはない。嘘ばかりつくから。


 ライブで待ってる。――レン』


 ……


 愛は衝撃にしばらくうち震えていた。メモを持つ手も、小刻みに震えて止まらなかった。口唇を噛み締め、少しだけの涙を浮かべて、愛は自分を納得させようと抗っていた。一体何に抵抗しているのか? ――レンの文章を反(すう)する。


『同じ場所に住む必要はないと思うんだ』


 歌があるから……?


 愛は、レンから出された言葉を手掛かりに、レンの気持ちを探りたかった。でも、どうしても今だけは……愛の心に醜い(きし)みが生じてしまったようで、感情が流れてきて本人にはどうのしようもない。愛は構わず思うままに吐き出した。


「勝手なことばっかり……」

 声も震えていた。

「私は寂しくて死にそうなのに……」

 ライブチケットとメモを握り締めて。

「夢ばっかり追いかけて……夢って何よ? レンの夢って何? ベルって何?」


 分からない。


 愛は翻訳家になることが夢、しかしそれがゴールではなく、ただの通過点だった。レンは歌手になった。歌手の夢叶った先は……何なのか。


 その答えは、ライブにある。


 愛にはそう思え、それが唯一の光にも見えて……震えは止まってくれていた。

(レン……愛してる)

 キャンディという姿形は失くしても、言葉という飾りで嘘をついても。Easy Come……すぐに手に入れられるものは、すぐ離れていく。ならば、すぐに手に入らないものは、……きっと。


 きっと死んでからも、残っている。



 ……


 陣の病室に訪れた愛は明るかった。手には道中で買ってきた、ひと口シュークリームの入った箱を持ち、いつも持ち歩いている鞄には携帯電話や財布の他に筆記用具とノート、『SAKURA』のCDが入っている。


「こんにちは……大丈夫?」


 個室のベッドで変わらず難しそうな本を読んでいた陣は、愛が来ると本を閉じ顔を上げて迎え入れた。「いいけど」素っ気ない返事も相変わらずだった。だが今日は、眼鏡をかけている。「どうしたの、眼鏡」壊れていたはずの眼鏡が直っていたことに愛はびっくりしていた。

「母親が買い直してきてくれた。昨日、眼科で検査を受けて、同じよーなやつ選んできてくれて。おかげでくっきりと視界がクリアになったわけだけど」

 眼鏡で隠れた目頭を指で押さえて、調子を整えていた。眼鏡をかけずに過ごした数日から慣れるまで、少し時間を要するらしかった。

「気分が悪くなったらすぐに言ってね……あんまり我慢しないで」

 様子を窺いながら愛は言葉をかけていた。陣の口から自然と「ありがとう」と出ていた。


『ありがとう』……愛は心中、珍しいものにでも触れたようで、思わず笑いがこぼれてしまった。「何が可笑しい?」それを見つけた陣は、ムッとして不愉快を表している。「ごめんごめん……まさかお礼を言われるなんてさ」


 言われた陣は、自分でも「……そうだな?」と意外そうにしていた。それもまた可笑しく、愛は吹き出しそうになるのを堪えていた。

「……そんなに笑うことかよ。変な女」

 不快は止まず、陣はシュークリームの入った箱を愛からぶんどった。


 先日に会った時のことが嘘のように、場が和やかに包まれていっていた。陣は、愛を自分のせいで泣かせてしまったことに対して自責の念にかられたのだろう、責任感の強さもあってか彼は無視できなかったのだった。


 陣は愛に感謝していた。出会えたことに、会い続けていられることに。それから。

「ん? 何?」

 愛は箱からシュークリームを取り出しながら、陣の視線が気になっていた。「いや……」

 返答に詰まりながらも、陣の視線は逸らさない。愛は何だろうと思いながらも、陣からシュークリームを受け取って、自分のものにかぶりついた。「おいしい!」

 今日の愛は本当に元気だった。憑き物が落ちたようで、爽快感に満ち足りていた。そういえば、と陣は愛の身に着けているものに注目する。デニムでネイビー系のレギンス風パンツ、フードの付いたワンピース風のコーラルピンクチュニック姿。メイクは流行りの、4色のシルバーブルーのグラデーションできめていた。首元に光る天然石の7連ネックレスが微かに輝いていた。


 いつも割と地味な女だと思っていた陣はクリアな視界にもなったせいか、愛を違う目で見てしまいそうになった。大人の女性……そう脳裏によぎっただけで、意識が高まってきていた。


「来週なんだけど、語学サークルで交流会があるんだ。カナダやアメリカから先生が来るらしくて、頑張って話しかけてみようと思う……積極的にならなきゃ、始まらないよね。何ごとも! ね!」


 溌剌として大きくなった目で見つめられて陣は、正直、うろたえていた。だが愛は気がつかずにべらべらとおしゃべりになっていた。「今の流行色ってね……」または「今朝のニュースじゃ……」と。楽しげに笑いかけてくる愛に圧倒されて、陣は黙って頷いているだけだった。


 陣にとって知らなかった愛がそこにいるように感じられた。此処に至るまで、悲しい表情の愛しか覚えがなかった。そして、いつもそうさせていたのは自分なのだと、後悔がいつも自分のなかにある。


 戸惑っていた。

 愛が「じゃ、そろそろ帰るね」と言い出した頃、時計はとうに夕方5時を過ぎていたことに全く気がついてはいなく。「あ、ああ。じゃ」と焦りで声が擦れている。


 何の疑念も抱かず、愛は軽い足取りで部屋を出て行った。陣は最後まで愛に目が離れずにいて……しばらく、誰もいなくなった部屋で愛のいた空気の余韻に浸っていた。やがて時間が経つにつれてそれは段々と薄まっていき、何処か冷えて掴み所のない寂しさが代わりに襲ってきていて――身が寒くなる。


(『エンジェ』……)


 陣のなかにある閃きがあった。すぐに、そばの棚の引き出しから筆記用具と大学ノートを取り出した。ノートの紙面を何枚かパラパラとめくり、真っ白いページになった途端、素早くボールペンで陣は何ごとかを書き出していった。その書く勢いは無我夢中という四字熟語がぴったりと当てはまって、彼の集中力が止むことはなかった。『鏡の前のエンジェ』と表題のつけられた、以下が書いたそれである。


『こんにちは ようこそ 鏡の前のエンジェたち

 君はだれ、って問いかけてみる

 君はだれ


 僕の恋人? そうだっけ

 それが君の一面なんだね

 ちっとも知らなかった


 でも僕は

 いつもの君がいい

 言わないけれど

 嬉しそうだから


 今日も鏡の前で違う最先端流行の服を着て

 違う君を見せようとした

 落ち着かない

 流されたくないんだ


 君は君なのに


 こんにちは ようこそ 鏡の前のエンジェたち

 君はだれ、って問いかけてみる

 君はだれ


 僕の恋人は違う子だよ

 そんな君は知らない』……


 ……嘘と幻想を織り交ぜた詩が出来上がった。陣はペンを置くと、またもや余韻に浸るように背を布団の上に預けながら、愛のことを考えていた。まぶたを閉じていても、愛の姿は消えることがなく……陣は自分でもこれは何なんだろうかと悩んでいた。


 陣が書いた『鏡の前のエンジェ』は閉じられて、元あった引き出しにと仕舞われていった。



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