2話(開演時間まで)
Easy Come ……
それはバンド『SAKURA』の、先週にリリースしたばかりの新曲だった。もちろん、愛は即行で購入する。販売はパソコンなどで彼らのホームページへ行き予約注文する、というものだった。ネット先行販売を終えてから一般に市場販売を開始するとホームページに書いてあったという。
パソコンなど普段からあまり馴染まない愛だったが、友達に頼んで予約してもらい、数日かけてやっと愛の手元に届いたのだった。今の愛の頭のなかは彼らのことで隅々までいっぱいであり、彼らの音楽が愛の生活に大きな影響を与えているのは明らかだった。運命をも本人知らずに変えてしまっているのかもしれない。
Easy Come ……
ボーカルの彼の名前はREN、レン。
重量感があり、けれど繊細で、鼻にかかったような独特な声を出す。聴いていると何時間も時を忘れて聴きいってしまう、その声質、そのセンス。
愛は虜だった。彼の賢さも、歌詞を訳して意味を理解できれば言葉で証明できる。
「イージーカムの後は、何て続くんだろうな……」
イージーカムといえば、イージーゴウと思う人がいるのかもしれない。『 Easy Come , Easy Go 』――日本のことわざで言えば、“得やすいものは失いやすい”である。
「……」
愛は自分の部屋のソファの上で、開けたばかりのケースのなかのCDを見つめた。CDに貼り付けてあったライブのチケットは何と100人限定ライブ招待チケットで、愛は見事に当てたのだった。
「行くわよ、もちろん!」
両手に力を入れ、立ち上がった。
今の愛を止められるものは何も……ない。……
『あなたに僕が見えますか
あなたに僕の声が聞こえますか
見えやしない
届きやしない
だまされている
だまされて喜んでいる
人生は お飾りなんだ パーティーなんだ 』
新曲を聴きながら、愛は口ずさむ。ただ、歌詞は全て英語だったために愛から放たれる言葉は意味不明な言葉だった。もちろん愛自身、そんなことはとっくに分かりきっているから言わないでほしいと周囲に対して思っていた。
頭のなかではレンの声が響いている。歌が終わっても再び始まる。歌は手に持つCDプレーヤーに最初設定された通り、エンドレスで繰り返し繰り返し同じ曲が流されているのだった。だが何度聴いても全然飽きはせず、それどころか、まるで自分がレンの一部にでもなったかのような錯覚を覚えた。断言してしまってもいい、自分はレンと共にあるのだと……。
時刻はちょうど夕刻6時を迎えた。開始予定は7時からだと手元のチケットには書いてあった。
愛は電車を乗り継ぎ、来たこともない地へと赴く。電車のなかでは帰宅ラッシュ時であるにも関わらず、混み合う人ごみのなか幸運にも座席に座ることができ、おかげで着くまでCDプレーヤーのイヤホン越しにレンの歌声を満喫できたのだった。
迷うことはなく、ライブチケットに書かれていた簡単な地図と案内を頼りに愛は辿り着くことができた。
ライブハウス。
此処に来る前に詳しく調べておけばよかったかなと、愛は思った。動員数が100人ということ、しかも、内緒のライブと聞いている。こじんまりとした店を想像していただけに、愛は「え? こんな所で?」と軽く首を捻っていた。
5階建ての白塗りの壁の素っ気ないビル。見上げても、『英会話』『軽食ザッツ』などの小さい看板が各階に添え付けてあるだけの建物。入り口は開閉のドアもなくスッポリと横穴が空いたように奥まで続き、突き当たるとエレベータがあった。人が辺りにまばらで、女の子ばかりのようである。2、3人の知り合い同士で固まって談笑していたりしている。ピンクのキャミソールを着た、一番此処にいるなかで涼しげな格好だと思った女の子と愛は目が合った。しかし向こうの方が先に目を背けてしまったという。
彼女らもライブに? ……愛は少し心細げで前にと歩を進めた。
エレベータに着くまでの道伝いの壁に案内板が設置されていたので、愛はチケットに書かれていたライブハウスかバンドの名前を確認しようとした……だがしかし変なことに気がつく。
ライブハウスの名前である『SHOWTIME(ショウタイム)』。そう、黒マジックで手書きで横書きにされていた、白い紙が案内板の『屋上』の位置部分に貼られていた。
屋上? もはやハウスではない……何度も愛は首を傾げている。
するとエレベータの呼び出しボタンを押そうとした時、後ろから声をかけられたのだった。
「さっき店長の人が来て、開演時間までは来ないで下さいって」
愛は振り向く。先ほど視線をかわされた、キャミの女の子だった。栗色の茶髪を後ろでアップにしており、派手なラメ入りのピン留めで巻きつかせるように留めている。化粧はナチュラルメイクで少し甘い香りの香水をつけていた。
高校生くらいだろうかと愛は思って一瞬だけたじろいだ。高校生相手にどの態度と目線で話せばいいのかを考えてしまっていた。「そ、そうなの……ありがとうございます」
「あんたもライブ? 当たったワケ?」
愛の返事など聞いていない寸秒の間で相手は質問してきた。愛は「ええと……ええ、はい」と頷いた。
「フウン……」
相手はじいい、と愛の顔を舐めるように見るが、あまり気分のよいものではない。愛は我慢して、相手の次の言葉を待っていた。
「あたしギターのシークが好きなんだぁ。あのサウンド、シビれちゃう。あんたも、そう思わなぁいぃ?」
「……」
予想もしていないことを聞かれたので、愛はしばらく言葉を失った。
頭がどうにも回らない。
困った愛だが、何とか反応して頷いた。
「だよねぇ」
名前も知らないキャミの女の子は、鼻で笑うような仕草をとった後。愛から離れて、元いた集団の中へと戻って行った。
出迎えた集団からすぐ、どっと笑い声が上がる。もしや自分が馬鹿にされているのではないかと、愛は不安になって冷たいコンクリートの壁に体を向けて、小さく身を固めていた。
早く開演時間になってと、祈る気持ちで……。
人生は お飾りなんだ パーティーなんだ
僕も そうなんだ
……
(『僕も』……?)
愛の脳裏にクエスチョン・マークが浮かぶ。僕、即ちレンは、何が自分も『そうだ』というのだろうか……と。
考えてみても、すっきりとした答えには到底いかないだろうと予測していた。
開演時間になるまでの間。不安な愛を、記憶の中のレンの歌声が支えのように優しく包んでくれている。愛が想像し像となったレンが愛の頭のなかで祀りあげられていた。
歌詞の内容など、関係なく……歌は、流れている。