3話 王都の朝
「ふわあ…。早すぎたか…」
起き上がって伸びをするが、まだ外は暗い。時計を見るとまだ午前5時だ。
ずいぶんと早すぎる時間に目が醒めてしまった。日の出時刻は近頃だいぶ遅くなってきてしまったが、それよりもかなり前に目覚めたことに気づいた。冬に近づくほど日の出は遅く、日の入りは早くなる。まだ眠い頭を働かせるために、俺は独り言をつぶやく。そうでないと気づけばまた寝てしまうからだ。
「だいぶ日の出が遅くなったなあ…」
王都は北回帰線に沿った位置にあるので、本来周辺は砂漠となるべき気候なのだが、ウル湾に入り込む暖流が湿った空気を運んで雨を降らせていた。回帰線というのは季節がもっとも夏になったときに、太陽が真上に来る地域を線で結んだものだ。逆に王都が冬のときには、南半球にある南回帰線が盛夏となる。
「今日も空気が綺麗だ! いい朝だな」
王都・ウルの近くを流れるウルガ河上流のアイラ地方では、それよりもさらに大量の雨を降らせているから、冬でも温暖かつ湿潤だ。ただし夏には太陽が真上に到達し、ほとんど赤道と同じような暑さに見舞われるだけでなく、雨も多くなり穀物の生長を助ける。そのために王都の周辺の草木は高く、そして大きくなり広大な森や草原を形成していた。
季節が発生するのは、この星が公転軌道面に対して赤道面が22.1度ずれているからだ。この回帰線のズレは1万年前には23.4度だったが、2万年後には24.5度と最大になり、4万年後にはまた最小値の22.1度へ戻る。季節の変化は、ここ2万年ほどは次第に小さくなっていたのだ。今はこれから季節変動が大きくなる、ちょうど境目だった。
「さて、明日もあの山の向こうへ行くか? いや、試験対策のほうが大事か」
俺はよく郊外の大自然の中へ、野外活動をしに向かっていた。だが、試験があるときは自粛する。ユリカは俺が野外活動で何をしているかは知らない。一度も付いてこさせたことはないのだ。
森の中をうねるように大河が流れ、ところどころに湖を湛える美しい景観を作り出している。数多くの野生動物がそこで暮らし、生まれ、そして死んでいく。ダイムー大陸は世界でも数限りない、恵まれた土地だった。太陽神の恩恵がある土地という考えから、4000年前に、初代太陽王のダイムー=ラー=シンクがここに王都が切り開いたのだ。
いつもなら、起きてすぐに居候させてもらっているカノミ当主の館から道場に向かい、1時間ほど体を動かしてから第一高校へ向かうのが俺の日課だったが、今日は道場に向かうにも1時間ほど余裕があった。ここしばらく勉学以外に自分だけの時間を過ごせなかった気がする。休日にはほぼ必ず行っていた野外活動も、ユリカとの勉強で潰れてしまっていたからだ。少し、これから先のことも考える時間が必要だった。
「さあ、考えよう。期末試験のあとは、やっと総合試験だ。俺は何点取れるのか。それから、適正試験には合格できるのか…、体力測定には問題は無い。やっぱり計算学が難点だな…」
明後日には期末試験が始まる。俺にとってはたかが、いち高校の校内試験でしかない。俺には適正試験の中の、俗に総合試験と呼ばれる、地球・月・火星すべての17歳の男女が受けることが義務付けられている7修目の座学試験と1修目の体力測定のほうが重要だ。
「たった3割しか適正試験へ進めない。そこは大丈夫なんだ。問題は適正試験で必要な心の強さだ…。受験生の多さに怒ってはいけない。心を落ち着けて試験を受けなければ…」
全人類10億人のうち、加護を得られているのはその3分の1以下、毎年受験する1400万人の17歳の男女のうち、300万人ほどで、上位500万人が、二次試験である加護適正試験へ駒を進められる。ちょっと多いと思うかもしれないが、闇の賢者アーケイが生み出した物流手段によって、世界中の学生を対象とできるように変わったのが1067年前のことで、それ以来年々諸国と同盟を結んで対象学生を拡大し、気がついたら世界同盟が出来上がっていた。
「大事なのは、知恵だ、俺にはそれがあるだろうか? いや、この歳にしてはあるほうだろう。それは心配ない。試験で心を平静に保つことの方が大事だ…」
一定の知能、応用を兼ねた知恵、そして体力。これらが一定の基準を超えていなければ、加護を得られるのは皆無であると歴史が語っている。知恵はその中でも特に重要だ。知能だけが高くても知恵が無い者は、自発的に行動することがほとんどない。逆に、知能が低くても知恵がある者はそれなりの成果を出す。本当に優れた者は、点数なぞ関係無く、ほとんど知恵で決まる。ただし、同じ知恵があっても知能の高低でその差が出るから、両方とも重要だが、より重要視されるのが知恵というわけだ。虹色水晶と黒水晶が加護を与えることを好むのは知恵、知能、体力の順のようだった。
「もし、加護が発現しなかったら? そのときは王城に勤務を志望してでも、親父のやり残したことを…」
加護の力を得られなくても、500万人の中に入って総合試験を突破しさえすれば、一般企業にとっては垂涎の人材だ。就職活動はそういう者から先に決まっていく。だから誰もがこの適正試験を人生の一大岐路として考えていた。500万人の突破者のうち、加護が発現するのはほぼ上位300万人に限られ、加護3以上の力を得られるのはわずか3000人ほど、そして騎士見習いを希望して王族に認められるのはその中の800人以下だ。
「もし加護が2か3でも、サノクラ師範と同じように騎士を志望しよう。厳しい道だけど前例があるから、王族も認めてくれるはずだ。それでも1なら諦めるしかないな…。そしてユリカはどうなるのか…」
女性はそのほとんどが騎士ではなく一般企業への就職を希望するため、3000人のうちの半分は騎士への道をはずれることになる。また、加護が3程度ならば騎士を希望しても、体内加護流の保有量を理由として活躍することは難しいので、どうしても騎士候補は加護4、加護5以上の者だけに絞られている。一級騎士となって親父と一緒に活躍したサノクラ師範は、加護が2であっても騎士への道をあきらめず、実力で身を立てたのだから、その壮絶な労苦はいくら推し量っても足りないだろう。
「そして3年生になったら、これまでに得られなかった知識が得られる。今から楽しみだけど、それも試験を突破してからでないと考えることもできないなあ…」
結局、適正試験を最後まで突破した800人以外は、高校生活は2年間で終わるもので、「高校3年生」というのはそのまますべてが五級騎士ということになる。その五級騎士の養成を唯一行うことができる王立高校は、地球全体で8校あり、それぞれが毎年ほぼ100人ずつ「3年生」を受け入れる。
「100人の五級騎士が8つの高校に集まる。その中でも上位になれるようでないと職業騎士になることは難しい…。それに論文をきちんと書けるかどうかも問題だ。関門を越えた先に、また関門がある。ずいぶん狭い門だが、俺に越えられるだろうか? いやそんな気持ちではだめだ。必ず越えるんだ」
ダイムー大陸南部の王都・ウルに第一から第三高校まで、北部のカイザに第四と第五高校、南北アズダカ大陸の陸峡である中央アズダカの大都市メクスに第六高校、、ヤルーシア大陸西部のパレスティカに第七高校、同じくヤルーシア大陸南部のデガノに第八高校がある。3年生はこの王立高校で、1年間は直接騎士から手ほどきを受ける。そして卒業試験は無いが、卒業して四級騎士となるためには卒業論文が必要となる。だがほとんどの3年生は卒業論文を書く手前で卒業する。というのは、本当に騎士という職業で日々の糧を得るのは、毎年わずか20人程度で、一度なりとも五級騎士の身分を得たならば、一般企業に入社したり公務員となっても、それこそ総合試験突破者よりも優遇された地位が約束されるからだ。
「世界に貢献できるような論文を書けば、旅の資金だって投資家から集められるはずだ…」
たかが18歳の若者の論文と思って舐めてかかることはできないほど、完成度の高い論文が毎年20本は書き上げられる。力石の作成技術、風伝技術、飛空船の設計構想など、人類の技術革新はこれらの論文によって成り立っていると言っていいだろう。また、優秀な論文を書き上げた者は、騎士としながらも冒険に出ず、一般企業から投資を受けて研究を続け、さらに優れた技術を生み出すこともあった。騎士の称号を得ているならば投資家も安心してその資産を彼らに任せた。基本的には良く言えば熱心な、悪く言えば諦めの悪い騎士たちが研究を続けるなら、研究成果の配当が莫大な利益となって返ってくるのは明らかだからだ。
「地球上から魔獣を一掃し、安心して暮らせる世界を作るんだ。もう、俺のような子供がでてこないように…」
多くの騎士は、過酷な研究に身を捧げるのではなく、虹色水晶の探索に向かう。通常の生態系から逸脱した生物を、土に還してやることで手に入るのだ。それ以外にもたびたび大規模な騎士団を組み、投資家から調査資金を手に入れて月面や火星の未踏地へ向かい、そこで虹色水晶塊を地面から掘り出す。もちろん、月面だけ、火星だけでの探索を生業としている騎士もいて、それぞれ地の加護で発生させた重力増加によってそこで生活し、働いている。だが騎士と言えば普通は魔獣討伐の方だ。地球上から魔獣を殲滅できれば、人類の活動領域を増やすことが出来る。人類がいつまでも内陸部へあまり踏み出せていないのも、この魔獣のせいだった。俺も魔獣討伐を中心にするつもりだが、見聞を広める為に月や火星へも行ってみるつもりだった。
魔獣は5000年ほど前から現れ始めたようで、初代太陽王の頃の文献には、1000年ほど前から魔獣が出始めたということが書かれていた。つまり、虹色水晶が力を現し始めたのがその頃なのだ。地球の45億年、生命誕生から37億年の中で、どうして5000年前からそれが現れ始めたのかは不明のままだ。
「論文は、やはりこれだ。これしかない」
俺は右手を見つめ、一人力強く頷いた。
俺は今から論文の内容を決めている。それは、地水火風の4大加護は、元が一つのものなのではないかということだ。つまり太陽王の加護は、4つの加護が得られたのではなく、加護を正しく理解して一つに集約したものであるという仮説だ。そこから光や闇、星の加護も説明がつけられるはずだ。さらには、加護がそもそもどうして人間の心の強弱にこれほど左右されるのかというのも、だいたいの仮説ができあがっている。だが、3年生の授業では一般に公開されていない加護の情報が披露されることになっており、それをちゃんと聞くまではその理論も完成しない。
俺の論文は、人類全体に大波紋を投げかけるだろうと予想している。おそらくは受け入れられることは無い。だが、それは真実だ。なぜなら…
「カケルーーーー! 朝だよーーー!」
いつもの朝のように、ユリカが俺を呼ぶ声を上げたということは、既に道場に向かう時間が来たということだ。考え事をしながら出かける準備だけは怠らなかったので、気がついたらいつの間にかすぐに出られるようになっていた。無意識とは恐ろしいものだ。すぐに鞄を肩にかけて玄関を出る。
「ああ」
「なんだ、もう準備できてたのねー」
「ああ」
「ん?カケル、だんだん師匠に似てきたかも。返事がおざなり」
「ああ、いや悪かった」
「騎士の人ってみんなそんな感じだもんね…でも私には明るく元気な顔見せてよ!?」
「…プッ、ハッハッハ」
「そうそう、それそれ」
腰まで届きそうな長い髪を後ろにひとつにまとめたユリカに、澄み渡った湖のような深い藍色の目で覗き込まれると、俺は覚悟が揺らいでしまう。決して一緒にいるのがつまらないわけではないのだが、この気心の知れた美しい少女を、その腕の中に抱きしめたいなどと考えてしまっては、心が確実に弱くなる。
「うーん。いやいやだめだだめだ」
「アハハ、どうしたのカケルー!?」
そう考えないように俺は結構無理して難しいことを考えるように頑張っているのだが、そうすると騎士たちと同じ仕草になってしまうらしく、あの勇壮な騎士たちも結局同じようにどこかで踏ん張っているのだと考えると、思わず笑い出してしまった。だがその笑いも一瞬で終わる。俺は、心から笑えていないのだ。そんな笑いはむしろ苦痛なのだ。
俺は、本当の笑い方を忘れてしまった…。どのくらい前からだろうか。笑うことが苦痛なんて、どれほどの抑圧が俺の心にかかっているのだろうか。いずれ思い出したい。でもその方法は分からない。
「師範は、ユリカが騎士になりたいってことを許してくれたのか?」
「可能な限り試験は突破しろって言ってたけど、騎士になったからには、家では師範と呼ばずにお父様と呼ぶようにっていう交換条件みたいなものを出してきたよ…」
「ハハハ、なんだそれ、昔と逆だな」
話の都合上、笑うべきところは分かっている。だから笑ったフリだけはできる。
朝は修練着を来て道場へ向かい、修練を終えた後は沐浴場を使わせてもらい、汗を流して高校の制服に着替える。修練着は動きやすいように袖丈が短くできているが、丈夫さを重視して黒い厚手の布で作られていて、制服の白い布とは正反対の色だ。
修練着の構造は一般的なダイムーの服と同じく、袖を通したあと腹側で襟先を、まず右を先に腹へ巻き、その上から左を上に巻いた後、帯を腰に巻いて止める。それだけでは動き回っていると崩れてきてしまうので、くるぶしまで届く袴を着ける。これも色は黒だ。
一般的な服と違うのはこの袴の構造だ。普通の袴よりも大きな布で作られていて、片足だけ頭の上へ振り上げるほど足を開いても動きを邪魔しないのだ。普通の袴だとさすがにこうはいかず、袴が破れてしまうだろう。
「うん、私も頑張って家でも師範と呼ぶようにしてたのに、それが最近つらいみたい」
「名うての元一級騎士、サノクラ師範も人の親だったってわけだ」
「お母様は師範をつつきながらずっと笑ってたよ」
ユリカはいつも長い黒髪をうしろへひとつにまとめて、まるで馬の尾のようにぶら下げている。こうやってまとめないと髪が邪魔になるからだが、俺がこの髪型を好きだと言うと修練のとき以外でもずっとこの髪型にしていた。だからユリカは、常に活動的な印象を周囲に与えているのだ。
「そろそろ道場以外ではお父様って呼んであげたら?」
「いやだめ、私も卒業までは頑張る」
「プッ、師範の悲しそうな顔が思い浮かぶな」
「フフフ」
男性全般と既婚女性はくるぶしまで届く長い袴を身につけるが、女子生徒の制服や未婚女性の袴は独特の短いもので、膝までしかなく、中には膝上まで上げている女性もいる。その女性が既に結婚しているかどうかはそれで判断できた。女性用の袴は男性用の袴とは構造が少し違い、ただの腰巻で片足ごとに布がある状態ではない。だから女性が転ぶと下着まで見えてしまうのだが、普通の女性はそんなに転ばないので問題が無い。しかしユリカはよく転んで膝を打っている。毎日ほぼ3回は足元に何も無いのに勢い良く躓き、一人で転ぶだけではなく俺の袖を掴んで巻き添えにしたり、俺の背中に体当たりしてきて俺を突き飛ばしたり、派手にひっくり返ったりして俺に何度も下着を見せている。いや、見せているつもりは無いのだろうがもう見慣れてしまった。
「さあ行こうかユリカ!」
「うん!」
含んだように笑ったユリカは、少し歩調を早くして俺の前を歩いていく。そんなに早く歩いたら…と思っていると「あうっ」と叫んでやっぱり転んでいる。今転んだところには道場の廊下なのだから、小石も段差も無いのだが?
ユリカが騎士になるつもりだと初めてサノクラ師範へ伝えたのは、俺と一緒に王立第一高校を受験する直前だった。拳術はそのためにやっていたのだ。カノミ家に生まれたから修練の道に目覚めたのかと思っていたらしいサノクラ師範は、完全に自分を見失ったとかで、一ヶ月ほど道場に姿を現さなかった。愛娘の考えていた進路を大きく見誤っていたことに、怒るのではなく愕然としたのだろう。一ヵ月後に道場にやっと姿を現した師範は、聞いているだけで笑い出してしまいそうな条件をユリカに押し付けた。
一つ、必ず毎月一回は帰ってくること。
一つ、必ず二級以上の騎士がいる騎士団に加入すること。
一つ、知らない魔獣とは戦わないこと。
一つ、できるだけ早く二級騎士以上か、騎士以外の職業の人と結婚すること。
一つ、孫はできるだけ早く作ること。
子供ができたら騎士を続けられないではないか、という愚問はもはや、師範の頭の中にはなかったのだろう。娘を嫁にやる父の気持ちと、娘に無事でいて欲しいという気持ち、さらには娘が考えた進路に進ませてやりたいという、激しい葛藤の末に生み出された条件であることはすぐに分かったのだが、師範が真面目な顔でとんでもないことを言うので、腹筋が筋肉痛になってしまった。
俺はすぐに無表情でその場から離れることには成功したが、廊下で笑いをこらえて転げ周りながら悶絶してしまい門下生にその姿を見られてしまった。師範にその姿を見られずに済んだのは幸いだった。そんなことになったら師範はもう一ヶ月ほど引きこもってしまっただろう。廊下で俺の様子に首を傾げて見ていた若い門下生にも、師範が出した条件を伝えたところ腹をかかえて俺と同じように芋虫のように転げ周り始めた。普段厳しいから気づかなかったが、サノクラ師範は大がつくほどの親馬鹿だったのだ。
そのときだけは、心から笑えていたようなのだ。だが思い出してももう笑えなくなってしまった。なぜ、あのとき俺は人間的な笑いができたのか。どうしてもその理由が分からない。笑いの琴線が硬すぎるのだろうか? 俺にはまだ、謎だ…。
「さっ、今日も元気に学校へー!」
「そうだな。おお、涼しいな」
「いい空気だねー!」
朝の修練組組手を終えると、すぐに第一高校へ向かう。
王都の朝の空気は、これだけの大都市であってもいつも澄んでいる。王都周辺の森林が清浄な空気を作り出してくれるだけでなく、高楼の屋上やふんだんに配置された公園などに植栽が施され、夜の間に人いきれを消し去っていた。
「あれが総合庁舎、で、あれが伝聞社と飛空社、あとなんだっけ?」
「白いのが風伝社、黒い重厚なやつがクルスタス機械工業、それよりちょっと背の低い高楼が第一小雷とインデスタル建設だな。師匠が社長を務めるカノミ物流社とも業務提携で関係があるんだから、覚えろよ?」
「はいはーい! あっ、おはようございまーす!」
「やあ、どうも。早いね君たち。勉強がんばれよ!」
ずいぶんと早い時間から職場へ足早に向かう人もまばらにおり、ウル伝聞社の紙伝配達をしている若者もユリカが挨拶をすると、俺たちを追い越して都心へ向かっていく。都心には10階建て以上の高楼建築が軒を連ね、王城の大手門前には30階建ての超高楼建築が7つも鎮座している。一つは王国総合庁舎で、他はそれぞれ、ウル伝聞社、ダイムー飛空送社、風伝社、クルスタス機械工業、第一小雷社、インデスタル建設の、6つの大企業の本社高楼だ。カノミ物流社もこれらに肩を並べるほどの大企業だが、物流拠点それぞれに大きな高楼を持っているため、わざわざ一等地に巨大高楼を構える必要は無く、少しそこから離れたところに本社高楼を持っていた。
これらの大企業は全て王族指定企業で、王族から特命が下ったときには業務よりそちらを優先することが義務付けられている。
それほどの大きな高楼が大手門を見下ろしているが、王城の中もその高楼から見下ろすことができる。それでも大手門からだいぶ離れたところにある二の門の中を伺うことは、飛空船からでないと不可能だし、シスカ王の住む楼閣はそれらの高楼より高いところに盛り上がった地面に建てられていたから、むしろ高楼の方が見下ろされている。
「今日もお城が綺麗だね、カケル!」
「ああ、朝の光に照らされて、眩しいぐらいだ」
白い漆喰に包まれた王城の高楼のみが、城壁から顔を見せていた。城の中で一番高い王閣は、太陽王本人がご在世の時しか使われず、王家は二番目に高い建物である王家楼で生活や執政をしている。その他の建物は議事会や迎賓のためのものだが、俺たちのような一般人は中に入ることはできないため、絵に描かれたものしか知らなかった。
「このお堀、サイカ様がたった一人で作ったのよね」
「信じられないほど強い加護だ。それも、大陸中に灌漑水路まで作ってくださったんだから、想像を絶するよ」
王都には4重に幅30メートルの堀がめぐらされており、王城を中心として円形に、それぞれ直径5キロ、15キロ、35キロ、60キロの巨大なものだ。二代目太陽王のサイカ王が作り出したのは第三堀までで、一番外側の第四堀は国家事業で運河を兼ねて作ったのだが、建設工事は完成までに12年もかかった。
「サイカ王の加護は、推定で4色、いや白い光も持っていたから5色の12だ。普通の騎士が5とか6だから、その2倍か。いや、5色だから10倍か。とにかくとんでもない加護の量だ」
「イゼフの災厄に見舞われた王都を、たった一日で劇的に救ったのねー」
サイカ王は第三堀までを、たった一日で作り出した。正確には3時間だったというから、その加護の壮絶さはその短い時間を聞いただけでも想像できる。その時の様子は古い文献にたくさん残されており、イゼフの災厄によって滅亡の危機にあった王都をたった1日で救った英雄としての記載が目立つ。
土が宙を舞い、風で土ぼこりを押し留め、火で堀を焼き固め、水が湖から飛来した。さらには水没した海岸沿いの町を浮上させ、東部にあったネル湖と第三堀を巨大な運河で結んだ。たった一人で、4つの光をその腕から放って一大事業を成し遂げたのだ。伝え聞く初代太陽王以上の力を目にして、民衆は歓喜に震えた。
一番小さい直径5キロの第一堀の中にはまるまる王城がおさまり、一の郭と呼ばれている。第一堀の周囲は15キロ以上もあるが、市民達はときどき健康増進のために大会を開いてそこを走る。その外側の二の郭には、世界的企業の本社や政府関係の建築物が所狭しと立ち並び、堀にかけられた橋と高層建築を合わせた美しさは、ここが王都であることを物心つかぬ子供であろうとも実感させた。
「地8の加護だったタケル様も、堀を作るだけで考えればこれに近いことはできたんでしょう?」
「…多分な」
しかし堀を焼き固めたり、水を持って来たりわずかな時間でこれだけ大規模な堀を作り出すことは難しいだろう。それに太陽王でもなければ、一人ではできないことだ。親父の話になると、俺は寡黙になってしまうのだが、お互い悪気が無いことはユリカも分かっていることだ。復讐心のような捻じ曲がった強い陰の心は、加護の攻撃が自分の身に跳ね返るようなことを引き起こす。怒りや復讐の心は、奥底に沈めておかなければ身を滅ぼす。だから死んだ親父の話をされたとしても、侮辱されたのでなければ怒ることでもないし、むしろ俺には誇らしいことだったが、それでも俺は心を静めるようにすることをいつも選ぶ。
「さて、着いたな」
「修っ練っ開っ始ぃーーー!」
「…おう」
最近のユリカの調子にはついていけないのはきっと俺だけではなく師範も同じだと思う。いや、師範はユリカに輪をかけてはじけているから大丈夫かもしれない。小躍りしながら歩くユリカの後ろにいると、ユリカの腰巻が乱れて下着が見えてしまうのが照れくさいので、追い抜いてそそくさと更衣室に向かった。ユリカはわざとやっているのか? いや、気づいていないだけだろうが、指摘するのも考え物だ。だが、そのうち言ってやらねば恥をかくのはユリカだ。それでも捲くれやすい腰巻を変えることはないんだろうな。
そして毎朝、道場の更衣室でも目のやり場に困ることになる。会話が続いている時は、わざわざ俺が着替えている横に来て一緒に着替えようとするから、肌が顕になる。何故離れて着替えないのか? さすがにそれはと思って去年指摘したら顔を赤くして離れたのに、しばらくしたらまた忘れているようだ。幼馴染だから安心しているのか?
いやあれはきっと、心を無にするための修行なのだ。本当はただそそっかしくて、男の前で着替えするのはどうなんだということが、会話に夢中になって頭から抜け落ちているだけなのだろうが、俺は修行なのだと思うしかない。ユリカの美しい胸が顕になっても、そのまま会話し続けられるようにするための修行のつもりでいてくれているのだろう。それでも俺は目を逸らさないといけない。正直これはきついものがある。だがそんな、隠し事の一切無い奔放なユリカに、俺は恋をしていた。