おはよう、ありがとう、さようなら
「私、好きだった」
「は、過去形なわけ?」
「多分現在進行形」
「・・・何それ」
「分かんない」
俺はすぐ隣で膝を抱え込んでいる小さな女見て小さく笑った。
彼女の言葉はいつも矛盾している。
会話が成り立ったことは、今まで数えるほどではないかと思うくらいだ。
そして、そんな彼女の話に付き合っている俺も大概だが。
彼女は、ずっと黙って下を向いていた。
その視線の先を追っていけば、泥だらけの地面が目に入ってくる。
どうやら先ほどまで、雨が降っていたらしい。
地面は殴られたようにグチャグチャの惨状だった。
これを見て可哀想だと彼女は思っているのかもしれない。
だけど、これは自然現象によって引き起こされたものなので、何も可哀想だと思い、負を背負うことはない。
雨が降らなければ、草木は枯れてしまうのだから。
無駄な足掻きなのだと分かっているが、両手をさすり続けて暖めようと努力する。
こんな手ではきっとボタンさえ留められない。
無駄な努力は報われず、手首の疲れだけが生まれた。
溜息をついて、ポケットに無理やり手を押し込む。
その溜息さえも白く、空中で何かに飲み込まれて消えていった。
ザ、っと足を蹴り上げれば、水を存分に含んだ土が数メートルに渡って弧を描き飛び散る。
数秒、茶褐色の濁った泥が粉々に切れて宙を舞う姿。
近いうちに、雪が降るのだということを思い出した。
「さぶっ」
瞬間、風が颯爽と駆け抜ける。
普段より湿気が多い空気が肺の中に充満する。
ただの通り雨だった。
冬の真っ只中に降り続けた雨が、俺の心を重くさせる。
そして何より、寒い。
マフラーは愚か、手袋さえ付けていない。
ほんの少し前、彼女が情けない、頼りない足取りで一人で外に行こうとしている姿を目撃してしまった。
彼女は薄着で出ようとしていた。
見失わないようにと、その後を急いで追う。
そんな自分の姿も薄着であったことに、後で気が付く。
彼女の姿を探すのに必死で、マフラーと手袋、コートなんていうものは、頭の中に浮かんでこなかった。
普通に考えれば、あんな足取りの相手を見失うはずはなかったのに、あの時の彼女の背中が酷く遠く見えたものだから、不安だったのだ。
薄着でいられるほどの温かさを宿した季節を懐かしく思う。
まだあの時は、その温かさの恩恵に甘え感謝することさえ忘れていた。
当たり前の温かさではなかったのに、身体に馴染み分からなかったのだ。
中から外へ。一歩踏み出せば世界は変わる。
中とここでは、桁違いに冷たい。なんなのだ。この温度の差。
さすがに、これにはまいった。
風は鋭いナイフのように痛い。
着込んでいない体にグサリと深々と突き刺さっていく。
今までは、体に防寒具を纏うことで、その危機に何とか絶え続けられた。
けれど今この現状。
ああ・・・最後、心臓に刺さってしまえば終わりだ。
もしかすると、すでに彼女の心臓には突き刺さってしまったのではないか。
動かない物体を見下ろして俺は思う。
「私ね、雨が好きだった」
「過去形なわけ?」
「雨が好きだった」
「何で」
「好きだったの」
「・・・おい」
「好きで仕方がなかった」
、彼女の言葉が酷く体を鈍らせる。
恐ろしいほど感情が入っていない無機質な声色が鋭いナイフを跳ね返しているようにも思えた。
この際、雨が好きか、嫌いか、何ていう議論はどうでもいい。
彼女の話はいつだって聞ける。
だけど話を聞くためには、ここから生きて帰らなければならない。
何よりも命が大事だ。
誰にどう言われたとしても、命を優先させるに決まっている。
「なぁ、もう戻ろう」
真っ白な横顔に真っ黒な髪がかかって、シンクロする。
でも鼻だけは真っ赤だった。
「ねぇ・・・顔、怖い」
ぼんやりと足元にある小さな水溜りに、己の顔を浮かばせている彼女が呟いた。
人に背を向けているのに関わらず、知っているかのように言い、人の顔を「怖い」と何とも失礼な暴言を吐く人間は、こいつ以外にそう易々といない。
ピンと張り巡らされた凍っていたはずの神経が切れかけた。
視線を下ろして、小さな水溜りを見る。
覗き込むようにすれば、吸い込まれそうになる深い虚像。
彼女の顔が移った位置から斜めに向かって、小さく見えるのは俺の顔だった。
歪み過ぎた顔。
鬼のような顔だと、更に続けて彼女が言ったが、否定は出来なかった。
雲が早足に流れている。
太陽はまだ見えない。
「好きだった」
それが何を意味するのか。
もう、俺には分かっていた。
水溜りに虚しく落ちていたのは1枚の手紙。
それが世界を歪ましている。
彼女の心臓を突き刺したのは、何ともちっぽけな言葉だった。
すでに、言葉は滲んでぐにゃぐにゃだった。
読めるものも読めなくなってしまっている。
そこに書いている言葉なんて俺は知らない。
いつも思うが、日本語という字はややこしくて難しい。
「彼、雨が好きだったの」
「おう」
「雨の降る日に生まれたんだって」
「おう」
「雨の日に付き合い始めたの」
「だから雨が好きだった」
キラリと光っている水溜りに、ふと落ちるなにか。
雨がやんだはずなのに、水がポタっと、ひとしずく落ちていった。
「私まで、好きになっちゃったよ」
もう読むことのできない手紙は、彼女の恋の終わりを告げていた。
たった2行の短い文に、人をここまで悲しませる力がある事を俺は知る。
それは、真っ白なうすっぺらい愛想のない手紙。
幼い頃から近くにいた2人にとっては、この離れすぎた距離が重荷だったか。
きっと、彼女は、離れすぎた関係が別れをもたらすなんて考えもしなかっただろう。
「ねえ、いまも好き」
寒さのせいか、流れ出る熱のせいか、彼女が途切れ途切れに紡ぐ言葉。
こもった声が、白い空気とともに小さく消えていく。
「ああ、それは良かったな」
最後の手紙は「さようなら」
泥水が滲みすぎて、字が分からなくなった手紙から目を離さず、彼女は、そっと立ち上がった。
歪んだ彼女の顔は小さくなっていく。
お別れしましょう、さようならしましょう。
冷たいナイフのような風が吹き付けているのは、雨が降った後だからだと。
葉を落としきった寂しい木が、ポキポキと音を立てている。
振り向いた彼女が見たのはブスっとした男の顔で、鼻は面白いくらいに赤かった。
無性に可笑しくて彼女が笑い出すと、空気が揺れて動く。
それを呆気にとられて見ていたが、我に返ってニヤッと笑って、ポンっと冷たい手を彼女の頭の上にのせて「俺がいるだろ」と言った。
突き刺す風に、まだまだ耐えられると感じるのは。
「ありがとう」
そして、笑った
嗚呼、今日もまた赤く腫れた目で
「おはよう」をして
バカな私を見捨てないでくれて 「ありがとう」
だから、もう涙とは 「さようなら」