クビにしたいのに、侍従がわたくしから離れない
「ディオン、今日でクビよ」
わたくし、フィリドール王国第一王女クラリス・フィリドールは、すぐ側に控えるデュオンを睨みつけた。
デュオン・サヴァティエは、サヴァティエ侯爵家の次男、わたくしの侍従だ。
二十歳という若さにも関わらず、豊富な知識に隅々まで気配りできる有能さ。加えて、艶やかな黒髪に涼やかな顔、スラリとした立ち姿……と見目も良い。
そんな彼は幼い頃から十数年、我儘で高慢な王女であるわたくしに仕えてくれている。どんな時も何があっても、顔色ひとつ変えず主を優先する忠誠心溢れた男ではあった。けれど。
「クビ? なぜですかクラリス殿下」
「だってデュオン、またやったのでしょう?」
「また、とは?」
「とぼけないで下さる? これを見てもまだシラを切るつもり?」
わたくしはデュオンの前に傷んだ花束を突き出した。所々焦げ落ち、灰にまみれた薔薇の花束だ。
これは先日、我が国へ外遊に来た隣国の王子から手渡されたプレゼントだった。
両手では抱えきれないほどの美しい薔薇はひとまずデュオンに預けられ、そのうち私の部屋へ飾られる予定であった。しかしいつまでも飾られることがないと思っていたら、今朝、暖炉の中で変わり果てた姿となった花束が侍女によって発見されたのである。
「これはこれは。あの下心剥き出しの男が懲りずに持ってきた薔薇ですね。まだ残っていたとは」
「あのかたは隣国の王子ですのよ。その言い方おやめなさい」
「こちら、姫様には不要なものですので処分したまでです。それがなにか?」
デュオンは相変わらず悪びれることなく花束を受け取ると、わたくしの目の前で再び暖炉へと投げ捨ててしまった。
パチパチとはぜる暖炉に投げ込まれた花束は、今度こそ真っ黒に燃え尽きる。
「あ、あなたね……! せっかく人から頂いた花束をなんだと思っているの!」
「何を仰るのです。花束を飾ってしまえば、姫様は見るたび奴のことを思い出すでしょう。あの男はそのことまで計算済みで花束を寄越したのです。なんと図々しい……」
「あの方はわたくしの婚約者候補でしたのよ! デュオンが邪魔ばかりするから、また縁談が無くなってしまったではないの!」
花束を暖炉にくべただけではない。
デュオンは侍従の分際で隣国王子との会話にも度々口を挟み、早く国へ帰れとでも言わんばかりにネチネチと嫌味をこぼし、王子が城を去ったあとは忌々しげにその後ろ姿を睨みつけた。すべて、敵意を剥き出しにして。
さらに言うならば、このようなことは一度や二度ではなかった。
隣国の王子が来るたびに、デュオンはこうしてそばに張り付き、二人きりの時間を妨害した。そばでべったりと監視して王子を威嚇し、花束など貰おうものなら目の前で淡々と処分して――主であるわたくしの制止を聞くことも無く。
「あなたのように無礼な侍従は、もうそばにおいて置けないわ」
「ご冗談を。これまでずっとおそばに置いて下さったではありませんか」
「今回ばかりは本気よ。わたくし、もう我慢の限界なの。クビよクビ。今日にでも荷物をまとめて、私の前から消えて頂戴」
「嫌ですよ。私はここを離れません」
「我儘言わないで。わたくしはあなたの主よ。たとえ一方的であったとしても、わたくしにはデュオンを解雇する権利があるの。もうあなたをここに置いておくつもりは無いわ。だから――」
「――クラリス殿下。私を城から逃がそうとしていらっしゃるのでしょう」
「え」
デュオンの言葉に、心臓が止まるかと思った。
しかしデュオンはわたくしの動揺を気にも留めず、涼しげな顔をしたまま一歩一歩こちらへ近付く。
「と、突然、何を言うの……」
「ただ、今日にでも、とは急ですね……いよいよ陛下の御容態が危ういのでしょうか。それとも第二王女派の動きがお有りなのでしょうか? いつの間にか侍女もずいぶんと減りましたし、それもクラリス殿下がお暇を言い渡したのでしょう?」
「……使えない人間ばかりだったからクビにしただけよ」
「クレマも故郷へ帰ったようですが」
「もうあんな人は用済みでしょう?」
クレマは今年で五十になる、わたくしの乳母である。産まれた瞬間からそばにいて、あれやこれやと世話を焼き続けた実の母のような存在だった。
彼女もデュオンと同じように、わたくしがいくら冷たく突き放してもここを去ろうとはしなかった。それでは埒が明かないので、先日とうとう強制的に馬車へ詰め込み、故郷に送り返したのだ。
(クレマ……故郷で、無事に暮らせると良いのだけれど)
クレマだけではない。わたくしのことを宝物のように扱う古株の侍女達、好物ばかり用意してくれる専属コック、見事な庭を造り出す庭師、わたくしの心労を気遣ってくれる医師――皆、難癖をつけてクビにした。
『傲慢で非情な王女クラリス・フィリドール』が次々と使用人を辞めさせるものだから、今や城にはろくな人材が残っていない。世間では非難轟々だ。
でもこれで良い。喜んで悪役にでもなるし、わたくしは『非情な王女』で構わなかった。悪者になるだけで、大切な人達が救われるのならば。
「あなたもよ。一刻も早く城から出ていって頂戴。これ以上、婚約の邪魔をしないで」
「ご婚約自体を邪魔した覚えはありませんが。隣国の王子とのご婚約が無くなったのも、どうせ第二王女派の大臣達がもみ消したのでしょう。クラリス殿下の後ろ盾を無くそうと」
「……っ本当にうるさいわね!」
このところ、毒を盛られる回数も増えた。毒見係を通しているにも関わらず、わたくしの元へは度々毒入りの食事が運ばれる。
食べたところで毒に慣らされたわたくしには効かないけれど、苦くまずい食事が運ばれるたびに気持ちは重く淀んでいった。そして焦った。このままでは、わたくしのまわりにまで危害が及ぶのも明白であったから。
「急に陛下の御容態が悪化したのも不自然でしたね。陛下はクラリス殿下を跡継ぎにとお考えでしたから……」
「……父上はまだ生きていらっしゃるわ」
「時間の問題ですがね」
「本当に無礼な男ね。早くどこかへお行きなさいよ」
父上が生きているうちに――一刻も早く城を去ってほしいのに。
ディオンは依然としてわたくしの前から離れない。離れないどころか、ジリジリと距離を詰めてくる。互いの息がかかってしまうほど。
「クラリス殿下。あなたにはお説教が必要ですね」
「……は?」
「私が、殿下を一人残してこの城を離れると……本気でそうお考えなのですか?」
珍しく顔を歪ませたディオンが、私の頬へと長い指を滑らせる。その指はしっとりと濡れていて、わたくしはようやく自分が泣いていることに気がついた。
いつの間にか流れ落ちた涙を、彼は指の腹で丁寧に拭う。何度も何度も目尻を行き来する指は、わたくしの言葉をもどかしげに待っていた。
「……ディオンが、わたくしを置いていくはずがないじゃない」
「でしょう?」
「だから何としても、どんな言いがかりをつけても、わたくしがあなたをここから追い出さなければならないの」
このままでは、わたくしだけではなくディオンも必ず亡きものにされるだろう。わたくしに心酔している彼が、無事でいられるとは思えない。下手したら、都合良く罪を着せられてしまうかもしれなくて。
そんなの、絶対に許せなかった。考えるだけで目眩がする。
「追い出す……? 私はクラリス殿下が望む限り、おそばを離れることはありません」
「そのわたくしが、早くここを離れて欲しいと望んでいるのよ! 一緒にいればあなたも死ぬの。わたくしはそうなって欲しくないのよ」
「なら、私を最後まで残していたのは何故なのです? 殿下と共に死ねるのなら、私はそれも本望でした。けれどあなたは私を生かしたまま、このような城に一人残るなどと……!」
ディオンはとうとう、わたくしの身体を抱き寄せた。力強い腕に包まれ、広い胸板に顔が埋まる。抵抗してもビクともしない腕の中は、彼らしい清潔な香りがした。涙が止まらない。
わたくしはこの香りが好きだ。昔から、出会った時から、好きで好きでたまらなかった。彼がそばにいてくれるだけで幸せだった。
ディオンが隣国の王子を牽制するたび、花束に嫉妬するたびに、わたくしの心は歓喜に湧いて。決して結ばれることがないと分かっていても、募る想いは止められなかった。
彼の主は世界でただ一人だけ。そのことだけがわたくしの辛い日々を支えてくれる。なにがあっても強くいなければと、彼のおかげでそう思える。
だから……
「ごめんなさい……わたくし、あなたを手放す覚悟だけは中々できなかった」
「そのような覚悟は不要です。本当に……あなたという人は甘えることを知らない」
「あ、甘える……?」
「愛する女性に頼られて、喜ばない男はおりませんよ」
ふいに力が弱められた腕の中からディオンの顔を覗いてみると、彼は見たこともないほど幸せそうな表情を浮かべていた。目が合えば心まで通じ合えた気がして、もう彼の瞳から逃れられない。
「クラリス殿下、私と共に隣国へ逃げましょう」
「え……? 隣国に?」
「隣国の王子も私達に協力して下さいます。悔しいですが、あの男に頼らざるを得ませんね――」
「どういうこと……?」
王子からの花束の中には、毎回メッセージが忍ばせてあったらしい。
『我が国なら、貴女方をお迎えする用意がございます』
『御身に危険が迫りましたら、どうぞ我が国へ』
隣国は思っていたよりもこちらの内情に通じていた。縁談のふりをして、我が国へ踏み込むすべを探っていたのだ。ディオンが毎回花束を燃やしていたのは証拠を隠滅するため、同席を諌められなかったのも協力者であったから――
となればディオンは隣国の内通者。わたくしよりも遥かに危うい立場にある。
「な、なぜそのように大事なことを、わたくしに言わなかったの……!」
「クラリス殿下は隠し事が出来ないでしょう。あなたがどうしても私を追い出すというのなら、私は無理矢理にでもあなたを連れて行く」
「けれど、そのようなこと……国への裏切りだわ」
「殿下を殺めようとする国に、何の忠誠を誓うことがあるでしょうか。このように汚れきった国など、いっそ滅びてしまえば良いのです」
潔いほどわたくしのことしか考えないディオンの心は、もう決まっているようだった。
おそらく、わたくしがどのような返事をしようと、彼は――
返事をできないまま向かい合っているところに、廊下からバタバタとせわしない足音が聞こえてくる。
ノックすることもなく部屋へ入ってきたのは、真っ青に震える侍女だった。その顔色を見ただけで、もう分かってしまった。言葉にされなくとも、父上の身に何かあったのだと。
「クラリス殿下! 陛下が崩御なされました……!」
たちまち外が慌ただしくなる。
混乱している。城が、国が、そしてわたくしが。
物々しい空気が支配する中、ディオンはわたくしを見下ろすと、有無を言わせぬ笑みを浮かべた。その冷たさに、一筋の汗がつたう。
「クラリス殿下どうされますか? もう、あまり時間はありません」
「わたくしは……」
決断はわたくしに委ねられている。けれどディオンの腕は固く私を抱いたまま。
「離して……と言っても、きっと無理ね」
「よくお分かりで」
「無事にあちらへ着くことはできるかしら……」
わたくしは心のままに彼の背中へ手を回し、ぴたりと隙間無く寄り添った。
初めてだった。このように素直になれたのは。
「クラリス殿下――必ず、お守りいたします。この命に変えてでも」
「そのようなこと言わないで。ディオンが死ぬなら、わたくしも死ぬわ」
重なり合う鼓動と運命は、この先もディオンと共にある。わたくし達は互いの熱を確かめながら、隣国への一歩を踏み出した。