春 - 69
夕焼けも半分沈みかけた頃、薄暗い橙に染まる公園には既に小学生の姿は見られなかった。
住宅街のど真ん中にあるこの小さな公園は学区から遠い立地のせいか元々閑散としていて、五時を過ぎれば自然と人はいなくなる。
雄一と早希はそんな場所に寄り道がてらにふらりと立ち寄っていた。
「んー、微妙に狭いですね」
開口一番、早希は公園を見てそう声を漏らす。
「端から端まで百メートルないだろ」
「ですね。まぁ、走れれば良いですよ」
数分前、唐突に走りたいと彼女は言った。
雄一が彼女の走る姿を見たことがないと口にしたのがきっかけで、別に大した意味ではなかったのだが、なぜか早希はその直後から走りたい走りたいとさりげなくアピールしてきた。
そうして走れるだけの広いスペースがあるこの公園へ、なんとなくやってきたのだった。
「じゃあ、準備しますね」
早希はそういうと近くのベンチに持っていた鞄とジャージバックを置き、そうして自身のスカートの裾を掴んだ。何をするのかと雄一が思った直後、早希は躊躇いもなくスカートを両手でめくりあげてみせた。
「うおっ、何してんだ……!」
そう言いかけたところで、雄一は気付く。
締まりの良い彼女の両脚の太もも部分が、紺色のハーフパンツで覆われている事に。
「履いてますよ。当たり前じゃないですか」
早希は若干にやついた笑みを見せながら、軽く屈伸したりアキレス腱を伸ばしたりしてストレッチをする。
「っ……別に期待し、 言い訳するのもなんか情けない気がして、一瞬だけ高ぶった胸の鼓動を必死に押さえつけようとした。
「別に走らなくても良いんだぞ、疲れてるだろ」
「整理体操みたいなものですから」
らしくなくアグレッシブに行動するなと雄一が思っていると、早希は一呼吸置いてから、
「……先輩、試合では必死なんですね」
「ん?」
「それで結果を出してました。私も必死で走りますけど、勝てなかった。それから練習もがむしゃらに走り込みましたけど、だんだん焦ってたんです。結果を出そうじゃなくて、結果を出さないとって 」
顔は見えるがあえて目は合わせず、早希は言葉を選ぶようにゆっくりと喋る。「実はバッティングセンターで先輩に励まされた時、少しイラっとしたんです。知ったような口をって、でも励まされるくらいにふてくされてたんだって思うと、少し結果が出ないくらいで情けないなって思えてきて、それで負けた事が気にならなくなったんです」
「……俺なんかに励まされてってか」
「そうじゃないですけど、そうかもしれません」
よく分からない返しをして、早希はジャージバックと一緒に抱えていたスパイクを袋から取り出して履き替え、足場を馴らしてからしゃがみ込む。
「……スターター、してくれます?」
「え、どうやりゃいいんだ?」
「よーいドンで良いですよ。あ、声は大きくお願いします。高校球児は声が大きいのが当たり前だって、テレビで見ましたよ」
「っ……」
やけに攻めた喋り方をする早希に戸惑いながら、雄一は一つ深呼吸してから、再度彼女の方を見据えて、
「……、位置について~」
雄一の声に従い、早希がクラウチングスタートの体勢を取る。
その眼差しは真剣そのもので、彼方のゴールを見据える獣のような鋭い眼光は見ていた雄一の背筋をピンとさせ、真面目にやらなければという思いにさせた。「よーい……ドン!」
雄一が合図の声をかけると、早希の体が弾かれたようにスタートを切り前進していく。
ダッダッダッと公園の硬い土を踏みつけていく走る音が軽やかに響き、雄一の前を颯爽と彼女の体が駆け抜けていく。
垣間見えた彼女の横顔は笑みも苦しみもない、ただ前だけを見て余計な感情が排除された純粋で迫力あるもので、走るフォームは洗練された四肢が無駄なく素早く動き続けて美しい。
「っ」
ほんの一瞬だけ、雄一は見惚れてしまっていた。
「っ~……ハァっ……あはは、やっぱりスカートあると走りにくいですね……」
公園の端の花壇ギリギリまで走って立ち止まり、息を切らしながらもささやかに笑みをこぼす。
「……」
楽しんでるんだなと雄一は彼女を見て思った。
走って疲れた筈なのに、走って疲れて事に喜びを感じているようだった。
「どうでした?」
「ん……あぁ」
自分は彼女が走るのを楽しむように、野球を楽しんでいるんだろうか? 雄一は疑問を覚えた。
やりたくて野球をやっている、活躍したくて必死になっている。
結果を出して興奮した自分もいた。
だが、彼女のように、取り組んでいるスポーツを好きなのだろうかと問われれば、そうだと断言出来なかった。
野球は好きだが、好きの強さが違う気がしたから
早希の走りは綺麗で華麗で、後に引きずるしがらみなど皆無で、ただただ走った事に楽しいという感情に満ち溢れていたものだった。
「これでおあいこですね」
そしてそんな風に全力で走った後、余韻に浸って微笑む彼女を、雄一はひたすらに、呆ける程に綺麗で輝いていると思ってしまっていた。




