第一話見知らぬ身体、見知らぬ運命
ピーポー、ピーポー――。
鼓膜を容赦なく突き刺すような救急車のサイレンが、耳元で亡霊のようにいつまでも響いていた。鼻を突くツンとした消毒液の匂いと、むせ返るような鉄錆に似た血の臭い。三十代前半、外科専門医として五年目を迎えていた私――朝比奈絵理の日常は、常に生と死の薄い境界線の上に立たされていた。
今日も丸々十二時間を超える大手術を終えたばかりだった。未熟なアシスタントの致命的なミスを必死にカバーしながら、破裂した血管を一本一本、寸分の狂いもなくクランプし、縫い合わせていく。その過酷な作業の連続で、私の神経はすでにボロボロにすり減っていた。
ようやく手術用グローブを外したときには、指先の感覚などとっくに失われていた。汗でびっしょりと濡れ、顔に張り付いたマスクの中は息が詰まりそうで、吐き気さえ催すほどだった。やっとの思いで病院の白い建物を抜け出し、帰路についたものの、私の身体はもう自分の意志では制御できないほど限界を迎えていた。
「……眠すぎて死にそう。マジで」
ハンドルを握る指先が、自分の意思に反して微かに、しかし絶え間なく震えている。窓を全開にして、明け方の刺すような冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んでみた。しかし、手術室の張り詰めた緊張が抜けた後に押し寄せてきたのは、逃れようのない、波のような強烈な睡魔だった。
まぶたの上に、重い鉛でも乗せられたかのようだ。ほんの一瞬、たった一秒だけ目を閉じたい――そう願ってしまった、その刹那だった。
カッ――!
強烈なヘッドライトの光がフロントガラスを突き抜け、私の視界を真っ白に焼き尽くした。中央線を大きくはみ出し、狂ったようなスピードで突っ込んでくる大型トラック。巨大な鉄の怪物のようなシルエットが私を視界ごと覆い尽くす瞬間、世界がスローモーションのように引き延ばされた。
本能が叫び、ハンドルを切り、ブレーキを底まで踏み込む。タイヤが悲鳴を上げてアスファルトを激しく削ったが、あの巨大な質量の塊を止めるには、あまりにも時間が足りなかった。
ドンッ!!
全身が紙くずみたいにひしゃげ、押し潰される衝撃。強化ガラスの破片が肌の奥深くまで食い込む感覚すら、まともに味わう暇はなかった。熱い鮮血が口の中いっぱいに溢れ出す。車体がひどく軋み、金属が断末魔のような悲鳴を上げる音が響き渡り、私の世界は一瞬で裏返った。
意識が朦朧とし、遠のいていく中でも、染み付いた職業的本能が脳裏に最後の診断を下していた。
(多発性臓器損傷、急性大量出血……これは、蘇生可能性ゼロだわ)
一日十八時間を手術室という密室で過ごしてきた。恋愛はおろか、まともな休暇も取らず、ただ「目の前の人を救う」という一念だけで耐え抜いてきた五年間だった。それなのに、自分自身の最期の瞬間は、誰の手も届かない冷たくて硬いアスファルトの上だなんて――たまらなく、悔しかった。
(……後悔しか、残らないな)
視界が完全に暗転した。周囲の悲鳴も、遠くのサイレンも次第に遠ざかり、私の意識は底の見えない深い、深い闇へと沈んでいった。
◇ ◇ ◇
ザバァッ!
「お嬢様! しっかりしてください、お嬢様!」
突然、氷のような冷たさが顔面を直撃した。意識がハッと強制的に覚醒する。私は激しく咳き込みながら、必死に目を開けた。肺に吸い込んだ空気からは、あの嫌な消毒液の匂いの代わりに、ほのかな薔薇の香りと、名も知らぬ森の清々しい匂いが混じっていた。
……おかしい。先ほどまでアスファルトに押し潰されていたはずの身体が、不思議なほどに軽い。私はぼんやりとした頭で首を巡らせ、周囲を見回した。
そこには、アンティーク調の重厚な家具と、眩いばかりの金箔で装飾された豪華な客室が広がっていた。そして私の目の前には、華やかなレースを幾重にもあしらったドレスを着た少女が、今にも泣き出しそうな顔で立ち尽くしている。まるで、大掛かりな時代劇のセットでしか見られないような光景。
「まあ、よかった! お嬢様、お加減はいかがですか? 狩場の入り口で突然倒れられて、どれほど驚いたことか!」
少女の声は確かに聞こえたが、私はすぐに答えることができなかった。私の視線は、部屋の片隅に置かれた大きな姿見に釘付けになっていたからだ。鏡の中に映り込んだ「私」の顔と目が合った瞬間、私は息を呑んだ。
(……誰、これ)
鏡の中にいたのは、度を越して美しい女だった。漆黒の髪は絹のように艶やかで、透き通るような白い肌は、まるで焼きたての磁器を思わせる。何より、人のものとは思えないほど傲慢な光を宿した、血のように赤い瞳。私が三十年以上、鏡を通して向き合ってきた「朝比奈絵理」の面影は、一パーセントたりとも残っていなかった。
それと同時に、見知らぬ記憶が濁流のように押し寄せ、私の脳を侵食し始めた。脳細胞の一つ一つに、無理やり情報を叩き込まれるような激しい痛み。その混乱の後に、一つの名前が浮かび上がった。
(イザベラ・ド・ローエン……)
私は呆然とした。その名前は、数日前の夜勤中に暇を見つけては読んでいたロマンスファンタジー小説『黒薔薇の公爵』に登場する、救いようのない最悪の悪女だった。男主人公であるカイラン公爵に病的なまでに執着した挙句、自らの家門を没落に追い込み、最後には処刑台でその生涯を終える哀れな脇役。読者からは「胸糞悪女」と呼ばれ、ありとあらゆる罵倒を浴びていた、あの惨めな存在が――今の私だった。
指先に感じるドレスの滑らかな触感。顔に残る冷たい水滴。そして、鮮明に脳裏を掠める原作の知識。そのすべてが、これが夢などではなく、逃れられない残酷な現実であることを突きつけていた。
(絶対に嫌。こんなところで無駄死にするために、あんな思いをしてまで医者になったんじゃない)
私は濡れた顔を力強く袖で拭いながら、勢いよく立ち上がった。
「私……ちょっと散歩してくる。頭を整理したいの。ついてこないで」
侍女の必死の制止を振り切り、私は森の小道へと駆け出した。とにかく、カイラン公爵と出会うあの「運命の瞬間」さえ避ければ、イザベラの破滅ルートは回避できるはずだ。そう信じて、がむしゃらに走った。
だが、運命は私を嘲笑うかのように、最も深い泥沼へと突き落としてきた。
ドドドドドッ――!
地面を激しく揺らす馬蹄の音が、森の向こうから響いてきた。生い茂った茂みの間から、黒いマントを翻し、銀髪を振り乱した男が姿を現した。氷のように冷たい青い瞳が、私の視線と空中で鋭く絡み合う。
(カイラン・ド・ベルンハルト……!)
小説の男主人公にして、北部の冷酷な支配者。通称、冷血公爵。彼が馬上でバランスを崩して大きくよろめき、やがて地面に叩きつけられた。主を失った馬が荒々しく嘶きながら森の奥へ駆け去り、男は乾いた落ち葉の上に崩れ落ちた。黒いマントの下から、どす黒い血が恐ろしい勢いで滲み出し、地面を染めていく。彼の右腹部には、真っ黒な矢が一本、深々と突き刺さっていた。
「……治療しなきゃ」
気づけば、私は身体を動かしていた。遅れて駆けつけた騎士たちが剣を抜き、殺気立った視線が私を射抜く。
「止まれ! ローエン家の令嬢がなぜここに! まさか貴様、公爵様を暗殺しようと待ち伏せしていたのか!」
「どいてください! 今、そんなくだらないことを言っている場合じゃないでしょう!」
私は本能のままに駆け寄った。騎士たちが立ちはだかったが、私の目はすでに「医師・朝比奈絵理」のものに完全に切り替わっていた。そこには、怯えた悪女の姿など微塵もなかった。
「処置をしなきゃ死ぬわ! 私が……私がこの傷を治せるって言ってるんです!」
「何を戯言を! 社交界の毒婦がいつから医術を学んだというのだ! 今すぐ下がれ、さもなくば斬り捨てるぞ!」
騎士の剣先が私の首筋すれすれまで迫った。だが、私は瞬きひとつしなかった。今まで手術室で浴びてきた、あの極限のプレッシャーに比べれば、この程度の脅しなど何の意味も持たなかった。
「じゃあ、このまま死なせるつもり!? 彼の出血を見てよ! 下大静脈に損傷があれば、五分以内にショック死するわよ! どいて、早く!!」
私の凄まじい一喝に、騎士たちが圧倒されたようにたじろいで道を開けた。地面に倒れたカイランが、苦痛に喘ぎながらかろうじて目を開ける。血に濡れた視界の中でも、彼は私を射抜くように見つめていた。
「……下がれ。……まずは、生かせ」
低く、冷たく、しかし死の淵を彷徨う者の掠れた声。その許可が下りると、騎士たちは当惑を隠せないまま渋々剣を収めた。
私はすぐさま彼の傍らに膝をついた。手のひらに伝わる、熱くて湿った生々しい感触。矢は腹膜を貫き、肝臓の近くまで達しているようだった。
(矢が肝実質を掠めてる……。下大静脈損傷の可能性は排除できない。このままだと、ハイポボレミックショック(低血圧性ショック)で死亡だわ)
現代医学のデータが脳内を駆け巡り、手術室で培ったあの冷静で明晰な平常心が、私の指先に宿った。私は躊躇なくドレスの豪華な裾をたくし上げた。邪魔な上層の下にある、比較的清潔なリネンの下着を手当たり次第に荒々しく引き裂く。
ビリィィッ!
絹が裂ける鋭い音が静寂を破ったが、そんなことを気にする余裕はなかった。私はその布の塊をカイランの傷口に強く当て、全体重をかけて圧迫止血を試みた。
「うぐっ……!」
カイランが苦痛に身体を震わせた。私は彼の肩を力強く押さえつけながら、至近距離で目を合わせた。
「痛いと思うけど、我慢して。この手を離したら、あなた本当に死ぬわ。……そして、私も死ぬ」
カイランの青い瞳が、激痛の中でも疑念と驚き、そして私が原作では一度も見たことのない、奇妙な執着を孕んだ眼差しで私を貫いた。私はそれを無視し、即席の止血帯を作って出血部位の上部を固く結紮した。汗が雨のように流れて目元を覆ったが、拭う暇さえ惜しかった。
騎士たちは、私の無駄のない手つきに魅入られたように見つめ、息をすることさえ忘れていた。社交界の「毒草」と呼ばれていた女が、血まみれになりながら、なりふり構わず人を救おうと必死になっている姿は、信じられないほどに神聖で、崇高に見えた。
出血が、目に見えて減っていく。ひとまず、最悪の危機は乗り越えた。私はようやく安堵し、肺の中の空気をすべて吐き出すように長い溜息をついた。私の豪華なドレスは、すでに鮮やかな赤色でめちゃくちゃに染まっていた。
「公爵様……脈拍が安定してきています! 奇跡だ……!」
騎士たちの歓声が森に響き渡る。私はへなへなとその場に座り込んだ。救わなければという執念が薄れると、心臓が今さらのように激しく警鐘を鳴らし始めた。
(助けた。とりあえず、この男を救った。彼を救えば、私の運命も……イザベラの運命も、変えられるはず)
その時だった。カイランが震える手を伸ばし、私の顎を強引に掴み上げた。血に汚れた彼の指が、私の白い肌に赤い跡を残す。氷のように冷たくて鋭い視線が、私の顔の隅々を探り、その奥にある真実を暴き出そうとしていた。
「イザベラ・ド・ローエン」
低く深い、金属的な響きを帯びた声が、森の静寂を切り裂いた。
「……貴様は、一体何者だ」
疑念、好奇心、そして私が原作では一度も見たことがない、見知らぬ所有欲が入り混じった声。私は息を呑んだ。
ここからが、本当の始まりだ。現代の外科医・朝比奈絵理が、この狂った公爵の城で生き残り、運命を切り拓くための――壮絶で、甘美な治療の序幕が、今ここに上がった。
(第一話完)




