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【ハイファンタジー 西洋・中世】

解放の天使

作者: 小雨川蛙

 

 ある日。

 苦しみ、悩み、そして心が裂けそうなほどの慟哭をあげていた青年の下に悪魔が現れた。

「ごきげんよう」

 声をかけられても青年は中々来客には気づかなかった。

 何せ、自分を六畳ほどの小さなアトリエに閉じ込めていたから。

「君は?」

 ぶっきらぼうに尋ねる青年へ悪魔は答えた。

「悪魔です。あなたを誘惑に来ました」

「どうやって入ったんだ?」

 そう言って青年はちらりと扉の方を見る。

 外と繋がる扉には内側から幾つもの板を打ち付けていた。

 外側から出るにしろ、内側から出るにしろ、ここを出るには相当な労力をかけなければならない。

「私は人間ではありませんからね。この程度の壁は壁になりません」

「そうかい」

 会話をしながら悪魔はちらりと床に転がるカビが生えたパンと水を見た。

 青年は画家だった。

 残念ながら才能はなかったが熱意だけは誰にも負けなかった。

 彼は傑作を描くために、作品と向き合うために自らをアトリエに閉じ込めたのだ。

「随分と苦労されておりますね」

 そういって、悪魔はキャンパスを覗き込んだ。

 しかし、それが『何であるのか』は永い時を生きる悪魔でさえ分からなかった。

「これは一体?」

 自然な声色で悪魔が尋ねると青年はぶっきらぼうに言った。

「うるさいな。僕にだって分からないさ」

 青年はさめざめと泣いていた。

 肌の色さえも分からないほどに絵の具にまみれた衣服に色のない涙がぽたぽたと落ちていく。

 悪魔はやや迷った後にハンカチを取り出すと青年の頬を拭った。

「努力なさったのですね」

「あぁ。きっと、誰よりも」

 幼い子供が母親にされているように、青年は悪魔に涙を拭かれることに身を任せていた。

 涙は中々止まらなかった。

「努力して、努力して、努力し続けたんだ。それなのに、僕には才能がない」

 体も、言葉も、息も、その全てが震えていた。

「僕よりもずっと幼い奴らが成功した。僕よりもずっと努力をしていない奴らが評価された。僕よりもずっと苦しんでいない奴らが世に出ているんだ」

「それが才能というものです」

「うるさいな。分かってるよ。お前なんかに言われなくたって!」

 言葉と共に悪魔は突き飛ばされ、その体は様々な色の絵の具で無秩序に汚れた。

 直後、感情に支配されてしまった青年はすぐに気を取り直し慌てて悪魔に近づき起き上がるのを手伝った。

「ごめん」

「いいえ。お気になさらず。どうせ私はろくな存在じゃありませんからね」

 統一感のある黒い姿が見るも無残になりながらも悪魔は改めて青年に告げた。

「さて、改めまして……私は悪魔です。あなたを誘惑しにきました」

「誘惑?」

「ええ。私の誘惑に乗ればあなたは一つの大きな苦しみから解放されます」

 青年はやや間を置いてから問う。

「その誘惑に乗らなかったらどうなるんだい」

「別に何も。私はただこの場所から去るのみです」

「それじゃ、大きな苦しみってのはなんだよ」

「それはあなた自身が一番良く分かっているのではありませんか?」

 アトリエの中に広がる絵の具の臭いが強くなったように青年には感じた。

 あぁ、そうだ。

 今、自分はとても苦しんでいる。

 大好きだったはずのことが大嫌いになるほどに。

 もう叫んで、暴れて、全てを終えてしまいたいほどに!

 故に青年はあっさりと尋ねていた。

「何を差し出せばいいんだ?」

 この閉塞感から抜け出せるならなんでもよかったのだ。

 それを理解しつくしている悪魔は意図の取れない一礼をした後に答えた。

「あなたの最も大切なものです」

「大切なものってなんだよ」

 青年が乗ってきたことに悪魔は複雑な思いのままほくそえんで言った。

「あなたの大切なもの、それは……」


 五十年以上経ったある日。

 もうすっかりと年老いたあの青年の下にまたしても悪魔が訪れた。

「ごきげんよう」

 悪魔に気づいて老人は手に持っていたスケッチ帳をテーブルの上に置く。

「何の用だ」

「いえ。特に用事はありません。たまたま近くを通りかかったもので」

「なるほど。僕と同じように誰かを食い物にしてきたんだな」

「ええ」

 蔑むような言葉であったが老人の声は温かく、肯定する言葉でありながらも悪魔の声は低く暗かった。

 老人は微かに微笑むと悪魔に手招きをした。

「これは風景画ですか」

「あぁ。この窓から見えるだろう?」

 そう言って老人は窓の先を指さす。

 そこには確かにスケッチ帳に描かれた風景があった。

 しかし。

「やはり下手ですね」

 悪魔の声に老人は笑う。

「嫌な奴だな。お前は」

 悪魔と老人はしばらくの間、無言で外を眺めていたが、やがて窓の向こうから老女と若い男女、そして幼子が歩いてきたのが見えた。

「妻と娘夫婦。そして孫だ」

「ええ。存じております」

 悪魔の相槌に老人もまた頷き返すと、一瞬の間を置いて言葉を紡ぐ。

「お前の誘惑に負けて手放した夢と引き換えに得たものだ」

 そう。

 五十年以上も前に悪魔が誘惑したものは夢を追う苦しみからの解放。

 そして、その代償として求めたのは老人が追っていた夢そのものだった。

「今でも後悔することがある。あのまま夢を追うべきだったのではないかと」

 悪魔は無言のまま踵を返す。

 直に老人の家族がここに来る。

 悪魔が会いたかったのは老人だけで他の人間に会うつもりなどなかった。

 淡々とした足音を立てて自分から去っていく悪魔に向けて老人は言った。

「暖炉の上を見てくれ」

 足を止めて悪魔はそちらを見やる。

 そして、僅かな間、悪魔は思わず息を止めてしまった。

「僕の最高傑作さ。題は『解放』だ」

 飾られていた絵はあの日、青年が夢を諦めた時に描かれていた『何か』だった。

「やはり、あなたには才能がない」

 ぽつりと呟き悪魔はその場を去る。

 最早その場に居ないことを知りながら老人は呟く。

「知っているさ。誰よりもな」


 暖炉の上には悪魔と全く同じ顔を持つ天使が優しく微笑む絵画が飾られていた。

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