ふりぬる音
ご覧いただきありがとうございます。
ふと耳にした笛の音から一つ情景が浮かび、この物語を書き留めました。
今作は、古の雅な雰囲気を大切にするため、全編擬古文(古文風)の形式で執筆いたしました。
少し言葉が難しい部分もあるかと思いますが、物語の「音色」や「空気感」を感じていただければ嬉しいです。
※あとがきに、現代語でのあらすじを掲載しております。
京のほとり嵯峨に、人目を避けて静かに住み給ふ貴き御方ありけり。
さるやんごとなき御方の上のゆかりとて、さるべき宿世ありて世を厭ひおはします身なれば、名をば仮に嵯峨の御方とぞ聞こえける。心ばへ優雅に、笛の音をこよなく愛で給ふ御方にて、その音色に誘はれ、里人は密やかに「笛の君」と呼び奉りけり。
ある春の宵、御方の奏で給ふ笛の音に、一人の女、心惑ひにけり。近き社の祝の娘にて、名をば小夜とぞいひける。小夜、その御姿をば見たてまつらざりけれど、哀れなる音色に、えも言はぬ思ひを寄せにけり。
この女、夜ごとに御住処の傍らなる桜の木の下に立ちて、その笛の音に聞き居たるを常としけり。春は花散りまがふ中にも、冬は雪降り積もる深き夜にも、ただひたすらに、君の音色を恋ひ慕ひけり。
御方もまた、夜ごとに、同じ気配をあやしく思しけるに、「もしや、この寂しき音色に、心を留むる人やあるらむ」と、密やかに思し乱れ給ふ。
野分の過ぎにし後、月明かりのいみじく差し入りたるに、御方、いつもの桜の木の下へ歩み出で給ふ。見れば、露に濡れそぼりたる衣姿の女、そこに立ちて侍りけり。
「夜な夜な、この音色に耳を傾け給ふはそなたか」
御方、優しく問いかけ給へば、女、いと恥じらひて、
「恐れ多きことなれど、君の笛の音を、暗き夜の標として侍りつ」
と、冴えたる声にて聞こゆ。御方、いといたう心を打たれ給ひて、互いの清らなる心根に触れ、深く睦び合ひにけり。
されど、身のほどの隔たり、いとわりなければ、添ひ遂ぐべきよすがもなし。
通ふ道だになき仲なれば、ただ笛の音をのみ通はして、年月をぞ重ね給ひける。寄る辺なき御心に、秋の夕暮れ、冬の嵐などは、いとど身に沁みて思し乱る。
ある年の冬、女、例ならずあつしくなりゆくを、日増しに弱りゆきける。その手を取りて、御方、涙ながらに笛を奏で給ふ。女、その音色を限りの慰めとして、
「後の世にも、同じ蓮の台にて……」
と、かすかなる声に聞こえおきて、露と消えにけり。
御方、深く嘆き悲しみ給ひ、小夜の亡き後も、夜な夜な、桜の木の下で笛を吹き続け給ふ。いつしか、御方も姿を消し給ひて、残された桜の木は、春になるたび、いみじう花を咲かせるやうになりぬ。
限りなき思ひは花の散るごとく消えにし人の偲ばるるかな
散り紛ふ花びらの、行くへも知らぬ二人の心やと、今に語り伝へけるとかや。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
結ばれぬ運命にありながら、音色だけで通じ合った二人の心。
その結末が単なる悲劇ではなく、春に咲き誇る桜のように、どこか救いのあるものとして皆様の心に残ればこれ以上の喜びはありません。
【物語のあらすじ】
嵯峨に隠れ住む高貴な「笛の君」と、その調べに恋をした娘・小夜。
直接会うことは叶わずとも、二人は夜ごとの笛の音を通じて深く心を通わせます。
やがて訪れる死別。来世での再会を願い、露と消えた小夜。
――残された桜の木が、春ごとに美しく咲き誇るのは、今も二人の想いがそこに息づいているからかもしれません。




