20話 新しい認識の扉
白く輝く長い長い氷の道を、特製の登山靴で踏みしめて登ってきた。もう間もなく、頂上だ。しかし4本の縦線に1本の横線、それが2つ彫り込まれた門が視界に入ってから既に3時間は経過している。なんともこの目の錯覚はつらいものだが、これは本当に良い修練になる。
あとわずか、そう考えると体に力が漲る。だが焦りは禁物だ。ここで勢いを付けすぎると、気圧の低さから体力の激しい消耗が限界を超え、意識を失う。もうこの高さになると、低地と比べて酸素はあまり無いのだ。苦しい。一歩足を踏み出すのに、5秒以上かかる。いやもっとかもしれない。時間があっという間に過ぎていく。だが心を平静に保ち、ただ足が動くままに任せていると、いつの間にか進んでいるのだ。苦しいなどと考えてはいけないし、先ばかり見ていてもいけないのだ。ただ一歩一歩、確実に足を踏み出せばいい。
「ここで休憩しますよー!」
「はーい!」
頂上がすぐそこに見えていても、休憩はかなり多目に取らなければ体が動かなくなる。簡単な休憩を取るが、腰を落ち着けて休もうと思ってはいけない。休憩するのは、体内から減ってしまった酸素を補充する為だけで、筋肉を休める為ではない。なぜなら、腰を下ろしたら最後、立ち上がれなくなるほどに疲労しているからだ。
わずか1分の休憩で、すぐにまた上へ向かう。その甲斐あって、まだ日がかなり残っているにも関わらず、いつの間にか上り坂では無くなっていることに気づいたら、十合目、つまり頂上の門はすでに後ろにあった。つまり、気がつかないうちに登頂していた。道理で歩きやすくなったわけだ。もう、あまりにも足が重くて下しか見ていなかったせいだ。
「あれ? もう頂上ですよ!?」
「ありゃ? ほんとだ! うおーーーー!」
ユリカは遥か地平線へ向けて吼えていた。うん、これはすごい景色だ。綺麗に晴れ渡っているので、麓までよく見える。遥か遠く地平線に、森が開けて少し山なりになっている場所が見える。あれが王都のはずだ。
「とうとう登りきりましたよユリカ様!」
「やったね! カケル! はぁ、はぁ、それにしても空気薄いねー…」
俺もそろそろ自然に敬語が出てくるようになっている。なんだか、ユリカの部下みたいになっていることがちょっと楽しい。喜怒哀楽をそのままに伝えてくる人間というのは、付き添い甲斐のあるものなのだ。さて、山小屋を開けて清掃しなければ。しかし体がもう動かないな。
「定時連絡の後、仮眠しましょう。もう体が」
「うん、うごかにゃー…」
山小屋の鍵を開けて中へ入り込むと、ユリカは革敷物の上へ突っ伏している。俺は定時連絡で頂上への到着を伝えて仮眠の許可を得ると、ユリカのそばに一緒になって体を横たえる。だが火の力石を作動させてからでないと風邪をひいてしまうだろう。
眠気に船をこぎながらもやっと力石に加護を込めて発動させると、足に暖かい血が廻り始める。すると足は痛覚を思い出してじんじんという感覚を返す。ユリカは既に寝息を立てているが、それを見た瞬間に俺も気絶するように眠り込んだ。
奇妙な感覚がした。加護の力を感じる。時間はまだ明け方のはずだと思って、時計を見ると午前5時だった。だいぶ早く寝たのに、ずいぶんと寝てしまった。目が醒めるとユリカの上に覆いかぶさりながら寝てしまったことに気づく。すまんユリカ、重かったかな。
一応、やっと起床したことを風伝板で師匠へ伝える。だが返答が無いので、まだ師匠も寝ているのだろう。仮眠と言いつつ熟睡してしまったが、それは仕方の無いことだろう。疲労は極限まで来ていたのだ。
「うーん…カケル? この感じなんだろう? 前に七合目まで登ったときは無かったけど」
ユリカもこの山小屋の周りに何かがいるような気配に気がついて起きてきた。日の出は6時45分ごろなので、まだ時間があるはずだ。
「外へ出て確かめてみましょう」
山小屋の扉を開けると、細い月が頂上の氷原を照らす、幻想的な光景が広がっていた。星空は王都で見るものとは比べ物にならないほど近くに感じられ、普段は見えない小さな星まではっきりと見えていた。そこには特に生物はおらず、この加護は周囲一体、つまり山体が放出していることが分かる。それは語りかけるような加護の流れで、俺たちを起こすために干渉してきたもののように感じられた。
「これを、この景色を見せようとしたのでしょうか?」
「え、見せようと? 誰が?」
「何かが、です」
それは、第四の極意の対象物。ユリカの目をじっと見つめ、それに気づいているかどうか確かめてみた。ユリカも頷く。
「山が…確かに山が何かしゃべっているみたいに感じるね。…ううん、山じゃないみたい。ねえ、貴方は一体何者なの…?」
もちろん問いかけても答えは返ってこない。だが少しだけ加護の流れは優しくなったように感じた。風はかなり強いが、山の上空には雲は一つもない。月光に照らされて視界の下半分は綿のような雲海が濃紺の光を放つ。
まだだいぶ時間があるが、ここで日の出を待つべきだ。何かが、俺たちにそう囁いた感覚がした。一応風伝板と力石は山小屋から持ってきている。火の加護で岩の上に張った薄い氷を溶かして乾かし、その上に2人で座り込む。言葉はいらない、という感じがする。ユリカを見やるとどうやら同じ意思を感じたようで、無言で頷いている。
朝6時の定時連絡を打つ。頂上で日の出を鑑賞中と打っておいた。返答はしかと見ろ、とのことだ。やはりこの日の出が重要なのだ。
「…3年前のあのとき、光が俺の前に現れたときに感じた力と似ている。いやあれより大きいか」
「また、ここへ光が現れるの?」
「いやそうじゃない。なんとなく分かってきたぞ。あれは特別なものじゃなく、特別なところにしかいないものじゃなく…」
地平線が次第に赤く色づいていく。まだ日の出にはだいぶ時間があるのに、もうこんなに明るくなってきている。地球の大気の上層部には、既に太陽の光が当たっていて、それが見えているのだろう。岩の上だと風が強いが、不思議と寒くなかった。
細い月のすぐ近くに、金星が登ってきた。少し上に赤い火星が見える。さらにその近くには木星だ。ずいぶんと星が密集しているように見える。まるで、宝石箱のようだった。地平線が完全に橙に染まると、突然風が止んだ。
次の瞬間、太陽が顔を出す。雲海はまだ紫色のままだが、空は地平線の黄色から上空の濃紺に向けて色が遷移していた。目の奥へ突き刺さる光条が、いつもとは違う朝を告げる。ああ、なんという神々しさか…。
「これだ…この光だ…」
「…そうだったのね…いつもそこにいたのね…」
その瞬間、2人とも全てを理解した。そうか、俺があの時に見たものはこれだ。なんだ、分かっていたのに理解できていなかったのか。太陽も、月も、金星も、火星も、木星も、この場に見える全ての星が。そして地球も。それぞれが神々しい存在だったのだ。一人一人の人間も、あらゆる生命がそうだったのだ。一つ一つに神性が宿っていた。
あのときの光は、たまたま俺の感覚が鋭敏になっていたから感じ取れただけで、やはり彼らは常にそこに、そこかしこにいた。そして俺たちを照らして、見守ってくれていたのだ。これが太陽王の力の源泉か! 太陽系すべての星々が、地球上の生命、そして人類の誕生に関してなんらかの影響を及ぼしていたということは、彼らは常に助力していたのだ。太陽系の全てのものが、味方だった。
理解した直後、どっと涙が溢れ出した。感動などという生易しいものではなかった。魂がその根源を発見して揺さぶられた。俺たちは彼らによって造られ、彼らによって生かされていた。育てられ、守られ、そしてここでまた会えた。彼らは生命体ではないが、それぞれの星の王として君臨していた。
太陽神、月天王、明星天王、火星天王、木星天王、それから忘れることなかれ、地天王もここにいる。俺たちを起こしたのは地天王だ。今は地平線上には無いが、この他の惑星にも加護の流れがあって、それぞれが意思を持っているのだ。それは炭素系生物ではない。珪素系生物の情報網が生み出す意思。それこそが、神と呼ばれるものなのだ。だから、そこかしこにそれはいる。当たり前のように、だが暖かく俺たちを見守り、育ててくれていたのだ。
これに恩を返し、これを護るというのか? それはなんという無謀な挑戦なのだ。今では第三の極意、己を知るというのもより深く分かる。この世界に生かされている小さな自分が、これらを護ろうというのか。だがどうやって護るのか? 俺には想像がつかない。出来ることといえば彼らを信じて彼らの力を借りることだけだ。それを正しいことのために使うことが、護るということなのか。
ユリカの方を見やると、俺と同じように涙を流していた。しかしとても晴れやかな顔で。俺たちは、新しい認識の扉を開いたのだ。
俺はまたじっと太陽に目を向け、彼と語り合った。言葉は無いが彼にとって俺は息子なのだという意思を直接的に、熱心に伝えてくる。おそらくユリカにも似たような意思が届いているのだろうが、俺だけは特別なのだと彼は伝える。それが、太陽王であることを太陽自身から認められたということなのだ。
太陽は次第にその高さを増し、気がつくと空は普段の青い空になっており、周囲は午前中の気配になっていた。いつの間にか奇妙な感覚も周辺からは消え、惑星の王たちとの意思疎通状態も消えていた。
「もう…8時だ」
そうだ、定時連絡をせねば。師匠へ第四・第五の極意を理解したことを伝達する。2人とも既に理解していた。おそらくこれで、加護の力は跳ね上がっただろう。頂上の山小屋を清掃後に下山を開始することを伝えると、下山の許可が出た。予想していたより相当早く試練を突破してしまい、大量に持ってきた食料は無駄になったのだが、それもいい経験だ。
定時連絡から少しの間、ユリカとは何も話さないでいるのだが、お互い意思が何故か通じる。もはや、お互いが一つになっている感覚がある。椀に雪を入れ、火の加護で溶かしてお湯にし、ユリカに手渡す。ユリカは喉が乾いている気がするからだ。ユリカも黙って頷きながら椀を取り、ごくりと飲んで椀を俺に返しながら微笑む。ユリカも同じ感覚を持っているのだろう、俺と同様に言葉を口にしなくなった。
とりあえず今日は山小屋の清掃だ。一泊して、明日朝から下山だ。目で会話してそれぞれの清掃担当を分け、あちこちを拭いていった。
頂上の山小屋は主人が綺麗好きなせいか、元から綺麗だった。恐らく昨年の閉山時に掃除を綿密に行ってから山小屋を閉めたのだろう。清掃はすぐに終わり、俺たちは山小屋の中で黙って向き合っていた。普通にただ座っているだけなのに、瞑想しているのと同じような状態だ。特に無理しなくても五つの極意が意識の表層に現れている。言葉は必要ない。これが、師匠の言っていた表層に極意がある状況なのだ。
視野は広がり、事象を予測する力は強まった。精神は落ち着き、緊急事態に対処する力は強まった。ユリカも、長年俺が言ってきた「大局観」の存在をついに掴んだようだ。おそらくユリカがそそっかしく転ぶ姿は、もう見られないかもしれない。半分嬉しく半分寂しいのだが、ユリカが成長したことは素直に喜ぶべきか。
既に三年生の授業を全て終えてしまったかのような達成感がある。おそらく、一年間に感受するべきことを、一瞬にして得てしまったのだ。黙ってお互いを見つめあい座っているだけだが、何もしていなくても苦痛が無い。
定時連絡は都度、何度も入れていたが、現在瞑想中とだけ書いて送った。そして気がつけばすぐに就寝時刻が来た。食料に手をつけることすら忘れてお互いに見つめ合いながら瞑想していたのだ。目をつぶらず、見つめ合って瞑想できるなんて初めてのことだ。不思議なことに、寝てもいないのに、3日ほど寝た後のように体の疲れがいっさい吹っ飛んでいた。
外は次第に風が強く吹き始め、隙間風が山小屋の中へ入り込んでくる。今度はちゃんと替えの下着を持って風呂に入るユリカを見て、やはり大局観を得ていることを確信して嬉しくなった。その後は、風邪をひかないようにと2人で寄り添って眠った。精神が成長したおかげで、この程度では堕落しなくなったのだ。
残念ながら、下山しようとした日は猛吹雪となってしまった。九合目あたりまで降りたところで前が見えなくなり、山小屋付近で様子を見ることを定時連絡で伝えたのだが、七合目の少し上で遭難者が出たので救助するように師匠から返信が来た。
つまりこの猛吹雪の中、遭難者たちは前へ進んでしまおうとしたのだろう。こういうときのためと思って覚えていた詠唱を使い、光の加護で遭難者の位置を確認してみよう。少し難しい詠唱で、アイラに来る前に試したときにはできなかったが、精神というものについての意識を向上させた今の俺なら使えるはずなのだ。
「光の精霊よ、その力を貸し与え給え。この山に迷いしものどものところを指し示し、光の糸を向かわせたまえ」
力石に位置探索の詠唱を吹き込むと、確かに下の方に光る線が伸びていくので、遠方の探索を成功させることができたことが分かる。1メートル程度しか伸びないが方向が分かれば十分だ。
「便利だね」
「ええ」
どうにも言葉が少ないが、あの一体感の後では仕方が無いだろう。高山は下りる時の方が危険だから、注意して向かっていることも言葉の少なさに関係しているだろう。
俺たちが到着するまでに彼らが凍死しなければいいのだが、そこまで状況が悪化していないことを祈るばかりだ。火の力石を用意してあるので、見つけたらすぐにこれで体を温めてやらなければならない。あとは、救助に向かう俺たちまで遭難してしまわないように、注意しながら進むことを頭に置いておくくらいだ。
登ってきたときはあんなに時間がかかったのに、わずか1時間で九合目から七合目まで降りてくることができた。光の加護に従って歩いていくと、遭難者は、登山道からわずか100メートルしか離れていないところで縮こまっていた。男性3人の連隊のようだが吹雪の中の進行を止める者はいなかったのだろうか。
「救助に来ました! みなさん無事ですか!?」
「た、たすかった…はい…なんとか…ありがとう」
だいぶ元気が無く、俺たちの顔も見ずにうつむいている。風の力石ですぐに障壁を張り、火の力石で障壁の中を温める。一応、何があるか分からないので、彼らにも俺が加護を使えることをばらさないように、加護はすべて用意していた力石を利用したものだけを使う。ついでに大量に余っている食料を分け与えて、体を温めれば体力も戻ってくるだろう。
「本当に助かりました。ありがとうございます」
「吹雪が止んだら一緒に下山しましょう。一応、この位置は伝えてありますので飛空船が来ますが、吹雪が止まないと難しいでしょう」
ユリカは震える男性の背中をさすっていた。あれっ? この人誰だっけ。…ん? あのときの近衛兵か!? なんでこんなところに。そう思っていると次第に風が弱まり、雲が切れてきた。上空に飛空船の低い音がするから、だいぶ近づいてきているのだろう。
「カケル! もう飛空船来てるみたいだよ!?」
「そうですね! 彼らから見えるように手を振りましょう。おーい!」
叫びながら手を振ると、飛空船の操舵手はすぐに俺たちを発見し、高度を落とし始めていた。