小さな宇宙のはじまりの話
ようやく掃除を終えてからソファに腰掛け、史緒はふうーと大きな息を吐き出した。
実家近くで最も高層の建物の最上階、という条件で選んだこの部屋は、意外と面積があって、一通り掃除機をかけるだけでも結構な労働だ。見晴らしのいい大きなベランダ、広いLDKにゆったりした寝室、今はまだ使われていない一部屋と、おまけに書斎までがあるのだから、大学出たての新婚にしては、かなり分不相応な物件であろうことくらいは自覚がある。
史緒は別にこれほど広い部屋でなくてよかったのだが、このあたりで「空にいちばん近そうな場所」に当てはまるのがここだけだったのだから致し方ない。
「はー、疲れた」
よっこらしょと体勢を変え、スイカを丸呑みしたように張り出した大きなお腹を手で撫でる。
いくら史緒が面倒くさがりでも、広めの部屋とはいえ普通なら掃除くらいでここまで疲労はしない。
しかしなにしろ現在は、予定日を来月に控えた、臨月の身である。はっきり言って靴下を履くのも自分一人では困難なこの体形では、何をするにも一苦労なのだ。
「だから大人しくしていろと言っているのに……」
史緒の隣に座る高遠が、広げた新聞の上から苦々しい表情でこちらを睨んでいる。
昔から説教くさい男であった高遠は、史緒が妊婦になってからはさらに口うるさくなった。
史緒の代わりに家事全般を担ってくれるのは楽でいいが、食事のたびにやれ栄養バランスがどうの、鉄分摂取がどうの、甘いものを食べすぎてダラダラしていると体重が増えすぎるだのとガミガミ言われるので、夫というよりは姑と一緒に暮らしているような気分になる。
「だって少しは運動しないと、産む時に大変だってお医者さんも言ってたよ」
「もちろんだ。そんなことは医者に言われなくとも僕は重々承知しているし、君にも何度も注意したはずだぞ? だから僕が厳密に計算した上で適度な運動プログラムを組んでやったというのに、それをきっちり実行せずに怠けていたのは君だろう。だから今になってそんな風に帳尻合わせで苦しむことになるんだ。そういうのを泥縄、すなわち『泥棒を捕らえて縄をなう』ということだと知っているか。大体君は小学生の時から夏休みの宿題を八月の三十一日にまとめてやるというところがあったが、そういう無計画な性質はまったく変わっていないな」
「はいはい」
その長い説教の大部分は聞き流したものの、史緒はなるべく素直に返事をした。
うぜえなと思わないでもないが、実際、高遠が何冊も本を読んで「地球人の妊娠」についての知識を蓄え、適切な助言や忠告をしてくれていたのは知っているので、それに感謝するくらいの気持ちは史緒だって持っている。しかしながら、高遠の組んだ「プログラム」というのが、あまりにも微に入り細を穿つような几帳面かつ神経質なものなので、あんなもん実行できるか、とも正直思っている。
お腹を撫でたまま、もう一度ふーと深い息を吐き出すと、高遠が新聞を畳んで脇に置き、手を伸ばしてきた。
「……少し張っているな、痛みは?」
衣服越しに史緒の腹部に触れて、眉を寄せる。
「ちょっとキューッて硬くなってる感じがするかな。大丈夫、すぐ収まるよ」
「張りが続くようなら、病院に行くぞ」
「そんな大げさな」
「何を言ってるんだ君は。臨月というのは、もういつ産まれてもおかしくはない時期なんだぞ。これで出血でもあったら、何かの異常が起きている可能性もある。初産のくせにどうして君がそうまで呑気に構えていられるのか僕には理解できないが、出産というものを軽く考えていると、のちのち──」
「へいへい」
真面目な顔で小言を続けられて、史緒の返事も大分いい加減になってきた。
別に史緒だって、軽く考えているわけではないのである。出産の当事者は他の誰でもなく自分自身だ。
「でも、そーかー、もういつ産まれてもおかしくないんだねえー」
高遠の台詞でその事実を改めて認識し、二人分の手が乗った、膨らんだお腹に目をやった。
「時間が経つのは早いよね……」
妊娠が発覚してから猛スピードで流れた経過を思い出し、ついしみじみとしてしまう。
……本当、この短期間で、いろんなことがあったよね。
お腹に子供がいると判ったのは、大学を卒業した後のことだ。すでに貰っていた就職の内定も大慌てで辞退することになり、史緒は方々に頭を下げまくった。
高遠は涼しい顔で塚原家に挨拶に来て、もちろん、寝耳に水の両親はびっくり仰天だ。「えっ、結婚? わたしまだそんな気ないんだけど、面倒だし」と同じく驚く史緒の意見などはガン無視され、高遠と親の間でとんとん拍子に話が決まってしまい、三月に卒業、四月に結婚、という非常に慌ただしいことになった。式は挙げていないが、それでも引っ越しに諸々の手続きにと、目の回るような忙しさだった。
そんなに急がなくてもいいって、何度も言ったのに……
「…………」
史緒はちょっと遠い目になった。
まさか自分がこんなにも早く結婚し、母になるとは。小学生の頃の自分が知ったら、きっと腰を抜かすだろう。
とはいえもちろん、今に至るまで後悔などは一回もしたことがない。もともと史緒は物事を深く考えるタイプではまったくなく、過去を顧みるような性分とも程遠いのだ。
お腹の子は、まだ生まれてもいないのに可愛いし。どういうわけだか高遠はわりと甲斐性のある旦那だし(通帳に振り込まれるお金についても深くは考えない)。史緒にとって、この現状にはなんの不満もなかった。
目下の気がかりといえば、間近に迫った出産についてくらいか。
「ちゃんと無事に生まれてくるといいね」
「当たり前だ。地球の医療技術は未だ万全ではないが、傍に僕がいるんだから何も心配することはない」
「不安だ……」
なにしろ高遠は、妊娠だけでなく出産についての知識ももはや産婦人科医なみに得ているらしいのである。本人がどうしてもと希望するので出産は立ち合いとしたのだが、もしも何か不測の事態が起こった時、本当に高遠がお医者さんを押しのけて子供を取り上げかねない。ものすごくイヤだ。
「何の問題もなく、すんなり安産できますように」
「ここにきて神頼みか? だから僕が教えたとおりにしていれば、完璧に近い出産を迎えられたのに。しかし精神的に不安定だと母体にもよくないし、胎児にも悪影響を及ぼすかもしれない。小さなことでも今のうちに解消しておくべきだ。さあ、どんなことが不安なのか僕に余すことなく話してみろ。医師が信用できないというのなら、自宅出産に変更してもいい。僕がこの手で赤ん坊を取り上げてやる。大体僕は地球の未熟な医療技術などに君と子の生命を預けることには甚だ危惧を抱いていたんだ。さすがにその時ばかりは君の周囲に張ってあるシステムも解除せねばならないからな。もしも何かがあってわずかでも母体が傷つけられるようなことになったら医師ごと病院を吹き飛ばしてやるから、その点についても安心していいぞ」
「…………」
あんたのそういうところが不安なんだよ! と口にしないだけ、史緒は大人になった。
「……まあ、なにしろはじめてだからね。陣痛は想像を絶する痛みだっていうし。狭い産道を大きな異物が通るわけだからしょうがないけど、人によっては、苦痛のあまり死にそうだった、なんていうケースもあるみたいだし。そんな話を聞いたら、不安にもなるし、怖くもなるよ」
「しかし君、僕とのはじめての時もそれとまったく同じことを言っていたが、終わってみたら意外と──」
真っ昼間から不適切発言をしようとした高遠の口を、史緒は拳ひとつで強引に閉じさせた。子供の前でなんということを言うのだ。
「とにかく元気に生まれてくれれば、それでいいけど」
「──そうだな」
再びお腹を撫でながらそう言うと、高遠は片手で自分の赤くなった顎を擦りつつ、もう片手で同じように史緒のお腹を撫でた。
長くしなやかな指が、そっと繊細な動きで上下する。その動きに合わせるようにして、張りが和らいで楽になってきた。夏に重宝した高遠のひんやりとした手は、すぐに体温が高くなる今の史緒にはひたすら心地いい。きっとお腹の中で、子供も気持ちよくなっているのだろう。
大きくなった腹部に視線を注ぐ高遠の目が、優しく柔らかく、細められている。
「不思議だな」
高遠が、ぽつりと呟くように言う。史緒は首を傾げた。
「うん? なにが?」
「この中に、新しい生命が存在しているということがだ。生命の神秘は、どれほどの科学力をもってしても、未だ解明されない部分が多い。去年のこの日にはここにあるのはただの臓器だけだったのに、今は別の生命体が宿っているなんて、驚嘆に値する。無から有へ、すべての始まりの発生、これぞまさに奇跡の小宇宙だ」
高遠の口調は、珍しく少々熱っぽいものを伴っていた。そこは素直に、「子供が出来て嬉しい」という言葉に変換すればいいのに。
本当だったら、どうやってもここに生まれてくるはずのなかった命が、こうして存在し、未来へと続いていくことが、すでに奇跡だと史緒は思っている。
「コスモね、はいはい。聖衣を着て戦うと、拳で空を裂いたり、蹴りで大地を割ったりするやつね」
「君はどうしてそういう次元でものを言うんだ。もっと視野を壮大に出来ないのか」
「高遠君のは壮大すぎてついていけない。もっと普通の親っぽいこと考えようよ」
「たとえば?」
「たとえば、名前は何にしようかな、とか」
うっかり口を滑らせてしまってから、しまった、と思った。
子供の名前については、今から史緒の頭を悩ませている問題があるのだ。
史緒父の「僕の一押しはあのアニメキャラの名前」問題と、高遠の「僕の子であるからにはこの上なく崇高で気高い名前を」問題である。
史緒は我が子に、自分の名前を書くたびに画数の多さに煩わされる人生も、完全に名前負けしてグレる人生も歩ませたくはないので、名前はなるべく簡単で呼びやすいものにしてあげようと考えている。そのために母と妹という多数決要員も確保済みだ。だからその時までなるべくこの件には触れないでいようと思ったのに、自分から蒸し返してしまうとは。
「名前といえば」
高遠が思い出したように顔を上げる。よしすぐさま話を逸らそう、と身構えた史緒に、高遠が言ったのはまったく別口のほうだった。
「史緒、君はいつまで僕を姓で呼ぶつもりなんだ?」
思ってもいなかったことを口にされて、一瞬、虚を突かれた。
「う……うん?」
咄嗟に反応出来ずに目が泳いでしまったところへ、高遠の指が史緒の顎にかかり、くいっと向きを変えさせられる。真正面から高遠の端正な顔が迫ってきて、ますます動揺した。すでに十年以上の付き合いになるが、史緒はまだこの距離のこの顔に慣れない。
「結婚して、君ももう高遠姓に変わった。日本国戸籍にも、ちゃんとその旨の記載がある」
うん、どうして存在するのかさっぱり謎の戸籍ね。そこに書かれてあった本籍地住所や、亡くなったことになっている高遠の両親の名前を、ちょっと怖かったので史緒はよく確認していない。
「それなのに君は今になってもなお、僕を『高遠君』と呼び続けているわけだが、そこには何か意味でもあるのか。この国では、伴侶に対する一般的な呼称はいくらでもあるはずだぞ。君がその呼び方にこだわり続ける確たる理由があるというのなら、詳細に説明してみろ」
「意味と理由……」
史緒は口ごもった。
意味と理由だと? そんなもの、あるわけない。しかし、しかしだ。
……ずーっと長い間「高遠君」と呼んできた相手に、今さら恥ずかしくて、「洸君」なんて呼べるか、ボケ!
史緒は目を逸らしてぼそぼそ抗弁した。
「えー、その件につきましては、おいおい、時期を改めて……」
「政治家発言はやめろ。子が生まれる今がいい機会だ。僕は君に対し、妻が夫に向けてしかるべき呼称の見直しと、それに伴う即時の変更を要求する」
面倒くさいやつだなあ!
「……もー、わかったよ」
史緒は観念して、渋々了承した。
「いまわの際に呼ぶ」
「は?」
高遠は目を瞬いた。
「ちょっと待て。いまわの際というのは、君が死ぬ間際ということか」
「そうだね」
「馬鹿言うな。僕は今現在のことについて話しているんだぞ。君はこの先病気や事故に遭う予定はないから、老衰で死ぬというケースが最も可能性が高い。地球人の平均寿命で考えて、あと何十年あると思うんだ。それまでずっと僕を姓でしか呼ばないつもりか」
病気や事故に遭う予定がない、という意味がよく判らなかったが、あまり深く考えないでおいた。まあ、史緒だって、若くして病死や事故死でこの世を去りたくはない。
「だからさ、数十年先のその時に」
史緒は少し笑って、眉を上げる高遠の引き締まった頬を指先でちょんと突っついた。
「ちゃんと言うよ。──『今まで楽しかったね、洸君』って」
「…………」
高遠は口を噤んで、黙り込んだ。
目線を史緒から外し、腕を組んでソファに座り直す。仏頂面になった顔を、何も映っていない黒々としたテレビに向けて、そのまましばらく動かなくなってしまった。
怒ったのかな? と前かがみで覗き込んだ史緒を見て、ますますふてくされたような表情で唇を結ぶ。
間を置いてから、小さなため息を零した。
「……その時のことを想像すると」
「ん?」
「非常に、なんともいえない気分になる。胸のあたりが重くなって、ひどく不快だ」
高遠は本当に嫌そうな顔をしていた。二十代の青年になって、怜悧で美貌な顔立ちはもうどこにも少年の頃の面影を残していないと思っていたのに、その表情は不思議と史緒に昔のことを思い出させた。
背中のランドセルに、ぶうぶう文句を言っていた頃の。
──どうして僕が、こんなにも重いものを一人で背負わなくてはならないんだ、というような。
地球人の寿命は短い、とたびたび口にする高遠。
彼らの寿命は果たしてどれくらいなのか、史緒は知らない。
妊娠が判ってから、高遠はほんの少しでも時間を無駄にすることを厭うように、すぐにでも史緒と一緒に暮らす話を進めた。そんなに急がなくても、と思っていた史緒が、最終的にはその要望通り、一か月も経たないうちの結婚に踏み切ったのは、心のどこかで彼の抱える焦慮に似たものを感じ取っていたためかもしれない。
ひょっとしたら、高遠にとっては、史緒と共にいる年月よりも、「その後」の年月のほうが、ずっと長かったりするのかも。
「…………」
史緒は何も言わずに、上体を傾け、隣の身体に寄りかかった。
高遠はこちらにちらっと目をやって、もう一度短い息を吐いた。
「……僕はまだ、地球人の感情というものをすべて把握しているわけではないんだが」
「うん」
「君が僕を一人置いて、さっさと逝ってしまう時──その時になったら、はじめて理解出来る感情があるのかもしれない」
寂しいとか、悲しいとか。
呟くようにそう言って、また口を閉じる。
「そうかもねえ。……でも」
史緒は微笑んで、ぽんぽんと夫の腕を軽く叩いた。
「その時、高遠君は一人じゃないと思うよ」
いつか史緒は高遠よりも先に空へ行ってしまうのかもしれないが、地上に残された高遠の周りには、他に多くの愛しいもの、大事なものがあるはず。
寂しく夜空を見上げる赤い目をしたウサギは、決して独りぼっちではないはず。
「──元気に生まれてくるといいね」
大きな肩にもたれたまま、史緒は静かに目を閉じて、もう一度繰り返した。
「……うん」
高遠の頭が傾いて、史緒の頭に軽く乗せられる。
広い部屋に、沈黙が落ちた。高層マンション最上階のこの場所は、外の雑音も届かない。
けれど来年の今頃は、ここにもう一人増えて、さぞ賑やかになっていることだろう。不安や心配はもちろんあるが、それよりも期待と楽しさのほうがはるかに上回っているのは、何があってもこの人がいれば大丈夫だろうという、高遠に対する信頼があるからだ。
十年以上かけて、培ってきたもの。
きっとこれからも、馬鹿げた喧嘩をしたり、笑ったり、怒ったり、呆れたりしながら、続いていくのだろう。
一人より二人。二人より三人。増えていくたび、幸せも大きくなって。
そうやってどんどん、たくさんのものが生まれて、育っていくといい。
無から生まれ出る存在。
果てしなく、広がる可能性。
大きな大きな、希望のはじまり。
……未来へと、繋がるもの。
それは確かに、小宇宙かもね、と史緒は思って、くすりと笑った。