夏 - 22
「おーし頑張れよー! 町谷に茶野! いつも通り今までで最高の走りをするんだぞ!」
「先生、それ矛盾してますよ」
顧問飯山と部員達の笑い声が選手の控えるテントの中に響く。
開会式を終え、女子の短距離走はもうすぐに始まる予定で、出番が近づく町谷の周りには同じ三年生がアップの手伝いをしたり話し相手をしたりと多くついており、下級生は遠くからそれを眺めているだけであった。
レース中は客席からの応援となる一二年生だが、レース前の激励という事で部員全員が集められた。
「頑張ってください先輩!」「先輩なら勝てます!」「応援しますから!」
女子部員から信頼の厚い町谷は特に黄色い声援が飛び、町谷は苦笑いしながら「ありがとう」と何度も口にして応える。
「待って、鈴浪」
飯山の激励が終わり、レースに参加しない部員達が客席へ戻るためにその場を後にしようとする中、早希は駆け寄ってきた町谷に声をかけられる。
「はい? なんですか先輩」
「ん、なんていうか、鈴浪にはちゃんと見てて欲しいからさ。一言かけておこうと思って」
町谷はそう言うと、早希の耳元に顔を近づけ、声を潜めてこう囁く。
「最後まで見てなさいよ?」
「え? あ、はい」
「鈴浪みたいに、走るのに本気な子なら、見るだけでも価値があると思うから」
町谷は笑みともとれない複雑な表情で早希を一瞥し、それから肩を軽く叩いて、
「じゃあ、勝ってくるからね」
そしてすぐさまいつもの爽やかな笑顔を取り戻し、三年生が集まっている方へと向かっていく。
なぜわざわざ声をかけてくれたのか、正直あまり分からない。
だがこの後行われるレースで走る町谷の姿はなんとしても目で捉えておかなければならない、そんな気がして早希はエリナを置いていくぐらいの、思いの外早い足取りで客席へと戻った。
かくして大会は始まり、町谷が出場する組のレースが訪れた。
「あ~やっと来た~。待つだけでお尻びっちょびちょだよ~」
タオルを頭にかぶったエリナが、ぱたぱた手で顔を仰ぎながら暑そうに声を上げる。
トラック上には女子百メートル走の出場選手がぞろぞろと現れ、その中には第三組にエントリーされた町谷の姿も見られる。
「おっしゃー聖呂高いくぞー! せーのっ!」
少し離れたところでは余所の高校の生徒達が息の合った応援を声高らかに行っており、聞いているだけでも威圧されそうだ。
「町谷せんぱーいがんばってー!」
負けじと水美陸上部の一二年生の女子達もエールを送るが、レース直前の町谷は集中しているのか全く反応せず、数分後に走り抜けるトラックだけを静かに見据えている。
(何考えてんだろ、今)
良いタイムを出せなければ、これが高校生として最後のレースになる。そんな状況の中で出番を待つ時、どんな気持ちになるのだろうか。
不安か緊張か、それともレースへの気分の高まりか、何にせよ当事者にしか分からないが、それ故に早希は気になりながら、黙ってトラックの方を眺める。
知らない学校の部員達が走り抜け、訪れる町谷の組の番。
「……っ」
いつも会う先輩の、いつもは見せない極限まで神経を研ぎ澄ませた様子に、早希も息をするのも忘れそうになる。
「やっぱ先輩背高いな~」
「今関係ないでしょ」
エリナのような他愛のない言葉が積み重なって、ざわざわとスタンドは観客と応援の声で賑やかであったが、レース直前になるとそれらは自然と収束していった。
あっという間に訪れた静寂の中、ランナー達が点呼の後スターターブロックの位置まで移動し、スタートの準備に入る。
オンユアマークという掛け声の後、ピストルの音と共に選手全員が一斉にスタートする。
どっと声援が巻き起こるスタンドの前を風のように選手達が駆け抜けていき、その中の一人である町谷を早希は目でひたすらに追っていた。
(先輩……!)
勝って欲しい、という思いよりも先輩がどんな風に県大会という舞台で走ってくれるのかと、そんな期待をこめて二十秒も経たないうちに終わりを告げるレースに意識を集中させていた。
長いようで短いレース、だが真っ直ぐな距離を走り抜ける競技は残酷にも見ている者に勝者と敗者の差を明確に示してくる。
「っ……」
何着までは勝ち上がる事が出来るのだろうと、考える事さえしなかった。
今まで見た中で一番の躍動感で走り抜けた、部活で一番憧れた先輩町谷は、しかし第三組八人の中で後ろから三番目にゴールしていた。
立派な走りだったと、おそらく監督も部員も称賛してくれるだろう。後で聞くと町谷の自己ベストをほんの僅かにだが更新していたらしい。
それでも、前の四人とあまり大差を広げられてはいなかったものの、次のレースに勝ち上がる事は叶わない。
それはつまり、町谷の高校での競技生活が幕を下ろしたという事実に他ならず、それを悟った部員達の多くは溜め息混じりに「よく頑張った」と拍手を送る事しか出来なかった。
『最後まで見てなさいよ?』
高いモチベーションと覚悟で町谷はレースに臨んだのだろう、そして自身で一番の走りを本番でやってみせた彼女はやはり素晴らしい先輩だと早希は改めて思った。
それなのに、走り終えた町谷は結果を確認した後肩を落として立ち尽くしており、落胆しているのが背中越しでも見て取れた。
ベストの走りをしたのに、結果は報われない。
そんな非情な現実を見せつけられた早希は、しばらくの間どう反応して良いのか分からぬまま、皆と同じようなリアクションで町谷を迎え入れ、なんともいえない虚しさを噛み締めるのであった。




