8話 知恩報恩と知己
……うーん。…うーん。
もう30分は経ったかな? と思って薄目で時計を見たら、まだ10分!? …瞑想に入ってから10分しか経っていないのに、もう挫折しそう。なんでこんなに時間が経つのが遅いんだろう。たった10分が信じられないほど長い。多分瞑想のやり方を間違えてる。これではつらすぎて続かないはず。きっと、正しい瞑想の仕方があるはず。
カケルがまるで息をしていないように見えるほど、落ち着いて深い瞑想に入ってるから私もできるようにならなきゃ。むふふ。カケルと一緒にこうしていられるなんて……ってこれは思いっきり雑念ね。これではだめね。何もしないで、ただうっすらと心に思い浮かぶままに、静かにものを考えるってこんなに難しいことだったんだ。
恩……私は何に対して恩を感じたことがあったんだろう。
お父様、いや師範への感謝の気持ち、お母様への感謝の気持ち、それはある。それが恩なのかと言われると違う気がする。お祖父様、お祖母様、うーん、ずっとずっと昔のご先祖様、その前にも多くのご先祖様がいたはず。誰一人欠けても私が生まれてくることはなかった。つまり限りなく奇跡に近い確率で、私が生まれてきて、今こうして考えをめぐらせることができた。
つまりこれが、有り得ないこと、有ることが難しいこと、有り難いこと。…アリガタイ。アリガタシ。アリガタキ。でござる。…有り難き幸せ、でござる。
「ござる!?」
「ご、ごめん口に出てた!?」
「プッ、そういうことか」
またカケルに笑われた~…。どのへんから口に出てたんだろう。カケルも今ので分かったのかな。でも、カケルが笑顔で居てくれるから、私も元気が出るんだ。これはアリだよね、アリ。アリアリ。アリガトウ。うん、これで、ありがとうという言葉の意味が分かった。ことば、コトバ。ん? 事…場? 言葉は事場? 事を起こすための場、か。
ああ! だから加護には詠唱が必要なのか! ……恩から考えが離れちゃった。戻そう。
私が生きていられるのは、すべてのご先祖様のおかげ。ん、でもごはんを食べないと生きていけないから、私が生きていられるのは、ごはんのおかげ。ごはんのおこげ。……うーんだめだ雑念が…。
私が元気でいられるのは、カケルのおかげ。師範のおかげ。お母様のおかげ。みんなのおかげ。ただのドジで、引っ込み思案の暗かった私がこうして明るくいられるのも、あのときカケルのようになろうって思ったから。だからもう、転んだって人にぶつかったって恥ずかしくない。次はドジを直せばいいのよ!まずは小石が無いのに転んでしまう謎について。……いや、いまはそれを考えているときじゃないや。そう、ごはんのおこげ、いやおかげからもう一度戻ろう。
ごはんを食べられるのは、穀物とか家畜とか野菜とか果物を食べることができるから。それだけのものの命を食べてるから、私が生きていける。生物学で習った食物連鎖の話。生物学と言えば、ミューは今頃どうしているかな……だめだこれも雑念。
そもそも、そういったものが食べられるようになるには、最初にそれが食べられるものだって試した人がいたに違いない。うん多分そうだ。それから、食料をいっぱい作って多くの人が食べられるようにしてくれる農家の人たちも必要。農家の人たちだけでは私に穀物や野菜は届かない。うちの会社の人たちが頑張って王都に運んできて、中央卸売市場で商店の人たちが仕入れて、お店に並べてやっと私が買うことができる。
機械だってそうだ。火星の人たちがライチウマイトを掘ってくれないと機械が作れない。小雷線をつないだだけじゃ、機械には小雷が走らないからね。機械のおかげで本当に生活が楽になってきたとお年寄りが言っているのをよく聞くから、クルスタス機械工業の発明品には本当に助かる。
それだけじゃない、この街で生きるにはずっと昔から多くの人がいろいろな建物を建てて、道を作って、上水道を引いてくれた。そしてそれらを指揮したのはいつも王様だった。王様のおかげで私はこんなに幸せでいられる。
そうか。この世界に生きてる人たちが少しずつ少しずつ影響して、やっと今の私が生きていけるんだ。この今吸っている空気もないと生きていけない。ということは、空気のおかげでもある。空気があるのはこの地球のおかげ。太陽が無いと食物も育たないし、太陽のおかげでもある。
なんだ、全部必要なんだ。全員必要なんだ。すべてに恩を感じよ、ってのは、こういうことね。目に見えるものすべて、必要。目に見えるものすべて、ありがたい。ん? 目に見えないものも? 多分すべて。目に見えない何かも、すべてありがたいもの。でも、目に見えないものでありがたいものって太陽神みたいに肌で感じる存在じゃなくて、師匠が言うようにもっとあるんだ。
そっか、私一人が生きていけるようになるだけで、たくさんのものが力を貸してくれているんだ。ということは、私も誰かのために力を貸していかなければいけないよね。私が一人で生きていけないように、他の誰かも一人で生きていけないのだから。
私が騎士になって、多くの人たちの生活がきちんと送れるようにするために、何かを、うん、そう。私は必ず成し遂げる。騎士になってしかできないこと、それは必ず災いから世界中の人を救うこと。多分無理だって思ったら絶対にできない。無理って思わないでやり続ければいつかできるかもしれない。だから私は絶対に諦めない。絶対に恩返しをしよう、私を幸せにしてくれたこの世界へ。
そう、だから、恩に報いなければならないわけか。そうか、自分のためだけに何かを奪って、何も返さなければ、目に見えるものすべて、目に見えないものもすべて、知らず知らずのうちに牙を剥くのね。自分のためだけに力を振るう人もよく見かける。そういう人の周りには、その人の権力やお金を目当てに集まってくる人だけ。本当に信頼している関係なんてそこには無いし、そんなものが存在することもその人たちは忘れてしまっている。
お金や名声なんていう虚しいもののために、大志は抱けない。大志はただ自分以外のために自分を厳しいところに置いてこそ、叶えられる。でもこれ、口で言うのも考えるのもできるけど、実際にやるのは大変なことね。だから、私はそれを口にしないで実行する。やってやる。ヤマノチ先生には女の子には無理だと言われたけど、無理なはずがない。今までだって女の人が騎士になったことがあるじゃない。私だってお父様やタケル様みたいな騎士になれる。いや、絶対になる。自分のためではなく、他人のために働く騎士に。
自分のためも必要だけど、誰かのため。生きていくのには自分のために何かをするのは仕方がないけど、自分のためだけにって、それだけしか考えていないと周りが力を貸してくれなくなる。そう、それは表面的なものだけなのよ。そんなの悲しいじゃない。
そして恩を返すと、また力を借りられる。表面的なものではなく、心からのお返しがある。でもそれにはまた恩を返さないといけない。それでまた力が借りられる。えんえんと、えんえんとくり返し。ずっと恩を返し続け、恩を返され続ける。そうか、この世は恩で成り立っている、っていうのはそういうことか。
大きな世界。とても大きな世界の中に、大きな流れがある。私はその流れの中にいさせてもらっているだけ。その流れは複雑だけれども、基本的なものは簡単なんだ。私という存在は、この大きな世界に比べたら、あまりにも小さい。自分だけの視点から見たら、きっと自分より大きいものは無いと思っちゃう。でも、実はあまりにも小さい。ちっぽけ。己を知る、ってのはこれね。自分がどれだけ、気まぐれなこの大きな世界に生かされているか。それを自覚しろということなのね。
私が騎士になってどれだけ名声を得たとしても、長い人類の歴史からすればたいしたものではない。教科書に一行書かれるか書かれないか、どんなに頑張ったってそのぐらいだ。だから生きている間にそんなに名声を求め、名声のために働いたって、小さい。ほんとに小さい話だ。
お金持ちになりたい? ううん、お金持ちになってどうするの? 豪華な暮らしがしたい? それで何が満たされるの? どうせ一人の人間、死ぬ時は一緒じゃない。なんでそんなにお金お金と目を血走らせるの? そんなこと、死ぬ間際になれば意味が無いことだったって分かること。騎士はいつ死ぬか分からない職業、お金を追いかけるために騎士をやるなんて考えられない。人間なんて小さいんだ。そしてどれだけ知識を増やしても、まだまだ何も知らないことがいっぱいある。そう、知らないっていうことをどれだけ知っているかが、きっと大事なのね。私はまだ何も知らない赤子のようなもの。きっと、何も知らないことを知っている人の方が、より多く知っている人なのね。
3つの極意の意味が分かった。これでもまだ表面的に理屈で理解しただけ。もっと深い理解、体で感じるようになるために、心に染み付くようになるために、瞑想をしよう。次、4つめ。天を意識する……
「…ユリカ、もう12時だぞ」
「えっ!? もう!?」
「あっという間だったな」
「最初、時間が進まなさすぎて、どうなることかと思ったよぉ~~」
「有り難き幸せでござるとか言い出したときには、俺の頭が狂ったのかと思ったぞ。でもおかげで考えが進んだから、ありがとうな、ユリカ」
「いや、そんなことで良かったの? うーん、まあちょっと恥ずかしいけど、いつもありがとうカケル」
「ああ、こちらこそ、いつも…ありがとう」
「ありがとうの意味が分かったよ」
「俺もだ。確かにちょっと、こっ恥ずかしいな」
「ウフフっ カケルの恥ずかしそうな顔、すごくかわいいよっ」
「ちょ、気にしてるんだから、勘弁してくれ」
カケルは女の子みたいな顔つきだから、うちのお母様はカケルに会うたびにカワイイカワイイと連呼してる。私もかわいいって思うんだけど、それを言うとカケルが悲しい顔をするから言い続けるのはやめておく。さらさらした栗毛の髪と茶色の瞳、同年代の男の子よりもやや細身な体のせいで、髪を伸ばしたら背の高い女の子にしか見えないよきっと。
ときどき、胸の中に抱きしめてあげたくなるけど、それは多分駄目だと思う。まだ雑念が多いから、そんなことをしたらきっと私は堕落してしまう。でもあと少し、あと少しだけ心が強くなれば、そんなことをしても全然問題が無いはず。最後のあと一押しが欲しい。もっと自然に、カケルを愛することができるようになるには、最後の壁を乗り越えなきゃいけないはず。
それまでは自分をしっかり抑えて、暴走しないようにしないと。暴走したら最悪、戻れないかもしれない。欲望に身を浸してしまうと、その快楽からは戻れなくなるのよ。
「どこまで理解できた?」
「んと、私は3つめまで分かって、4つめに入るところでカケルに声かけられた」
「おお、そうか俺と同じだな。第四極意はちょっと分からないな」
「多分4つめが難しいから、10日間は3つめまでを深く掘り下げる感じかな?」
「そうだな、多分そういうつもりで師匠も言ったんだろう」
「ねえこれって、もしかして組み手の強さまで関係するんじゃない!?」
「ああ、多分、この5時間で一回り強くなっているはずだ。昨日までの自分が恥ずかしく感じるほどだ」
「すごい……私はそこまでは感じなかった。カケルはもっと深いところまで行ってたんだね」
ござるとか、おこげとか、雑念が多すぎたせいだなあ。でも10日もあれば、私も深いところまで行ける気がする。5時間だけでも、自分がいままで考え至らなかったようなところまで考えられた。瞑想の正しいやり方は、心の中の問答なのね。自分の心に問いかけをすると、自分の心が正しいと思う答えを言ってくれる。これだけでもすっごい進歩! きっとこうやって深く考える癖がついたら、歩きながらでもいろいろなものに注意できるようになるはず。
そうしたら、小石が無いのに躓くなんてことはもうおさらばだ! きっと私にもできるようになる! 頑張れユリカー! でも、おなかがすいてはそれも無理ね。おなかがすいたら食べなくちゃ。農家の人やいろんな人、自然や動物、植物にも感謝しながら食べよう。
「とりあえずごはんだね」
「ああ、弁当作ってきてくれたんだな。ありがと。ユリカの弁当はうまいから楽しみだな」
「エヘヘ…半分お母様に手伝ってもらってるけどね…」
おいしそうに勢いよく頬張るカケルのためなら、このぐらい朝飯前ってことっす!