夏 - 35
ベンチに戻ってきた稲田の顔は、彼らしくない歪んだものであった。
「良い粘りだったぞ!」
「タイミング合ってましたよ!」
激励の声が飛び交う中、試合はすぐに動いた。
快音が響き、少し遅れて歓声が沸き上がる中、打球は三遊間を猛烈な速度で抜けていき、バッター沼山は一塁に到達する。
初球の真っ直ぐを迷わず振り抜いた、強打者の彼らしい積極的なバッティングであった。
次のバッター乃村が打席に向かっていく中、ネクストバッターズサークルに向かう前の広岡が稲田を呼び止める。
「乃村に、アドバイスしたか?」
「したぜ~、スライダーは捨てろってな」
横から見ても前山のスライダーのキレは鋭い、狙って打つものじゃないと割りきった方が打席に立ちやすいと思っての助言だろう。
「乃村……」
もう一本はヒットが出なければ、ホームランが出るかエラーでも絡まない限りスコアで追い付く事は出来ない。
雄一は乃村と前山の対戦に意識の全てを注いで、期待をこめた視線で見つめる。
(バントか)
監督のサインは送りバント、前山から連打は期待出来ないと判断して、得点圏に確実にランナーを進める事を選択したらしい。
初球は外れて二球目をバントしに行く乃村だが、ストレートの勢いが強く大きく跳ねてファールゾーンへ。
「らしくないな」
難しいコースではないようだったが、乃村の動きもぎこちなく見えた。失敗してはいけないというプレッシャーで体が固くなっているのだろうか。
続いての球もバントを狙うも、今度はギリギリファールラインを切れて失敗、ツーストライクになってしまう。
「うお~惜しい!」
「落ち着けよー!」
元々小技の上手さがウリの乃村がバントを決められず、チームメイトの間にも不安が高まる。
(頼む……乃村!)
気付けば雄一は両手を握り締め、マウンドではなく雄一の方ばかりを見ていた。
自分の出番に備えて前山の投球を頭に叩き込んでおかなければならないのに、乃村の打席に意識が集中していた。
いつも自分が自分の打席で結果を残す事を第一に考えていたというのに、今はチームの逆転勝利を願っているのは、背番号を貰った者としての自覚が出てきたと言っていいのだろうか。
(いや、俺の出番を求めてるから、結局俺のためか)
それでも、自分に回ってきたら打ってやる、だから繋いでくれと乃村をただ見つめる雄一。
直後、鈍い金属音に続いて打球がグラウンドを転がっていき、水美ベンチの面々は打球の行方を固唾を呑んで見守っていた。




