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15話(Wheatfield)


 ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(Vincent van Gogh 1853〜1890)


 後期印象派の画家。オランダ生まれで晩年はフランスで活動。強烈な色彩と激情的な筆致の絵を描きフォーヴィスム(野獣派)に影響を与えた。代表作に「ひまわり」など多数。オランダのプロテスタントの牧師の息子で自身も信仰心が厚く、1890年7月オヴェールで銃自殺した。生前に売れた絵は1点だけだったとされるが、その頃には既に画家仲間から作品は知られるようになり、評価され始めた時期だった。傑作とも言われる「黒い鳥のいる麦畑」を描いた数週間後に自殺を図っていることからも、画家が極めて危機的な精神的状態にあったことが窺い知ることができる。彼の画家としての人生は、僅か10年にしか過ぎない。37歳没。




 アメリカ合衆国中東部インディアナ州、東部の郡であるランドルフ郡。人口3万足らずのこの土地にレンは来訪した。訪米してから、ミステリーサークルが現れたというだけで行先を決定し立ち寄ることにしただけだという。レンにとっては特に縁も所縁(ゆかり)もないこの土地で……彼は、土を踏む。


 今、この地に赴いたのはレンただひとり。あとのメンバーやスタッフは此処にはいない。レンがひとりでこの地に訪れたことなど、知る由もないだろう。レン、彼の発作的な――『気まぐれ』な行動だったのだから。


 麦畑が広がっていた。

 6月も中頃、冬に蒔いた種は実を結び、金色の穂はしなやかに流れ整列して並びその生命を規則正しく輝かせる。揺らぐ穂の音色は風の音と同化し、協和音は奏でられて旋律はレンの全身に染み渡り心地よく、時をしばし忘れて酔いしれている。


(来てよかったな……)


 自然の恩恵を受けていた。麦畑より向こう、目を細めて見える夕陽の彼方前方には、民家と……空の赤いグラデーションに溶け込むような壮麗な山脈。レンは見てとても満足だった。


「いい詞が書け……『描け』そうだ」

 子どものように楽しげに、爛漫(らんまん)に笑いながら。己の気質など知り尽くしているのだろう、はしゃぎ踊りそうな衝動、そのままに、彼は誰にも見られてないからと高くジャンプした。

 無人と思わしき麦畑にひとり。愉快に寝転ぶ、在りのままのレン。解放されて、飛び込んだ麦のベッドは何処までも果てしなく広がっているためレンを縛りつけることはない。ああ自由だとレンは深く安らぎのため息をついた。体の中に溜めていた古きものは、全て吐き出されていくようだ。


 ――土(くさ)い匂いがするな。労働のにおいだ。


 せっかく着てきたジョー・○ックの上等な黒Tシャツにプリントされたメッセージは、泥にまみれて薄汚れ消えかけている。『Vincent van Gogh is advent again.』――×××は再び降り立つ。

 此処に銃があったなら。レン、彼の次の行動選択に狂いは生じなかっただろうか。かつて過ぎ行く絵画の巨匠――僅か10年の活動期間で生涯を閉じた者の、身も心も圧迫された表現者としての生き様。レンには、とても他人ごとの様に思えはしなかった。


(人生はお飾りだろう? ……なあ?)


 レンの閉じた両目からは涙が自然と流れてくる。これは、同じ表現者としての苦しみでもあり、生みの苦しみでもあり……。

(金も……世間も言葉も……目に見えるものは嘘ばかり……)


 笑えない。


 お金がなければ成り立たない、後世に残らない芸術というのは、一体何処へ消えるというのだろうか。存在を世間へ知らしめ光を浴びて、周りから聞こえ耳触れるのは称賛と敵意の風である。一方では神だ仏だ、素晴らしき価値ありきものよ、と謳い笑い転げ、一方では何だ、くだらない何処がいいのかあんなものにと平気で唾を――吐くだろう? 表現者はそんな人生、そんな道を辿る。後に残そうとして理想を形に変えて去る。その作品とも言われた『形』がお金か言葉か、芸術か。そのお互いはお互いに、融け合うことはないだろう。お金、言葉、芸術……許し(わかり)合えないのか、どうしても。許し(わかり)合うには何が要る? 何を持ってくればいい?


 レンの両目は見開いた。


 身を素早く弾かれるようにして起こし、つられて土や埃はレンの衣服から舞い落ちた。金髪に近い色のついた頭の髪から落ちた(しずく)は……誰にも見られてはいない。レンは確認するために、『声』でしっかりと指針を表した。


「愛が要る」


 レンは胸前で十字を描き、宗教者の真似ごとをしてみせた。

「俺は神を信じてはいない。信じているのは……」

 握り締めたこぶしに込めた力を熱く感じた。雄大な大地から授かった溢れ出るエネルギーを、また『言葉』に変えて。レンに(おび)えは潜伏してはいなかった。


「俺は俺だ。……It's You」


 それがあなたです。あなたはあなたなのです。

 レンが自分に下した選択、判断、審判。他人を信じるより自分を信じよう、そのために孤独(ひとり)でいよう、どうか放っておいて欲しい。『お飾り』にだまされないために、自分を護り殻に閉じこめ。


 Even if I go to where, I am lonely……

 ――僕は、ずっとひとり


 レンは歌った。

 世間は歌詞の意味など知らなくても平気と無恥で歌う。人生はお飾りなのだから……それでいい。けれど、ひとりで生きてはいかれない。ひとりで過ごすには限界があった。閉じこもった殻のなかはいつも不満と退屈だらけではち切れそうになる……破りたい、もうこれ以上我慢ができない……たすけて。たすけて、たすけて。そして求める、自由、解放、救いを、それから。


 愛を。


 ……


 I lose my way in the maze

 迷路の中で迷う

 Help me

 助けてください

 Give me love

 僕に愛を

 Give the hand of love of the god

 神の、愛の手を


 Was I wrong?

 僕は間違っていたのでしょうか

 I want light

 光がほしいんです

 Warm light

 あたたかな光が

 I want healing

 癒しがほしいんです

 Your hand

 あなたの手が



 With a smile

 笑いかけてください

 Without thinking

 考えないでください

 I do not want to think that you are telling a lie

 あなたが嘘をついているとは思いたくはない

 I became tired of worry

 考えることに疲れたんです

 Laugh quietly gently to me

 そっと笑いかけてください


 And, to another world

 そして別の世界へ


 ……



 ……梅雨の真っ只なかに季節は変わろうとしている。

 梅雨前線は沖縄から日本の上空を北上し、停滞する。連日の曇り空と雨、その影響に見舞われた地上では何処でも傘が必要で、水害のニュースはいつも絶えることがない。


 胸元シャーリングのギンガムチェックブラウスに細身のナイトネイビー色パンツを履いた愛は、長くなった髪を暑苦しいからと、蝶をあしらったヘアクリップでトップに留めていた。休日に美容室に行ってこの長ったらしくなった髪をどうにかしてしまおうかと、考えている。


 もうすっかり通い慣れた総合病院へ、今日という日も愛は休み惜しまず足を運んでいた。陣が意識を取り戻し生還してから一度、応急手術を施して、それが成功したとみてから数週間の経過だった。頼まれた本を市立図書館から借りてきて、それから陣は愛と交流を持つようになっていた。


 陣が借りてきてほしいと頼んだ本は、愛にとっては退屈となってしまうもので。化学用語などが嫌というほど登場し、びっしりと端から端まで字が詰まった専門書だった。だが陣は愛の前では本を広げず、愛のことを聞いてきている。

「翻訳家めざしてるんだ? ……へえ、それはそれは。確か特別な資格はこれといって要らなかったと思うけど、技能認定試験みたいなのがなかったっけ。とっとく方が有利なんじゃないのか」


 陣は眠いのか、ベッドにいる自分の上に置いていた簡易台に頬杖をついて、目を閉じて言っていた。


「そうね……勤めの面接の時なんかに、実力の目安になると思う。試験があるのは英語と中国語なんだけど、まずは英語かな……」


 少し元気はなかった。自信がない、と言っているかのような顔をする。実際、外国人との交流をする機会を大学などで数回と得てはいたが、愛が満足できるようなものでは到底なかったのだった。自信のなさは始めから徐々に示されていくようで、愛はもういっそ何もかもをやめてしまおうかと諦めかけている。そうは言ってもやはり前向きだった愛は、諦めないでやり過ごしてはいるのだが。

「失敗ばかりなんだ……思うように発音もできないし、会話しても相手を困らせちゃうみたいで……自分が嫌んなる、ほんと……」

 肩を落とし、膝元で組んだ指を使って遊んでいた。行き場を失くした視線が、陣の言葉で上を向く。


「やめたら終わりだぜ」

 目は開いていた。

「それで納得すると思うか? するなら、やめればいいけど」

 表情もなく厳しい口調の陣に、愛は珍しく頭のなかにカチンと(はじ)く衝撃で音が響ききた。


「あなたに……」


 つい漏れてしまった声は、止まらなく続いてしまう。

「あなた『たち』に。何が! ……分かるっていうの」

 陣だけのことを指している訳ではなかった。前も今も右も左も追い詰められてばかりの愛の脳裏に、事故で壊れた携帯電話やCD、そして……事故以来、連絡がひとつですらないレンの憎らしい姿が思い浮かぶ。……


 窓の外では雨が、音を静かにシトシトと……木の葉を揺らし止む気配を見せず、どんよりと薄暗い雲が太陽の光を遮り、それは人の活力の妨げにも――なっていた。




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