友人Aの独り言(2)
その後はっきりと判明したのだが、「失恋仲間」というのは、やっぱり女の子であるらしかった。
しかも、以前からの友達というわけではなく、加納が元カノにフラれた、まさにその当日に知り合い、愚痴を聞いてもらった、という関係なのだという。
なんだそりゃ、と困惑するしかない。電話で聞くだけでは、まったく成り行きが判らない。というか、聞けば聞くほど、判らない。とりあえず、加納がアホなことをやらかした、ということだけは判って、不安は募る一方である。見ず知らずの女の子に迷惑かけやがってと、友人として代わりにその子に謝罪したいくらいだ。
しかしとにかく、電話だけでは埒が明かない。
いずれ近いうちに加納と直接会って、じっくり話を聞きだしてやろう、ついでに懇々と説教もしてやろう、と思っていたのだが、仕事が忙しくなったり用事が重なったりタイミングが悪かったりで、その機会を逃し続け、ずるずると日ばかりが過ぎていった。
──そして、二カ月ほど経ったある日。
加納が救急車で運ばれて緊急入院した、という話を聞いて、仰天した俺はすぐにその病院にすっ飛んでいった。
「よう、わざわざ悪いな」
病院のベッドに横たわった加納は、思っていたよりも元気そうだった。
掛け布団の上にどんと乗っている包帯に包まれた左足は、ギプスのせいでいつもの二倍くらいの大きさになっている。
頭にも包帯が巻かれ、せっかくのイケメン顔にも、頬や額のあちこちに、たくさんの痣やら擦り傷やらをこさえていた。顔立ちそのものは崩れていないとはいえ、せっかくのこいつの唯一の突出した取り柄が……と、ちょっと悲しくなってしまう。
「骨折だって? どうしたんだよ、一体」
「アパートの階段のいちばん上から落ちたんだ」
加納は少し恥ずかしそうに、マヌケな回答を寄越した。
「なんでまた?」
「俺もよく覚えてない。しこたま酒を飲んで目を廻したところまでは記憶があるんだけど、気づいたら病院で寝てた」
「はあ? 酒?」
加納は昔から、体質的にアルコールを受け付けない。ビールをコップ三分の一飲んだくらいで気分が悪くなってしまうという、正真正銘の下戸である。本人も酒に耐性がないのは承知しているから、女にフラれて自暴自棄になっている時でさえ注文するのはウーロン茶、というほど徹底して避けていた。
それが、しこたま飲んで、挙句に階段から落ちて骨折、だって?
「おまえはどこまでアホなやつなんだ」
開いた口が塞がらない。呆れかえって率直な感想を口にすると、加納はバツの悪そうな顔になった。
「うるせえな。……俺も反省してるんだ。二度と酒は飲まない」
当たり前だ。救急隊員にも、病院関係者にも、心配した俺にも、土下座して謝れと言いたいくらいだ。
「何があったんだよ。今頃になって、失恋のヤケ酒ってわけでもないだろ」
彼女に一方的な別れを突きつけられたとはいえ、電話で聞いている限り、加納の声はそんなに暗く落ち込んでいるようでもなかった。というか、失恋して落ち込んでいる、と本人はよく言っていたが、その言葉は時間と共にだんだん形骸化していって、最近ではほとんど中身が伴っていないように聞こえた。
……いや。
むしろ加納は、自分への言い訳として、そういうことを口にしているんじゃないかと、俺は思っていたくらいだった。
「失恋、っつーか、なんていうか、さ」
加納は指で頬をこりこりと掻きながら、言いにくそうに言葉を濁している。だが、それで勘弁してやろうなんて気持ちは俺にはさらさらない。今日こそは本腰を据えて聞かせてもらうぞ、というつもりで、窓際の壁に立てかけてあった折り畳みのパイプ椅子を取りに行った。
そこで、気づいた。
病室の窓からは、ちょうど入院病棟への入口に通じる道が見下ろせる。
その道を歩いている若い女の姿に、俺は見覚えがあった。
「……加納」
ガラス越しに外を見ながら俺が呼びかけると、加納は「んー?」と呑気な返事をした。位置的に、ベッドにいる人間から窓の下までは見えない。
「ひょっとして、元カノとヨリを戻したり、した?」
俺が何を見ているのかわからない加納は、その問いの意味までは考えなかったようだ。
「いや。それだけはない」
と、きっぱり言いきってから、「ただなあ……」と困ったように顔を顰める。
「ちょっと、ややこしいことになっててさ。この怪我もそこから派生したっていうか……まあ、結局、ちゃんと説明しなかった俺が悪いんだけど」
「……ふーん」
ややこしいこと、ね。
なるほど。
「こういうことに上手に対応できるお前がホント羨ましいよ。やっぱり経験って大事だよなー」
加納のアホはベッドの上で腕組みしながら、感心するように言ってうんうんと頷いている。ちょっと腹が立ってきたぞ。この期に及んで、火種になっているだろう女に対して怒りもしなきゃ責める言葉を吐きもしない、っていうのはどうなんだ。
そんなんだから、与しやすしと甘く見られるんだよ。
「俺、ちょっと飲み物買ってくるわ」
そう言うと、俺は掴んでいたパイプ椅子から手を離し、すたすたと病室を横切った。
「おう。俺の分も頼む。……リンゴジュースがいい」
「なんだそりゃ、子供か。お前、甘いもん嫌いだったろうが」
笑いながら、病室を出る。
消毒薬の匂いがする廊下に足を踏み出した途端、俺の口許から笑みが消えた。
***
「どうも」
受付を通った彼女が、加納のいる病室がある階までエレベーターで上がってきたところで、待ち構えていた俺は、にっこりと上っ面の愛想の良さを貼り付けて挨拶した。
チン、という軽い音と共にエレベーターの扉が開いたら、すぐそこに男が立っていてたのだから、驚いたのだろう。彼女は目を丸くして、しばらくその場に立ち竦んだ。
「あ、加納君の、お友達の」
やっと思い出して、ぎこちなく笑みを浮かべる。閉じかけたエレベーターの扉から慌てて出てくる彼女の腕には、男の見舞いにはあまり似つかわしくない、明るい彩りのファンシーな花束が抱えられていた。
「今から帰るところですか?」
俺がエレベーターの前に立っていたのを、そのように解釈したらしい。いやそれとも、その言葉には、彼女の願望が混じっているのかな。邪魔者にはさっさといなくなって欲しい、という。
「加納の見舞いに来てくれたんだ?」
質問には答えずに問い返すと、彼女ははいと返事をして、窺うように俺の顔を覗き込んだ。この男はどこまで知っているのかな、と測るような目だ。
「聞いたよ」
微笑しながらそう言うと、彼女の細い肩がぴくっと揺れた。
「二人、別れたんだってね。お似合いだと思ったのに、残念だな」
「あ、いえ、その」
彼女の表情の上を、気まずそうな色と、何かを計算している色が素早く掠めていった。加納も冷静になったなら、綺麗な顔に隠された、これらのものを見つけることが出来ただろう。それでもこの口から出る言葉をすべて鵜呑みにするほど、愚かな男ではないはず。そう思いたい。
「確かに一度、別れたのは本当なんですけど。でも、私、やっぱり加納君のことを忘れられなくて──」
涙ぐみながら綴られる悔恨の情と、「もう一度やり直したい」という切々とした訴えのほとんどを、俺は右から左へと聞き流した。
加納のほうにまだ未練が残っているというのなら、この子の本性がどうあれ考えてやらないでもないが、あそこまできっちり吹っ切れている友人に、さらなる厄介事を背負わせる気持ちなんて、俺はこれっぽっちも持っていない。
何があったかなんて大体察しがつくさ、そりゃ。
電話で聞く加納の声がだんだん明るくなっていくと同時に、話の中に「ワコ」という名前が登場する回数が増していったことくらい、俺はずっと前から気がついてたんだから。
こんな女一人に引っ掻き回されて、べろべろになるまで飲めない酒を飲んで、おまけに骨まで折って。
アホか、まったく。
「新しい彼氏がいるんじゃなかったっけ?」
実を言えばそこまで詳しく知っているわけではないが、そうカマをかけてみると、彼女はぱっと赤くなった。
「いえ、あの、そっちとは、ちゃんと」
また一方的にフッてきたと。
顔か、金か。一旦は金のほうを取った彼女だが、そちらでは思ったほど自尊心が満たされなかった、ということか。「金持ち」よりは、「イケメン」のほうが、外側からわかりやすいからな。
けど、加納とヨリを戻したところで、どうせ満足なんてしやしない。なにしろ、彼女が愛しているのは自分自身、それだけだ。
「そうなんだ。じゃあ、加納のやつも喜ぶよ」
笑顔の俺を見て、彼女もほっとしたように口許を綻ばせる。その瞬間を狙って、「──なにしろ」と言葉を続けた。
「自慢の顔がズタボロに壊れて、さすがに本人もヘコんでるからさ」
「え」
彼女の顔がぴしりと引き攣った。
「アパートの階段のいちばん上から落ちたって、聞いた? ドジなやつだよね。その時にさ、顔面をひどく打ちつけたらしくて、切れて腫れて潰れて、ちょっと大変なことになったんだって。今、顔全体にぐるぐる包帯巻きつけて、ミイラ男みたい。まあ、あとは足の骨折くらいで済んだんだから、不幸中の幸い、ってところかな。どんなに治療しても、ツギハギだらけでデコボコになっちゃった顔はもう元には戻らないらしいけど、可愛い恋人がついていてくれるなら、別にそんなことは大した問題じゃな──」
「あ、あの!」
慌てるような声に遮られ、俺がそちらを向くと、ばさりと強引に花束を押しつけられた。
「ごめんなさい、やっぱり私、あまりにも勝手でした! 自分が恥ずかしくて、加納君にも会わせる顔がないので、これで帰ります! お大事に、って伝えておいてください!」
目の前にエレベーターの扉があるのに、ぱっと身を翻し、階段へと駆けていく。すぐに逃げないと、今にもミイラ男が追いかけてくるんじゃないかというくらいの、泡の食いっぷりだった。
「……ふん」
小さくなっていく足音を耳に入れながら、冷めた目で手の中の花束を見下ろす。どうするかな、これ。捨ててもいいけど、花に罪はないし、落し物としてナースセンターに届けておくか。
と思って身体の向きを変えたら、すぐそこに、松葉杖を突いた加納が立っていた。
「……よ、よう」
顔をひくひくと強張らせ、間の抜けた声を出す。今さらになって花束をそろりと自分の背に隠したら、加納がぷっと噴き出した。
「悪いな、気を遣わせた」
「う、いや……」
もごもごと口ごもって、俺は頭を掻いた。居たたまれない。こいつ、いつから話を聞いてたんだろ。
「──すまん」
観念して頭を下げて謝った俺に、加納は無造作に手を振った。
「いや、いいんだ。実際、困ってたところだった。まったく関係のないおまえに、憎まれ役をやってもらって、俺のほうが申し訳ない」
「そうじゃなくて……」
俺が言っているのは、そのやり方だ。あれは、加納を最も傷つける手段だった。
……今まで、この男はそうやって顔だけで取捨選択の判断をされることに、ずっとしんどい思いをし続けてきたんだから。
「いいんだ」
加納は静かにそう言って、小さく息をついた。
用心深く窺ってみたが、その顔には、まったく影が差していない。何か余計なものを洗い流したような、清々しいほどにさっぱりした目をしていた。
それを見て思った。今のこいつは、ちょっとやそっとのことでは揺れない、大事な何かを手に入れたんだな、と。
「この松葉杖が取れてから、ちゃんと決着をつけるよ。おまえに話すのは、そのあとでいいか?」
「ああ、楽しみにしてる」
俺がそう言うと、加納が軽く笑った。