春 - 43
片目を閉じて申し訳なさそうに苦笑いをする、不意に声をかけてきたその少女は、紫を基調としたシンプルなユニフォームを身にまとっており、陸上関係者らしい引き締まった体つきをしていた。
「あ、うん、いいけど」
「ほんまに!? 助かるわー! 口つけんしちょっとだけやから堪忍な」
言いながらサッと早希の手からスポーツドリンクを取ると、顔を天へと向け、キャップを開けたボトルを頭上で傾け、零れる中身を口で受け止める豪快な飲み方を見せつけてくる。
ちょっとと言った割にはごぼごぼと零し、ユニフォームを容赦なく濡らしている姿が滑稽で、早希はしばらく呆気に取られていた。
「はぁ~染み渡るわ~、神のお恵みやでほんま。おおきにな~初対面の人」
「あ、うん。どうも」
中身の三分の一は減ったであろうペットボトルを受け取り、早希はぎこちなく返事する。
「その服、もしかせんでも記録会参加する人?」
「えぇ……あなたも?」
「せや。これでも一応陸上は長いねんで? 力には自信があるんや!」
陽気な関西弁でそう言って力こぶしを作って見せる彼女、うねるようなクセっ毛に健康的な笑顔が可愛らしく、初対面なのに壁を感じさせない雰囲気を持っていて、口が達者ではない早希の苦手なタイプである。
「どこ高なん? 青ユニとかかっこええやん!」
「……水美」
「水美か~、海が近いとこやろ? 景色が良い学校って知り合いが言うてたで」
目を合わせると暑苦しさに飲み込まれそうなので、早希は視線を落として再度彼女のユニを確認する。
「……丘南」
「お、よー分かったなあたしの学校」
「いや、書いてるから……」
紫の生地に白い文字で丘道南と書かれている。水美のある地域から東に行ったところにある、観光業が盛んな街・丘道にある公立校の一つだ。
「そらそうやな、はははは!」
けたけたと笑う彼女の声は静かな朝に堪える。
なんとか巻こうと機会を伺うも、彼女の話には切れ目がない。
「百メートル?」
「うん」
「一緒やん! いや~なんか縁てのを感じるわー! 確かに引き締まった良いこの足はスプリンターのそれやね」
しゃがんだ彼女に足を両手で掴まれ、早希は変な声を上げて飛び退いてしまう。
「ひゃっ! ちょっと!」
「あーごめんごめん、鍛えてんなー思うて、中学からやっとん?」
「っ、そうだけど」
警戒を含んだ声で答えるが、関西弁が特徴的な彼女は気にする様子もない。
「こっちに来てから、自分の学校以外の人間と話した事なんかなかったけん嬉しいわ~他校の女子と話せて」
口振りからも彼女はこの辺り出身ではないらしいのが分かる。
「関西?」
「せや。今年引っ越してきたばかりやで、親の転勤と高校進学がかぶってなぁ、心機一転って感じや」
「てことは、一年なの?」
「せや、なんやそっちもかいな、ならこれが高校最初の大会やろ? お手柔らかに頼んますわ」
にたりと笑って差し出された手に、早希はやや戸惑いながらも握手を返す。「まあ手加減はせんけどな、余所者やからってなめられんよう一本良いタイム出したらんと思とるけん、堪忍な!」
「ん、そう……」
常にヘラヘラしているような彼女から出た意外に真面目な言葉に軽い驚きを覚える早希。
「そうね、やるからには真剣じゃないとね」
「おっ、ええ心掛けやな、うちの学校の陸上部はなんちゅーかほのぼのしとってなー、おたくみたいにやる気ある人がいて安心やーわー」
早希の肩をバンバン叩いて、彼女はまた高笑いしてみせてから、自分の学校の陸上部に合流する時間が近いといって戻ろうとする。
「ほな同じ組になったらよろしく頼んますわ! えーっと……」
「鈴浪よ。水美の一年生」
「鈴浪ちゃんな! うちは赤根屋冴恵っちゅーんや、丘南やで、覚えとってーな!」
まだまだ有り余る元気を撒き散らしてそう言うと、赤根屋と名乗った少女は手を振りながら立ち去っていった。
「……なんか疲れた」
ポツリと漏らし、早希もまた町谷達がストレッチを続けているであろう地点に向かう。
先程まで常に緊張感に体が萎縮していたのに、赤根屋という他校の女子の溌剌ぶりに影響を受けたのか、今の早希の心にはささやかな余裕が生まれ、不思議な気持ちの高ぶりを感じていた。




