17話(帰国)
愛は小さなテーブルの上のノート前で、ひとりシャープペンを右手で握り締めウンウンと唸っていた――先日に、考えておいてと言われた文書にチャレンジしていたのだった。
「もー、……ダメ……」
冷たいガラステーブルに体の筋肉を伸ばして突っ伏す……これが限界とばかりに正座に組んでいた足を崩し、楽な姿勢をとった。「私には無理」……と泣き言をつい、漏らしてしまう。そうして今度は頭髪の毛をわしゃわしゃと数分間掻きむしり、とうとう悲鳴を上げた。「ああん、もお!」
友人に頼まれて書いてはみるが、どうにも上手く書くことが出来ず、四苦八苦して書き切ってはみたものの最初から読み返すと顔から火が出るほど恥ずかしく。とても人前に披露可能な代物ではないと……ついにペンは投げられた。「もう知らない!」
躍起になって、書かれた紙は至極ぞんざいに丸められ、ゴミ箱にポイと軽く投げられた。愛は時間で区切りをつけて諦めた後、気分直しに飲み物をと台所へ立ち上がって向かって行った。淹れたコーヒーの香りが周囲に広がり漂う……愛はリモコンでテレビの電源をつけた。テレビでは夕方までに入ってきた全国各地のニュースを流していた。地方自治の報道へと切り替わり、中継での記者は外が雨で傘をさして報道をしていた。
『あなたに逢いたい。
あなたに逢えるなら、死んでもいい。これっておかしい?』 ……
愛の頭から噴火したかと思われたほど、全身が激しく熱くなってきている。失敗だ、と愛は思った。もうすでに書いた紙はゴミ箱のなかのブラックホールへと吸い込まれている。愛はレンを真似て自分の心情を、言葉という記号を用いて綴ってみた。だが、冷静になって読んでみると一体誰に向けて読んでほしいのかと誰かに聞きたくなってくる。レンにではない、レンに聞かれてしまったなら、それはきっと――焦る。
レンに自分の気持ちを知ってもらいたいけれど、でもやっぱり知られるのは嫌。どっちなの、と愛はまた頭の毛を掻きむしる。「……お風呂入ろ」
また気分を変えようと、バスタオルと着替えを持って脱衣所に向かった。
愛が去ってしまった後、テレビの報道は一般から芸能へと話題は移り変わっていった……有名役者の結婚や、タレントの番組内での失言など……真実よりも大げさな文句は飾り立てられ脚光を浴びる。そのなかでレンが――バンド、『SAKURA』と関係者がアメリカから帰国した、と騒ぎ立てられていた。
残念ながら報道は愛の目に触れられてはいない。
湯気の揚がる浴室で、愛は熱めのシャワーを頭の上から浴びながら、何度目かの後悔を思い出していた。自分が陣に投げてしまった言葉とやりとりの数々を……悔いていた。
(あの人が悪い訳じゃないわ……私が、しっかりしてないだけよ。……しっかりしなきゃ。レンみたいに、前に向って進まなきゃ……)
『〜しなければいけない』を繰り返し、愛は無理をしていた。愛は自分に戒めて厳しく、頬を叩いて目を瞬く。体を滑り落ちていく、足元に達したシャワーの湯は排水溝まで流れ流れて見えなくなり消えていった。
……
数日後。特に身には何の問題も表れず、陣の入院生活も平穏無事に過ごしていっているという昼下がり。問題は、突如予告もなくやってくるものだった。
愛は過日、感情を出してしまった気恥ずかしさも去ることながら、気を取り直して陣のいる病室へと向かっている。手には、筆記用具やCDと、財布や携帯電話などの小物が入った手提げの鞄を持っていた。五月晴れの今日は、外に出るには気分が爽快でよく、じめじめとした梅雨ももうそろそろ終わりに近づくかと思われていた。ちなみに五月晴れとは言っても5月ではない、本来、梅雨の雨続きのさなかでの晴れ間のことを五月晴れと言う。今は6月も終わりかけに入っていた。
病室に着く前に、廊下で愛はふと足を止める。
数メートル目先に陣がいる病室が待っているのだが、手を離すと自然にゆっくりと閉まってくれる大きめな病室の引き戸から、見たことのない老夫婦が出てきたのだった。老夫婦、とはいっても近づいていってみれば歳はそう、50代位といった所だろうか。老けて見えたのは、女性男性の双方とも白髪が目立って混じり、陰背負う暗さを持つというよりは真面目そうで怖い顔つきをしているせいだろうからと思われた。
愛と廊下ですれ違った後、受付玄関のある下の階へとエレベータに乗り込んで行った。愛はその光景をしばらく見守っていた後……陣の病室を訪れた。
「どうぞ」
ノックをすると返事がなかから返ってくる。愛がドアを開けて入るが、陣の表情に動きはなく、来る愛を目で追って見ていて……半身を、ベッドごと起こしたまま静かにしていた。
「この間はごめんなさい。失礼なことを言ってしまって。……反省してる」
失礼なこと――『あなたたちに何が分かるっていうの』。自分の言い草の方が一方的だったと愛は思った。普段の陣の口や態度が、あまり誉れたものではないということは理解できていたはずなのに――愛は自分が情けなかった。
ところが陣は、「ああ、別に」と平然とした態度をとっていた。「そんなことより……」
話を切り替えていた。途端に難しい顔が益々曇りを増したようで、まぶたを薄く閉じかけていた。「何があったの? さっき出ていったのはどなた? ……まさか」愛は、自分で言いながら可能性のひとつを見つけてしまう。自然と出た可能性とは……。
「あれが俺の親」
沈黙が寸秒、2人に襲いかかる。振り払って、愛はごくりと唾を飲み込んでいた。陣の表情が険しく、事態の重さを物語っている。それは陣にぶつけられた障壁でもあった。
老夫婦に見えた陣の父親と母親――病院からの何度目かの連絡を受け、怒りの治まっていなかった父、祖父の両者は毛頭来る気などなかったという。旅館でもある経営の方をそう簡単に休業することも出来ず、放っておけ馬鹿がとさえ言い放っていたらしい。それでもやはり心配した母親は、熱心にも父だけでもせめてと説得し、それは成功したようで、2人は旅館を従業員や祖父に任せ遠方となる病院へと赴いてきたということだった。来てすぐ病院側から事情の説明を受けた後、事故を起こした相手側、即ち暴走してきた車の持ち主側と示談交渉を行い、話をつけた……それはそれで決着がついたようで、愛については元々被害者でもあるので負担などは一切発生しなかった。
そのことは陣にとっては重要ではない。此処からだった。
遠路はるばると来た両親は、またすぐに帰らねばならなかった。また来ると……だがそう何度も往復し続けるのも骨が折れるからと、陣に病院の転移を申し出たのである。医者の話では、今後様子をみて安定しているようなら構いませんがという返答だった。田舎の病院へ移った方がのんびりとして、残っている麻痺のリハビリができていいのではないでしょうかという意見もあった。陣は、……複雑な心境でことを聞き流していた。
田舎へ移るということは、今もだが、大学とは完全に隔離されていく……一度決めて思い発って行動してきたというのに、完全に挫かれた、その思いがまだ強く陣を捕えていた。悔しさ、腹立たしさ、許せない……誰に、何にか。
「ちくしょう……」
漠然とした夢だっただろう。でもやっと見つけた自分のしたいこと、方向。両親たちの反対を無視して決めてきた、自分の選んだ道を、今に断たれようとしているのか――事故、――怪我のせいで。
一体誰を恨めばいいというのか。陣は行き場のない怒りと悲しみで、つい声を漏らしてしまっていた。「こんな体で……」固く握りしめられたこぶしは震え、目尻から薄く水が滲み出る。よほどの悔しさは、いつも静かで冷ややかな陣を激しく動揺させていた。だが、それ以上に動揺させたのが……愛の涙だった。
気がつけば、愛が泣いていた。陣は自分のことで思いは忙しく、愛のことを全く考えてはいなかったのだった。顔を手で伏せて押さえようとしているが、指と指の隙間から滴が垂れてきている。言葉はなく、嗚咽を吐き漏らさないよう懸命になかに耐えていた。
「ごめん……俺のせいで……」
愛に返事はない。空は雲がせっかくの青空を隠すようにまた、雨を寂寞に呼んでいた。
……
苦しい。
此処から、抜け出したい、此処から、変わりたい。
状況を変えたい、自分を変えたい、変える、改革するには、……どうしたらいいのだろう?
仕方を教えて神様……レン。
……
愛が願えば願うほど、困難がやって来るということに愛は少しずつだが……気がつき始めていた。
そうやってくたびれた愛は重い足をひきずるように帰宅する。だがその前に、来客がいた。
折りたたみの傘を閉じてマンションへ着いた後、階をエレベータで上がると……愛の部屋の、玄関のドア前で誰かが待っていた。頭が垂れて顔は俯き見えなかったが、ドアにもたれて座り込み両膝を立てていた。だらりと姿勢は楽にして、人が来るのを感じ取ると少しだが反応を示し体を動かしていた。おかげで顔色が僅かに窺える。金茶に近い髪が揺れていた。
「レン……」