アテンド、苦労する
町役場における阿部の上司の中に、三十二歳の独身男性係長がいる。
横暴というよりは横柄、自己中というよりはワガママ、性格もそんなに良いわけではないが、なにより態度が悪い。見た目チンピラ、喋り方はガラの悪いおっさん、叱られた時に居直るふてぶてしさは、まるで生活指導室に呼び出されて説教を受けている反抗期の中学生のごとしだ。
通常の仕事はわりと有能にテキパキこなすし、背も高く、体格も良く、顔立ちもちょっと怖いが決して悪くはないので、女性にもモテそうなものだが、上記の理由で非常にウケがよろしくない。たまーに物好きな肉食系女子が突撃していっても、そのあまりのデリカシーのなさと、訳のわからない面倒くささと、油断した途端長々と披露されてしまう歴史トークの鬱陶しさにより、交わる前にUターンされてしまうという不遇っぷりなのだった。
本人は「女と映画を観るより一人で城巡りでもしていたほうが楽しい」と強がっているのだが、酒の席で自分の彼女の話をぽろっと洩らした阿部の椅子の脚を勢いよく蹴っ飛ばし、新婚の惚気を垂れ流していた同僚の足の甲を思いきり踏んづけていたところを見るに、本当は羨ましいのだろう。彼は表現の仕方が素直だったためしがない。迷惑な話である。
だから阿部を含めた役場の面々は、決して口には出さないが、この傍若無人でひねくれた上司の面倒を見てくれるような奇特な女性が現れるといいなあ──と、ひそかにずっと願っていた。上司のためというよりは、自分たちの平和のために。まあ無理だろうけどなあ、と半分以上諦めつつ。
しかし神様は、思っていた以上に寛大だった。彼らのその無茶としか思えない祈りを、ちゃんと聞き届けてくれたらしい。
冷たい風の吹く寒い頃を過ぎ、季節が暖かい時期に移行するとともに、くだんの上司の許にも、どうやら春がやって来たようなのだ。
名前のとおり、夜のように真っ黒なさらりとした髪を肩の上で切り揃えた若い女性。その姿を、このところ、よく見かけるようになったのである。
ウサギの隣に。
うん。
ウサギのね。
***
詳細は省くが、阿部の上司である係長は、毎週日曜日、町のマスコットキャラである、ショッキングピンクのウサギ、「にょん吉くん」になっている。
そして阿部は不運にも、にょん吉くんのサポート役を任命されている。役場の法被を着て、場を仕切ったり、ウサギの先導をしたりするのが役目だ。なにしろ当人、じゃなかった当ウサギは、自分だけではろくに物も掴めなければ視界も利かないという不自由さなのだから、人間の手を必要とするのは仕方ない。
とはいえ、多少の手当てくらいは上乗せされるものの、普通のバイトと比べれば断然安い金額で時間外勤務をさせられているわけで、阿部は最初、ちぇっ、ツイてないなと思っていた。せっかくの休みも潰すことになって、彼女にも文句を言われるし、いいことなしだ、とぶうぶう不満をコボしたりもした。
──が、それは、まことに浅はかな考えであったと、すぐに思い知った。
問題は、お金とか時間とか、そんなことではなかったのである。
なにしろ、ウサギから目が離せない。
人間の時もけっこう困ったところのある上司は、ウサギになるとさらに手がつけられなかった。愛想がないくらいはともかくとしても、大人にも子供にも平等に乱暴に振舞うとはどういうことか。着ぐるみ相手に殴ったり蹴ったりしてくる人間にだって非はあろうが、何もそれに対して本気で全力を出してやり返さずともよさそうなものだ。「マスコットキャラが暴力沙汰」というニュースが、いつ新聞の社会面を飾ることになるかと、阿部は生きた心地がしないくらいだった。
大体、握手もしなけりゃ写真撮影も拒否、下手をすればとっとと逃亡して行ってしまうマスコットキャラに、マスコットキャラたる意義がどこにあるというのだろう。いくら注意したって、本ウサギはまったく聞く耳持たずで、明後日の方向を向いて、へっ、と鼻で笑う有様である。警察に捕まった暴走族の少年だって、これよりは可愛げがあると思う。役場では愛想がないなりに仕事はきっちりする上司なのに、本当に心の底から、ウサギになるのが気に喰わないらしい。
……そのような次第で、毎週日曜になると、ピンクのウサギに振り回されて身も心もクタクタになっていた阿部にとって、黒髪の女性はまさに救世主のような存在なのだった。
そろそろ本格的な暑さがやってこようかという夏の、とある日曜日。
阿部とウサギは、古戦場公園の近くの建物内で、五分後にまで迫った出番のためのスタンバイをしていた。
時間になったら、阿部はウサギの手を引いてショーの会場である公園内に入っていき、そこで待っている若い女性や子供たちの観客に挨拶して、つつがなく「武将隊の前座」という役目を果たさねばならない。すでに、阿部はきっちりと法被を着て、ウサギは身体も頭も準備オッケーの状態だ。
「今日はまだ、小夜さん来てないんですねえ」
建物からは、会場の様子が見えるようになっている。もちろんあちらからは気づかれないように、カーテンの隙間からこっそり窺うわけだが、その狭い隙間からでも、いつもの定位置のベンチに、人の姿がないことは判った。
観客の入りはまあまあでも、肝心のその女性がいないと、ウサギはもともとあまりないやる気レベルを、一気にゼロ近くま下降させてしまう。ついハラハラして声に出すと、折り畳みイスにどっかりと腰かけていたウサギの中から、唸り声のようなものが漏れた。
「ちょっと、彼女が来ないからって、暴れないでくださいよ」
慌てて牽制すると、ウサギは今度は、けっ、と鼻息を荒くした。
「誰が暴れるんだよ。人を馬みたいに言うんじゃねえ」
馬じゃなくてウサギですよね、と阿部は言いかけたのを呑み込んだ。ただでさえ機嫌が悪い時に、迂闊なことを言うと、このウサギは本当に暴れかねない。いや暴れるくらいならまだいいのだが、そのまま行方をくらまされでもしたら困る。
「このところずっと毎週来てくれてたのに。どうしたんですか、用事ですか」
そりゃまあ、彼女がここに来るのは別に義務でもなんでもない。他に用があるのなら、そちらを優先するのは当然だ。ただそれは、阿部にとってあまり歓迎する事態ではない、というだけの話である。
椅子にふんぞり返ったウサギは、相変わらずそのニコニコ顔からはかけ離れた無愛想な声で、しかしどこかちょっと元気なく、ぼそっと答えた。
「用事、っつーかよ」
「も、もしかして」
「なんだよ」
「もうフラれたんじゃないでしょうね?!」
「……阿部、お前、殺すぞ? そういう縁起でもないこと言うと」
かなり本気の殺意が混じった声音で脅されたが、阿部はほっと胸を撫で下ろした。どうやら今のところはまだ、最悪の展開にまでは至っていないらしい。お目付け役でもある彼女を失いでもしたら、このウサギがどんな暴走をするか、考えるだに恐怖しかない。
「なんか、昨日からあんまり体調が良くないらしいんだよな。大丈夫そうなら行く、って言ってたけど」
「あー、そうなんですか……」
それで、ウサギの両肩がさっきから微妙にがっくりと落ちているわけか。今日ずっと無口だったのは、機嫌が悪いというより、彼女のことを心配していたためだったようだ。
「今になっても来てないってことは、まだ調子が悪いんでしょうかねえ」
「おう阿部」
「なんです」
「帰っていいか」
「ダメに決まってるでしょ!」
ウサギの顔が動いているのは、今自分がいる位置からドアまでの距離を目測しているからだと悟って、阿部は大慌てでドアの前に飛んで行って立ち塞がった。
「あと五分で出番なんですからね! 逃がしませんよ!」
「ちょっと様子を見てすぐ帰ってくる。五分もありゃ足りる」
「そんなわけあるか!」
このウサギは、冗談みたいなことを本気で実行しようとするからタチが悪いのである。何があってもここは通さない、とドアを死守する阿部を見てウサギも諦めたのか、はあーと大きなため息をつくと、椅子から浮かしかけていた、丸いシッポのついたピンクのお尻を再びどすんと下ろした。
「……じゃあせめて、俺のスマホ出してくれ」
そうか、「今日は行けない」という彼女からのメールが入っているかもしれないからな、と阿部も納得した。
「逃げちゃダメですよ」
釘を刺してから、ウサギを見張りつつ、そろそろと上司の私物が置いてある場所へと移動する。その中にある薄い機械を手に取り、渡そうとしたものの、モコッとした大きなピンクの手を見て、ん? と思った。
「その格好で操作できます?」
「出来るわけねえだろ」
だろうなあ。ウサギの手には、そもそもスマホの画面に当てるべき「指」がついていない。
「じゃあ、仕事が終わるまで我慢しましょうよ。今からそれ脱ぐわけにもいかないし」
なにしろ大きくて分厚くてそれなりに重量もあるウサギは、着脱にも手間と時間がかかるのだ。脱いでメールチェックしてまた着る、なんてことをやっていたら、にょん吉くんのご挨拶どころかその後の武将隊のショーにさえ間に合わない。
「代わりに、お前が見ろ」
問答無用で命じられて、阿部はええー! と顔を顰めた。
「イヤですよ。そんな、恋人同士のメールを盗み見るなんて、プライバシーの侵害行為は」
「俺が見ろっつってんだからいいんだよ。でも恋人同士ってのは気に入った。もっと言え」
バカバカしい。満更でもない声を出すウサギの命令にはもちろん従わず、仕方ないので阿部は手にしているスマホを操作した。本人の許可があるとはいえ、他人宛てのメールを読み上げるのはイヤだな、と思ったのだが、幸いなことにスマホには、メールも不在着信も、一件も入っていなかった。
「何も来てないですね」
「…………」
幸いなことに、と思ったのは阿部だけで、ウサギにとってそれは幸いでもなんでもなかったらしい。ショッキングピンクの全身から立ち昇るオーラが真っ黒だ。
「お二人、本当に付き合ってるんですかあ?」
いくら阿部のほうから、来てやってください、と頼んでいることとはいえ、二人がまごうことなく恋人同士なら、体調が悪い、とか、今日は行けない、とか、それくらいの連絡はありそうなものだ。つい疑惑の眼差しになって問うと、ウサギはニコニコしながら腹立たしそうに足でどんどんと床を蹴りつけた。
「てめえホントに殺すぞ? 付き合ってるに決まってんだろ」
「へー、じゃあ、どこまで進んでるんですか」
「聞いて驚け。この間、ようやく抱いたところだ」
「え……」
ド直球の答えを寄越されて、阿部のほうがうろたえた。どこまで進んでるのか、なんてのはもちろん半分くらい冗談で言ったので、まさかそんな直接的な言葉を返されるとは、思ってもいなかった。
二十代でちゃんと彼女もいる身にも、これはけっこう恥ずかしい。ちょっと赤くなる。
「あ……そ、そうですか……それは……その、よかったですね」
「おう、本当に気持ちよかったぞ。小夜の身体は思ってたよりも細くて柔らかかった」
「は……はあ……」
この人、素面だよな? と阿部は訝った。こんなことあけすけに言っちゃって、彼女が怒らないか?
こちらの心配を余所に、ウサギはどこか遠いところに顔を向けている。その時のことを思い出しているのか、うっとりした声を出した。
「やっぱり、ウサギじゃない人間の手っていうのは、ちゃんと感触が直に伝わってきていいな。夏でシャツ一枚の薄着だったのもラッキーだった。これが真冬だと、厚着でぜんぜんわかんねえからな。せっかく抱きしめても、分厚いコートなんて着ててみろ、ウサギのままと大差ねえぞ」
「…………」
ん?
「……あのー、つかぬことを聞きますが」
おそるおそる訊ねる。
「なんだよ」
「その、抱く、っていうのは、ぎゅっと抱きしめる、というかつまり要するに、ハグする、という意味合いで……?」
「だからそう言ってんじゃねえか。今までウサギの恰好の時にしか許可が下りなかったのによ、この間とうとう人間の時に抱きしめることができた、って話だよ」
「…………」
阿部は思わず目頭を押さえた。
ちょ、不憫すぎ……!
どうしよう、可哀想で可哀想で、景色が滲んで見える……!
「……そ、それはよかったですね」
「おう」
心なしか、ウサギの笑顔が輝いている。哀れすぎて正視できない。
毎週この場所にやって来て、微笑んでウサギを眺めている彼女の顔が脳裏に浮かんだ。控えめで物静かそうな外見なのに、実はしっかり相手の手綱を握って操るタイプと見た。彼女は六つくらい年下だと聞いていたが、精神年齢ではあっちのほうが年上だ、絶対。
あの彼女が、ウサギの前にニンジンをぶらさげてにっこり笑っている幻想が過ぎる。かわいそう……! そんなことでめっちゃ喜んでるウサギ、かわいそう……!
「そんなわけで、帰っていいか」
「ダメですよ! 仕事が終わってから! 真面目にやったほうが彼女さんも喜びますって!」
男として少々気の毒に思うところもあるが、仕事は仕事である。阿部がきっぱり要望を撥ねつけると、ウサギはぶつぶつと中で不平を言った。人間の時の上司は目つきが鋭い。ガンつけされない分、ウサギでよかった。
「じゃあ終わってから直行する。それなら文句ねえだろ」
「直行って、その格好で?」
「時間が惜しい。小夜は一人暮らしだからな、もしも倒れてたりしたら困る」
「やめたほうがいいんじゃないですかねえ」
もしも自分だったら、体調不良で倒れて朦朧としている時に、のっそりとしたピンクのウサギがいきなり目の前に現れたら、間違いなく病状が悪化する。最悪の場合、そのまま心臓発作で昇天しかねない。
「お見舞いは、普通に人間の姿で行ったほうがいいですよ」
「けどよ、相手は一人暮らしの若い女だぞ?」
「はあ」
「具合が悪くて臥せっているところに、男が訪ねて行くのはやっぱりマズイだろ。俺の美学に反する」
ウサギならいいのか。そんなおかしな美学は、さっさと捨ててしまえ。
「付き合ってる相手が人間の姿で訪ねていくのに、どんな不都合があるっつーんです。変な気を起こさなきゃいい、ってだけの話だと思うんですけど」
「自信ない」
面倒くさいなあ、もう!
「とにかくまずは仕事しましょう! もう時間ですし、行きますよ! お客さんもにょん吉くんが出てくるのを待って……あれ?」
もう一度カーテンの隙間から外を覗いてみて、目を見開いた。
「島津係長」
「なんだよ」
「彼女、来てますよ」
阿部が言うと、ドタンガタンと椅子を倒すやかましい音を立てて、ウサギが窓にまで駆け寄ってきた。止める間もなく、勢いよくしゃあっとカーテンを全開にしてしまう。
カーテンを開ければ、建物の中のピンクのウサギは、公園内にいる人々からもよく見える。目敏く見つけた子供が、あっ、という声を上げて指を差し、それにつられて、周りの観客も一斉にこちらに顔を向けた。
──そして、人だかりとは離れたところにあるベンチに大人しく座っている、黒髪の女性も。
彼女はこちらを振り向くと、ガラスにべったりと張りついているピンクのウサギを見て、表情を緩ませた。
やわらかく笑って、軽く手を振る。
「よし、行くぞ、阿部!」
俄然張り切りはじめたウサギは、そう言うと、のしのしと大股で歩いてドアを開け、勝手に外に出て行ってしまった。
「え、ちょっと、待ってくださいよ!」
慌ててその後を追いかけようとして、ふと、また窓のほうを振り返る。
彼女はゆったりとくつろいだ様子で、ベンチに腰かけ、にょん吉くんが出てくるのを待っていた。その顔に浮かんでいるのは、本当に楽しそうな表情だ。
阿部は思わず噴き出した。
……傍若無人でワガママなウサギを、あんな風にあっちこっちに振り回すことができるのは、きっと、あの彼女だけなんだろうなあ。