バレンタイン編(野間)
「……の、野間さん……」
フラフラとした足取りで教室に入り、あたしの席へとやってきた南は、なんだかものすごく顔色が悪かった。
「ど、どうしたの、南。具合でも悪いの?」
あたしは驚いて座っていた自分の椅子から立ち上がり、代わりに南を座らせた。その傍らで足を折り、顔を覗き込むと、そこにあるのはどこか茫然自失したような表情だった。
「ぐ……具合は悪くないんですが、頭がクラクラして、胸の動悸が激しくて、目の前が真っ暗になるような気分です」
「それを一般には、『具合が悪い』っていうのよ」
そう返しつつ、あたしはこの状態の南をどうするべきか、素早く頭を巡らせた。
保健室に連れて行くとしても、こんな調子でちゃんと立って歩けるのか心許ない。あたしが手を貸しても、途中で倒れたりしたら大変だ。しかしまさかタンカで運ぶわけにもいかないし。そうするとやっぱり、ここはまず、職員室にひとっ走りして、先生に伝えに行ったほうがいいのだろうか。
などと考えていると、南がうな垂れながら、ポツリと呟いた。
「せ、世良君が」
「は? 世良?」
なんでここにその名前が出てくるのかと訝って、あたしはやっと、ピンときた。
つまり、南のこの変調は、身体機能の異常からきているものではないのだ。
「世良が、なにしたの」
つい厳しい口調になって問い詰める。返答によってはただじゃおかないわ、とあたしは闘志をみなぎらせた。当然、「ただじゃおかない」対象は、世良のほうに決まっている。
この時、あたしの頭に浮かんだのはこの三つだ。
つまり、世良が──
① 死んだ
② 浮気した
③ ナニかした
これらの可能性を思い浮かべると同時に、あたしの目は、ちょうどブラリと教室に入ってくる世良の姿を捉えた。なるほど、①はない、と冷静に消去する。
ちょっと考え、②も今の時点ではないだろうなあ、とこれも捨てた。世良は軽い男ではあるけれど、あれで南に対してだけは誠実であることは知っている。
すると③ね、とあたしはキラリと目を光らせた。
まあ最初から、その可能性がいちばん高いだろうとは思っていたんだけどさ。この場合、「ナニか」っていうのは、男女の間のアレとかコレのことだ、もちろん。
「……ま、遅かれ早かれ、こういうことがあるのは判ってたわけだけど。それにしたって、白昼堂々、学校内でフラチな真似に及ぶなんて、なんてガマンのきかない男なのかしら。発情期のサルかっつーのよ。まあ、南もさ、ショックだったとは思うけど──」
「は、はい、ショックです」
南は青い顔で、肩をすぼめ身を縮めている。その様子は、さながら小動物が、怯えてぶるぶると震えているようだ。
あたしはなんだかすごく可哀想になってしまった。世良のやつ、許さん、と義憤に燃えながら、小さな肩に手を置く。
「そうよね。でも、まあ、ああいう男を選んだ時点でこういうことは予想されることで」
「私、考え違いをしていたんです」
「うん、確かに世良は南を大事にはしてると思うけど、やっぱりソレとコレとは別っていうのが男ってもんでさ」
「てっきり、世良君はそういうのが好きじゃないだろうと思ってました」
「え、そんなわけはないと思うんだけど。そもそも、高校生男子って、そういうことばっかり考えてるって聞くし」
「だから私も、市販品でいいんだろうなって、安心してたんです」
「はい?」
ここであたしは、慰めるようにぽんぽんと南の肩を軽く叩いていた自分の手を、ピタリと止めた。
「……市販品?」
あのう、とあたしはおそるおそる、再び南の顔を覗き込む。南はすでに泣きそうだった。
「……あの、なんの話?」
「ですから、チョコレートです」
「はい?」
あたしはもう一度間抜けな反問を繰り返した。
南は、ぱっと顔を上げると、悲鳴のような声を出した。
「世良君、バレンタインのチョコは、絶対に手作りじゃないとイヤだって言うんです……!」
「この世の終わりみたいな顔」、とはこういうのを指すのだな、とあたしはその顔を見て思った。
「…………」
しばらくの間を置いて、あたしはなんとか気を取り直すことに成功した。えらい、えらいぞ、自分。
「……そっか。うん、じゃあ、頑張って作っ」
「無理です」
南の返事は、打てば響くような即答だ。
「私の手作りチョコなんて食べたら、世良君はお腹を壊すか、体調を崩すか、死んでしまいます」
「…………」
ここでもやっぱり、世良の死亡は可能性の一つに含まれるらしい。
「あのね南、よっぽど難しいのに挑戦しなきゃ、チョコなんてわりと簡単よ? 大体、お菓子なんて、本の通りに分量はかって、本の通りの手順で進めれば、それなりのものが出来るようになってるんだから」
「野間さん、知ってますか」
南は、真っ黒で大きな目をこちらに向けた。その瞳は悲しみに満ち満ちている。
「本を見て、その通りに作ったはずの私のクッキーは消し炭みたいな黒焦げの物体になり、ケーキはスポンジが一切膨らまずにその上歯が折れそうなほど固く、逆にババロアはちっとも固まることなく型から出した途端に溶岩みたいに流れ出しました」
「…………」
「なぜでしょう」
ホント、なぜでしょう。
南は生き方もわりと不器用だけれど、手先もかなり不器用だ。入試の時、南の成績ならもっと上のレベルの高校にも行けたのに、ペーパーテストでもカバーしきれない、家庭科と体育と美術の低得点が響いたという話も聞く。
そしてその上厄介なことに、一つのことに熱中すると他のことは忘れがちになる、という性質も持っている。その性質は、勉強をする時以外の方面では、あまり役には立たないらしいのだった。
南は顔を両手で覆い、その指の隙間から、あーとかうーとか苦悶の呻き声を漏らし続けている。
やれやれと思いつつ、あたしが顔を巡らせてみると、同じ教室内で友達と談笑している世良が視界に入った。
その顔が、ふいにこっちを向く。
あたしと目を合わせ、世良は、とても綺麗ににっこりと笑って見せた。
***
「それであたし、南のチョコづくりを手伝ってあげようかと思って」
と、あたしは藤島に向かって言った。
ここは学校の校庭の端にあるテニスコート。現在部活動中なのだが、男子テニス部の休憩タイムを見計らい、あたしは汗を拭いている藤島を捕まえて、今日あった事の成り行きを話して聞かせた。ちなみに女子テニス部は休憩中でもなんでもないのだけれど、もともと練習と休憩の境目がほとんどないような部なので、おしゃべりくらいしていたって誰ひとり気にしない。
「…………」
汗で前髪を額に貼りつけた藤島は、スポーツタオルを頭に乗せ、あたしの顔をちらっと見てから、
「やめたほうがいいんじゃないかな」
と、ぼそりと言った。
「え、なんで?」
まさかここでそんな反対を食らうとは予想もしていなかったあたしは、びっくりして問い返す。実のところ、南のチョコづくりを手伝うついでに、あたしも藤島へのチョコを作ろうかなーという下心もあったため、なんだかそれまでも拒絶されたような気がして、多少ショックだった。
「あたし、こう見えても、お菓子づくりは結構──」
「いや、そういうことじゃなく」
ムキになって反論しかけたあたしを遮り、藤島はちょっと複雑な表情になった。
「今日さ、世良と喋ったんだけど」
「うん」
「南からのチョコを、すごく楽しみにしてるみたいなんだ」
「うん」
「だから、やめたほうがいい」
「うん?」
意味が判らなくて、あたしは戸惑った。なんか今ひとつ、会話の流れがおかしくないですか?
「えっとだから、世良はチョコ貰うのを楽しみにしてるんでしょ? それなら少しでもちゃんとしたやつをあげたほうが、喜ぶんじゃない? 南だってそのほうが嬉しいだろうし」
「うーん」
藤島が当惑するように言いよどむ。「……男と女の違いなのかなあ」とぶつぶつ口の中で呟いた。
「あのさ、世良が楽しみにしてるのは、チョコっていうより」
「いうより?」
「……困る南、なんだ」
「はあ?」
問い返すと、藤島はなぜか、深いため息をついた。
「僕が知ってる限り、今までの世良は、バレンタインの手作りチョコって、ちょっと怨念が混じっていそうで怖い、って敬遠するタイプだった」
「ああ、なんとなく判る……って、じゃあなんで」
「だからさ」
ちょっと困った顔で、もごもご言う。
「南がそういうの苦手だから、だよ」
「はあ?」
「世良のやつ、『南はどんだけ苦心惨憺してチョコを作るんだろうなあー』って、ものすごくウキウキした口調で話してた。『南が困ってる姿って、もー可愛くってしょうがないよなあー』とも言ってた。それがもう、はじけるくらいのいい笑顔で、正直言って、不気味なくらいだった。僕、あんなに目をキラキラさせた世良を見たの、はじめてだ」
「…………」
「世良はあんまり甘いもの、好きじゃないしね。この場合重要なのは、チョコそのものじゃないんだよ」
「…………」
つまり。
世良は南が困ることを判っていて、というより、南が困るところを見たいばっかりに、いつもは欲しがらない手作りチョコをわざわざ要求したと。
ただ単に、可愛いから、というだけの理由で。
自分以外の他人が南を困らせると怒るくせに。
「……バカじゃないの」
「うん、本っ当にバカなんだ」
ぼそっと呟いたあたしに答える藤島の声は、情け容赦なく冷淡だった。
「野間が南を手伝うと、どうやったって、さして苦もなく、それなりにちゃんとしたものが出来ちゃうだろ。南もホッとしながらそれを渡すだろ。そうすると、世良は多分、ガッカリすると思う」
「…………。手伝うのやめる」
「そうだね、その方がいいね」
すっかりバカバカしくなって友人を放り出すことを決めたあたしに、藤島はこっくりと頷いた。
あたしは、はあー、とため息をついた。
……きっと、南が泣きそうになりながら徹夜でもして試行錯誤の果てに作り出した奇っ怪なチョコを見て、世良は心から大喜びするんだろう。
南をからかい、チョコに大笑いして、さんざんイジメ倒してから、それでも最後のひとかけらまで残さずに、キレイに食べきって、たとえ実際の味はどうあれ、「美味しかった」と感想を言うんだろう。
本当に嬉しそうに。
「…………」
藤島にあげるチョコは、ひとりで作ろう、とあたしは考えた。
藤島は、食べてくれるかな?