出生許可
通知が届いたのは、夕食の支度を始めるにはまだ少し早い、午後六時を回ったばかりの頃だった。窓の外には夏の名残を含んだ明るさがまだ残っていて、西へ傾き始めた陽が向かいの集合住宅の壁面を斜めに照らし、その照り返しが薄いカーテンを透かして部屋の中まで淡く差し込んでいた。
窓を少し開けていたせいで、通りを走る車の音が途切れずに聞こえ、ときおり遠くの交差点から信号機の電子音が風に乗って届き、その向こうではどこかの家庭が食器を片づけているらしい乾いた音まで混じっている。何ひとつ特別なことのない、いつもの夕方だった。
僕は台所で鍋の中の湯を見ながら、冷蔵庫から取り出した白菜をまな板の上に置いた。沸騰するにはまだ少し時間がかかりそうだったので、包丁を手に取ろうとしたところで、テーブルの上に伏せて置いていた端末が、短く一度だけ震えた。
画面に浮かんだ文字を見た瞬間、それが何の通知なのか分かってしまったからだった。
出生許可申請。
その六文字を見つめたまま、僕はしばらく動かなかった。
前回の申請から半年が経っていた。
妻はここ数週間、食卓に置いたカレンダーを何度か眺めていたし、僕自身も、朝起きたときや仕事から帰ったときに、あと何日なのかを無意識に数えていたから、もう十分に分かっていた。
本人確認を済ませると、画面が一度暗くなり、やがて白い背景の中央に行政機関のロゴが浮かび上がった。
胸の奥がわずかに強張り、いつの間にか息を止めていたことに気づいた僕は、喉の奥に引っかかっていた空気をゆっくりと吐き出してから、表示された通知へ指を触れた。
〈出生許可申請について、審査が完了しました〉
そこまで読んだところで、僕の指が止まった。以前なら、審査結果を確かめるためにすぐ続きを開いていたはずなのに、その日はなぜか先へ進めなかった。
画面には〈審査が完了しました〉という文字だけが残っている。たったそれだけの表示を前にして、僕は何度か指を動かしかけ、そのたびに止めた。結果はもう出ている。それなのに、そこへ触れることだけが妙に怖かった。
僕は一度だけ息を吐き、それから続きを開いた。
〈出生許可申請について、許可基準を満たさないと判定されました〉
読み終えたあと、僕はしばらく画面を見つめていた。
今回も許可されなかったという、それだけのことなのに、その事実を自分の人生に起きた出来事として受け止めるまでには、わずかな間が必要だった。
また駄目だった。
その言葉だけが、妙にはっきりと頭の中に残った。
僕は画面を閉じた。けれど、さっき読んだ文章は消えてくれず、「許可基準を満たさない」という言葉だけが頭の中に残った。そこには誰かを責める気配も、僕たちを拒む感情もない。ただ、決められた基準に照らして、僕たちの申請がそこから外れたことを告げているだけだった。
だからこそ、余計に腹立たしかった。
もし誰かに「あなたたちには子どもを持つ資格がない」と言われたのなら、まだ怒ることができた。相手を問い詰めることも、どうしてなのかと食い下がることもできる。けれど、画面に表示された文字には、怒りをぶつける相手になりそうな人間の気配がどこにもなかった。
僕はリビングの椅子に腰を下ろした。
台所では、火にかけた鍋の蓋が小さく震え、湯の中で昆布がゆっくりと揺れていた。そろそろ取り出さなければと思いながらも、僕はその場から動けずに、結局、鍋から立ち上る湯気をぼんやり眺めていた。
また半年。
その言葉だけが、頭の中に浮かんだ。
半年後には、もう一度申請できる。
出生許可が一度認められなかったからといって、以後の申請資格を失うわけではない。半年が経過すれば、再び申請することができる。地域の人口状況、年間の出生数、医療機関の余力、住宅供給、将来予測される社会保障需要などによって判定は変動するため、今回の結果が次回も同じになるとは限らない。
それが制度だった。
行政からも、何度もそう説明されてきた。
「今回が不許可だったからといって、将来まで不許可であるとは限りません。半年後には、再び申請していただけます」
僕は、その言葉を何度聞いたのか覚えていない。最初の申請のときは、それを素直に希望として受け取っていたし、二度目も、まだ妻と顔を見合わせて笑うことができた。三度目になった頃から少しずつ何かがおかしいと思い始め、それでも次があるのだからと自分に言い聞かせているうちに、いつしか申請した回数そのものを数えなくなっていた。
出生許可がなければ、子どもを持てないわけではない。
妊娠することを禁止されているわけでもなければ、許可を得ていない夫婦が出産することを国家が止めるわけでもない。出生許可がなくても、子どもを持つこと自体はできる。ただ、その選択をすれば、出産や育児に伴う一部の助成が減額され、住宅の優先措置なども受けられなくなる可能性があるため、僕たちはこれまで正式な手続きを踏むことにしていた。
僕は端末を伏せた。画面が見えなくなれば、そこに表示された不許可の文字まで消えてくれるような気がしたが、もちろんそんなことはなく、見えなくなったのはただ通知の光だけだった。
台所へ戻ると、鍋の中の湯はすっかり沸騰していた。火を止めて昆布を取り出し、鰹節をひとつかみ落とすと、薄茶色の花びらのようなそれが湯の中で縮みながら広がり、やがて鍋の底へゆっくり沈んでいった。
僕はまな板の上に残していた白菜へ包丁を入れた。刃が当たるたびに、ザクッ、ザクッと大きな音がして、そのたびに白菜の断面から水気が滲み出る。玉ねぎを切っているわけでもないのに、目頭が熱かった。
不意に結婚したばかりの頃のことを思い出す。
あの頃、僕たちは子どもがいる生活をまだ具体的には考えていなかった。
いつか子どもができればいい。
その程度の、輪郭の曖昧な願いだった。
妻が子どもを欲しがっていることは知っていたし、僕自身も子どもを嫌っていたわけではない。ただ、結婚したばかりの僕たちにとって、仕事を覚えることや新しい家での生活を整えることで精一杯だった。妊娠出産というイベントは自然に訪れるものだと信じていた。
妻は今日も、いつもと変わらない時間に帰ってくるだろう。玄関の鍵が回り、扉が開き、靴を脱いで鞄を置き、台所にいる僕の姿を見つければ、いつものように「何を作ってるの」と声をかけてくるに違いない。そんな何気ないやり取りを想像するだけで、胸の奥に重いものが沈んでいった。
その後、僕はこの通知について話さなければならない。その事実が、さっきまでよりもはっきりと僕の中へ入り込んできた。
そのとき、テーブルの上で端末が再び震えた。振り返ると、追加された行政通知の画面に、次回申請可能日と不許可世帯向けの支援制度が表示されている。
半年。
その間にも僕たちは年齢を重ね、妻の身体も時間の中に置かれたまま進んでいく。
玄関の鍵が回る音がして、続いて扉が開き、妻が帰ってきた気配が廊下の向こうから伝わってきた。いつもなら僕は「おかえり」と声を掛けながら鍋の様子を確かめるだけなのだが、その日は自分の声を出すことさえ妙に億劫で、火を弱めた味噌汁の鍋を見つめたまま、妻が靴を脱ぎ、鞄を置き、上着を掛ける一連の生活音を聞いていた。
「ただいま」
「おかえり」
ようやく返事をすると、妻は靴を脱いで鞄を置き、仕事で少し乱れた髪を耳へ掛けながら居間へ入ってきた。台所まで来ると鍋から立ち上る湯気を覗き込み、味噌の匂いを確かめるように鼻を動かしてから、こちらへ顔を向ける。
「今日は何?」
「白菜と鶏肉の味噌汁。鰆の西京焼き」
妻は鍋の中をもう一度覗き込み、小さく頷いた。
「いい匂い」
その笑顔を見た途端、さっきまで端末の画面に向けていた重苦しい気持ちが、今度は目の前にいる妻へ向かって移ってきたように感じられた。
「今日、通知来た?」
妻は冷蔵庫を開けたまま、こちらを見ずに尋ねた。
「来たよ」
「どうだった?」
振り返った妻の顔には、ほんのわずかな期待が残っていた。その表情を見てしまうと、僕は何か別の言葉を探したくなったが、結果を知っている以上、そこに余計な言葉を重ねることはできなかった。
「今回も駄目だった」
開け放された冷蔵庫から白い光が妻の横顔を照らしていた。妻はすぐには扉を閉めず、何かを取りに来たことさえ忘れたように、その場に立ったまま僕を見ている。やがてゆっくりと扉を押し戻すと、最後まで閉まりきるのを確かめるように手を添えた。
「……また?」
妻はそう呟いたあと、しばらく僕の顔を見ていたが、やがて視線を落とし、テーブルの上へ置かれていた端末を顎で示した。
「通知、見せて」
僕は端末を手に取り、画面を開いてから妻へ差し出した。妻は隣へ腰を寄せ、肩が触れそうな距離から表示された文字を追っていく。その横顔を見ていると、僕は自分が先ほど一人で読んだときとは違う緊張を覚えた。
〈出生許可申請について、許可基準を満たさないと判定されました〉
妻の視線が一行ずつ下へ移っていく。
やがて最後の文字まで読み終えたところで、妻は端末の画面を見つめたまま動かなくなった。何かを尋ねるでもなく、僕を責めるでもなく、ただそこに書かれた結果を受け入れようとしているように見えた。
「普通は通るんでしょう?」
妻が画面を見たまま言った。
「八割くらいは」
「じゃあ、私たちって少数派なんだ」
「そういうことになる」
「周りは、みんな子どもいるのにね」
その言葉には、責める響きがなかった。
だからこそ、何も言い返せなかった。
職場には、自分たちから子どもを望んだわけではない夫婦もいた。結婚して何年経っても二人暮らしを続けていたのに、ある日、行政から一通の案内が届いたという。人口の減少が著しい地域に住み、仕事も生活も安定していた夫婦だった。
〈お子さまを持つことについて、一度ご検討いただけませんか〉
子どもを望んでいる夫婦には許可を出し、望んでいない夫婦にも出生を勧める。人口が減り続ける社会では、それも行政にとって矛盾ではなかった。子どもが足りない。だから、産める家庭には産んでもらいたい。
僕はその仕組みを理解していた。だからこそ、自分たちが何度申請しても許可されないことが、余計に分からなかった。
「だったら、もう申請しないで産めばいいんじゃない?」
妻はそう言うと、僕の背後へそっと身体を寄せ、腰に腕を回した。服越しに伝わる体温と、仕事から帰ったばかりの髪に残る整髪料の匂いが近い。僕はその腕に手を重ねながら、こうして触れ合える距離にいる妻と、これから先も同じように暮らしていけるのかという考えを拭えなかった。
「許可を取っておけば、受けられる支援が多いから」
「子どものためなら、私たちが損をしてもいいんじゃない?」
妻の声には、少しだけ苛立ちが混じっていた。
「僕たちが損するっていうより、生まれた後の生活が変わるんだ」
「でも、生まれた子には医療も教育もあるんでしょう?」
「最低限は」
「だったら、その子が生まれること自体は問題ないじゃない」
その通りだった。
許可を待たずに子どもを持って、住宅や教育費のことまで含めて、十分な環境を用意できる自信が僕にはなかった。
「里親っていう方法もあるよね」
僕が言うと、妻は僕を見た。
「特別養子縁組制度もある」
「うん。知ってる」
妻は返事をせず、ゆっくりと僕に回していた手を引いた。
その仕草を見ているうちに、これ以上何かを言えば、取り返しのつかないことになりそうな気がして、僕も黙った。
国家にとっては、血のつながりより、子どもを安定して育てられる家庭があることの方が重要なのだろう。その考え方は、僕にも理解できた。親を必要としている子どもがいて、育てたい家庭があるなら、そこを結びつけることに合理性はある。
それでも妻は首を横に振った。
「私は、それが欲しいんじゃない」
僕にも、その意味は分かっていた。
それでも僕が欲しかったのは、妻と僕の間に生まれる子どもだった。
妻はリビングの椅子に腰掛け、黙ってテレビをつけた。
夜のニュースの音声と、換気扇の回る音、鍋の中で汁が静かに揺れる音に混じって、妻が鼻を啜る音が聞こえた。
窓の外は、いつの間にか薄暗くなっていた。僕は黙ってグリルで魚を焼き始め、しばらくすると、テーブルの向こうから妻の声がした。
「ねえ」
「何?」
「私たち、何か問題があるのかな」
その問いに、僕はすぐ答えられなかった。これまで何度も行政から届いた通知を見てきたのに、僕たち自身について疑ったことはなかった。
二人とも真面目に働き、生活に困窮しているわけでもなく、犯罪に関わったこともない。
少なくとも、自分たちは特別に恵まれているわけではないにしても、出生許可を申請することを躊躇するような家庭ではないはずだ。
それなのに、出生許可申請のおよそ八割が許可される社会で、僕たちの申請だけは何度出しても通らない。
審査結果には、〈総合的な社会的支援需要を考慮した結果〉という定型的な説明が添えられているだけで、どの項目が判定に影響したのかは示されない。問い合わせても、複数の統計情報を用いて総合的に判断しているとしか教えられなかった。
自分たちに問題がないのなら、いったい何が判定を左右しているのか。
その考えが浮かんだ瞬間、頭の中に、自分では意識していなかった記憶がいくつか蘇った。父のこと、母のこと、祖父母のこと、親戚の中にいた人たちのことまで、普段なら自分の生活とは切り離して考えている名前や顔が、暗い水の底からゆっくり浮かび上がってくる。
妻も同じことを考えたのかもしれない。
僕が顔を上げると、妻もこちらを見ていた。
目が合った瞬間、どちらも何も言わなかった。けれど、その沈黙の中には、さっきまで存在しなかった問いがあった。
――自分たちではなく、家族の誰かに理由があるのではないか。
こんなこと気安く言えるものではない。しかし、その考えが一度浮かんでしまえば、もう以前のように何も知らないままではいられなかった。
その夜、僕たちは家族について話した。けれど、話せば話すほど、分からないことばかりが増えていった。
僕たちは、それまで詳しく知らなかった親族のことを、思い出せる範囲で口にした。
遡れば、病気をしていた親戚がいた。長く働けなかった人や、公的扶助を受けていた人についても、子どもの頃に親から何気なく聞かされた覚えがある。けれど、どれも自分で確かめたことではなかった。いつ頃の話だったのか、どんな病気だったのか、なぜ働けなくなったのか、訊かれても僕たちには答えられない。昔の家族の会話に紛れていた断片が、記憶の底に曖昧なまま残っているだけだった。
「もうやめよう。調べたところで、どれが今回の判定に関係しているのかなんて僕たちには分からないし、病気になった人や生活に困った人を見つけて、その人のせいで僕たちが子どもを持てないんだと考えるのも違うと思う」
妻はしばらく黙っていた。
「でも、私は知りたい。何も分からないまま、ただ私たちに問題があると言われているような状態で、次の申請まで半年待つなんて嫌なの」
「僕も知りたいよ。でも、誰か一人を見つけて、この人のせいだって言えるわけじゃない」
妻の顔から、わずかに表情が消えた。ただ、今まで縋っていたものを一つ失ったような、途方に暮れた表情だった。
「……じゃあ、私たちはどうすればいいの?」
その声を聞いて、僕は答えられなかった。
僕たちは原因を探しているようで、本当は責任を負わせる相手を探しているのかもしれない。そうでもしなければ、目の前にある結果を自分たちのこととして受け入れるしかなくなってしまうからだった。
誰かのせいなら怒ることができるし、制度のせいなら抗議することもできる。けれど、誰にも明確な責任がなく、ただ社会全体を維持するための計算によって僕たちの望んだ未来が選ばれなかったのだとしたら、僕たちはその理不尽さを誰にも返すことができない。
病気になった親族のせいでもない。生活に困った人のせいでもない。僕たちを審査した職員のせいでもなく、制度を作った誰か一人のせいでもない。人口が減り、医療や住宅や福祉に使える資源にも限りがある以上、出生を一定の基準で調整しようとする行政の判断には、それなりの理由があることも分かっている。
分かっている。
だからこそ、僕は怒りを向ける場所を失っていた。
僕たちは何も悪いことをしていない。なのに、僕たちの望んだ未来は選ばれなかった。それはあまりにも理不尽だった。
翌日、僕は仕事を休み、行政機関へ向かった。
受付端末から出生許可について問い合わせると、相談室に案内された。相談室には、行政対応機が一体置かれていた。
「今回、どうして不許可になったんですか」
「申請内容を審査した結果、今回の出生許可の基準を満たさないと判定されました」
答えになっているようで、何も答えていない。僕は一度息を吐き、もう一度尋ねた。
「だから、その審査で何が問題だったのか聞いてるんです」
「審査に用いられた情報には、申請者本人以外の個人情報が含まれています」
その言葉に、僕は少しだけ眉を寄せた。
「……誰の情報ですか」
「申請者本人以外の個人情報については、本人の同意なく開示することはできません」
そこで初めて、僕の頭に両親の顔が浮かんだ。
「僕たちは二人とも働いています。生活にも問題はないし、犯罪歴もありません。どうして駄目なんですか」
「申請者本人の情報だけでは、判定理由を特定することはできません」
胸の奥がざわついた。
「じゃあ……僕たちの親族の情報も見てるってことですか」
「審査には、申請者本人以外の情報が含まれる場合があります」
僕は言葉を失った。
「誰の、どんな情報なのか教えてくれ」
「個人情報保護上、開示できません」
両親のことが頭に浮かんだ。祖父母や、ほとんど会ったことのない親戚の顔まで、記憶の底から引き出されてくる。
「……人を出してくれよ」
「担当者による対応を希望されていることは確認しました」
「だったら呼んでくれ」
「担当者を介した説明では、申請者によって説明や対応に差が生じる可能性があります。そのため、出生許可に関する結果の通知および説明は、原則として統一された行政対応システムが行います」
「そんなことはどうでもいい。僕は人と話がしたいんだ」
「ご希望は理解しています。ただし、審査結果の公平性を維持するため、人間の担当者による個別説明は行っていません」
「どうしてもかよ」
「はい。担当者を呼んでも、回答は変わりません」
僕は行政対応機を睨んだ。
「じゃあ、何を聞いても同じなのか!」
声を荒らげても、目の前の顔には何の変化もなかった。その無反応さが、余計に腹立たしかった。
「はい。今回の申請は、審査された結果です」
それ以上、何を聞いても答えは変わらなかった。僕は行政対応機の前を離れ、家へ戻った。
妻は台所に立っていた。玄関を開けた音に気づいて振り返り、「おかえり」と言った声はいつもと変わらなかった。僕も「ただいま」と返したが、その先の言葉が続かない。鞄を置き、上着を脱ぎ、手を洗う。いつもと変わらない動作を繰り返しながら、僕は何から話せばいいのか考えていた。
家族歴についても、僕たちの知らない親族の記録が審査に含まれる可能性についても、担当者を呼ぶことを求めたことも話した。けれど、説明を重ねるほど、何も分からなかったという事実だけがはっきりしていく。
調理をしながら、妻は黙って聞いていた。鍋の火を弱め、調味料を足す。手だけが、いつもと変わらず動いていた。出汁の香りに甘辛い匂いが重なり、やがて部屋いっぱいに広がっていった。
「あなたは、子どもが欲しい?」
突然、妻が尋ねた。鍋から目を離さないまま、こちらを見ようともしなかった。
「欲しいよ」
僕が返事をすると、妻は小さく頷いた。
「だったら、私と別れてくれない?」
その言葉が何を意味しているのか理解するまで、少し時間がかかった。
「私と一緒にいる限り、あなたは子どもを持てないかもしれない。半年ごとに申請を続けたとしても、私たちは歳を取っていくし、いつか本当に時間がなくなるかもしれない。もし私じゃなかったら、あなたは子どもを持てるのかもしれないじゃない」
妻の声は静かだった。
だからこそ、僕には余計に苦しかった。
「あなたの可能性をなくしたくないの」
その言葉のあと、妻は黙った。
「僕は君が好きで結婚したんだ。君と人生を歩みたいんだ」
僕は背後から妻を抱きしめた。
妻はしばらく動かなかった。やがて、僕の腕にそっと手を重ねた。
「僕は、子どもを持つために君と結婚したんじゃない。君と一緒に生きたいと思ったから結婚したんだ」
妻は俯いたまま肩を震わせていた。声を押し殺すように唇を結び、その頬を涙が一粒だけ伝っていく。
僕たちは、鍋の煮物が冷え切るまで二人で泣いた。
これまでなら、どちらかが落ち込めば、もう一人が支えてきた。
その夜だけは、それができなかった。
僕たちは何も悪いことをしていない。
それでも、僕たち自身の努力とは関係のない家族の記録まで、まだ生まれてもいない子どもの未来を計算する材料になっているのではないかと思うと、自分たちが積み重ねてきたものなど何の意味もないように感じられた。
不公平だと叫ぶことはできても、この制度が間違っているとは言い切れなかった。
そのことが、何より苦しかった。
黙って食事を摂り、いつもと変わらない時間にベッドへ入った。隣では妻が背を向けたまま眠っている。僕はしばらくその寝顔を見つめていたが、やがて、妻と初めて出会った日のことを思い出していた。
あの日、僕たちはまだ、自分たちの子どもを持つことが、いつか国の許可を必要とする未来になるなんて知らなかった。
あの頃の僕たちは、好きになった人と一緒に暮らし、そのうち子どもが生まれ、何年か経てば家族が増えていくのだと、そんな未来を疑いもせずに思い描いていた。
もし、あの日に誰かが教えてくれていたら。人を愛することの先に、子どもを持つことまで国に審査される時代が来るのだと知っていたら、それでも僕は、あの日と同じように妻を愛したのだろうか。
——それでも僕は、妻を好きになっただろうか。
その答えだけが、余計にわからなくなった。
『出生許可』を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
もし、自分がこれから歩む人生の結末を、最初から知っていたとしたら。
それでも、同じ人を愛することができるでしょうか。
結末を知っていたら、僕は君を愛せただろうか。
この問いを、読後に少しだけ残していただければ幸いです。
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