野良猫小女
猫の鳴き声のした方へ、弾けたように走りだす。声
の方向は、昨日、猫の群れがいた場所とは少し異なる。
あの猫の身に何が起きたのか、想像すると寒気がし
た。彼か彼女か分からないが、猫を襲ったのは確実に、
ろくでもない理不尽な世界による、災難な事象だ。
僕と猫とが似た者同士だと勝手に思っているからだ
ろうが、猫が救いを求めているのなら、僕は力になり
たいと思う。それは、恐らく、僕の方が猫より少し長
く生きていて、独りの苦しさを、深く知っているから
だ。
だが、軽快に数歩走っただけで、体に異変が生じ始
めた。
「はあ、はあ」
深刻な運動不足。
休日は家に引き篭もり創作に没頭し、学校での体育
の授業でしか運動をしていないがゆえに衰えきった僕
の運動能力に対して、走る、という行為はあまりにも
体に負荷のかかるものであったのである。
体感、五十メートルほど走ったあたりで、僕の足は
鉛のように重く、溶けた金属のように熱くなった。
息が上がって、体の中身が飛び出そうになる。聞こ
えないはすの心臓の拍動音が耳元で鳴る。
「ニャー!」
「え」
心臓の音に紛れて、あの猫の鳴き声が聞こえてきた。
声はすぐ近くでしている。
が、その声は、何か意思があって発せられていると
いうよりは、ただ、大きく、乱暴に声を出しているよ
うで、人間でいう、絶叫とか、そういうものに近いよ
うに聞こえた。
熱の篭るセーラー服の中で薄らと汗をかいた僕の白
い肌に、ぞわっと寒気が襲った直後、鳥肌が立つ。
「もしかして、本当に、危ないんじゃ、ないの」
息切れが酷く、一度立ち止まる。肩で大きく酸素を
求めながら、声の方へと目を向けた。
そこに広がっていたのは、僕にとって、異様で奇怪
で、グロテスクで、最悪な光景だった。
まず、目に入ってきたのは鮮やかな赤だった。液体
状で、さらさらとした質感で、所々に黒い毛が赤色の
中に沈んでいる。
「ニャー」
今度は、目の前から鳴るか弱い、縋るような声。あ
の猫のもので間違いはなかった。
赤色の中心には、真ん中の一点だけが黒色の、茶色
の塊がある。攻撃的な激しさを伴って、汚れた毛並み
が蠢いているのが嫌になるほど明確に見えてしまった。
「う」
猫が、猫を喰っていた。共喰いをしていた。
それも、喰われているのは一匹。初めて僕を好いて
くれた,黒くて変わり者の、あの猫だった。黒い体毛
のあの猫だけが、群れの全ての猫に、襲われ、喰われ
ている。
もう、片耳が無い。
尻尾は千切られ、体のあちこちに歯型と、肉を噛み
ちぎられた跡が痛々しくつけられていた。
そして、この凄惨な光景をより異常に、怪奇的にし
ているのは、猫達の周りにたかっている人間達の姿で
あった。
辺りには、小規模な人だかりが出来ていた。
昨日すれ違ったかもしれない中年の女、制服を着た
無表情な中学生、僕と同じ制服の、同学年の生徒、他
にも、様々な種類の人間達が、猫達の演じる惨劇を眺
めていた。
彼らは、物珍しいものを見るような目をして、狂気
的なことに愉しげな表情すら浮かべている者も中には
いた。そうでなくても、スマホを構え、この様子を撮
影している人間は少なくなかった。
どうして、止めようと動かずにいられるのか?
僕は、勝手に動き出した右足を呆然と見つめながら
想像する。
答えは簡単。彼らは凡人、つまり大衆であるからで
ある。自分の意思なんてなくて、面倒事に巻き込まれ
ない為なら命だって見捨てられる、どうしようもない
人間だからだ。
このまま黒猫が喰われてしまうのを観察している彼
らと、猫を救おうと一人でに体が動き出した僕のどち
らが正しいのだろうか。
黒猫の味方は、たった僕一人。それに対して、敵は
十数人と茶色の猫の群れ。この世界で何が正しいかを
決めるのが大衆であるならば、間違っているのは僕で、
黒猫は正しく死ぬべきだということになる。
しかし、僕にはそれが正しいとは到底思えない。正
しさの為に、救える命を殺すなんてことは当然あって
はならないはずだ。
正しさとは、一体何なのか。僕には、理解出来ない。
「死ぬまで孤独だとしても、凡人だけには、絶対にな
りたくないな」
常に集団に属し、孤独ではない凡人達にどこか憧れ
を抱いていた過去の自分を恥ずかしく思った。
猫の群れのすぐ近くまで接近しても、昨日とは打っ
て変わって猫達は逃げなかった。塊の一部を形成して
いた二頭が僕の前に立ち毛を逆立て威嚇してくる。
僕一人になら勝てると思ったのか分からないが、ど
う黒猫を救おうものか困る。体格差もあるし、流石の
僕ともいえど二匹の猫相手に敗北を喫することは無い
とは思うのだが、病気とか怖いし、なにより見た目は
可愛いから後味が悪そうだ。
「どうすれば」
思わず口から言葉が漏れる。
その時、もみくちゃにされていた黒猫の片耳が僕の
声に反応するように震え、光を包む黄色のその目がこ
ちらに向けられたのが分かった。
立ち塞がる猫達に進行を止められる僕と、喰われ続
ける黒猫の間で視線が交差する。猫は一度瞬きをした
後、自らの右前足に目を向け、再度目を合わせてきた。
見ると、猫はその足を抱えるように倒れており、傷だ
らけの体のうち、その部位だけには傷が見られない。
「天才だ」
黒猫は仲間に襲われながらも、最後の逃亡の手段を
残していたのだ。無傷の右前足を使った一瞬の加速。
それを、僕のような変わり者が救いが来る可能性に賭
けて、咄嗟に隠し喰われ続けていた。
「ニャー!」
黒猫はいきなり、力強く、鳴いた。僕には分かる。
合図だ。
僕は姿勢を低くして、構える。もしも黒猫が逃亡に
失敗した時にも力づくで攫うことの出来るように、飛
びつくことも視野に入れて少し先の未来の展開を構想
していく。
「ニャー!」
次の瞬間、黒猫は激しくもがき、猫達は怯んだ。そ
の隙に猫は立ち上がる。左前足は所々食い千切られて
いるような跡があった。死守した右前足にもたれかか
る格好で、僕を一瞥した後、猫は飛んだ。
想定以上の飛行距離と角度だった。黒猫は真っ直ぐ
に、構えていた僕の胸に突撃し、危うく落としてしま
うところだった。
反射的に胸の中の猫の様子を伺うと、力を使い果た
したのかぐったりしていて、目を閉じ、僕に全体重を
かけてきている。猫に直接触れている手のひらから感
じる生温い湿ったような不快な感触は、僕がこの猫の
命を背負っているのだ、という強い実感を与えた。
僕は一切の迷いなく猫達の群れに背を向け、全力で
逃亡を図った。ここまで来るのに消費したはずの体力
も、足の痛みも、神経が壊れてしまったかのように感
じなかった。
幸い、僕の胸の中で倒れている猫を襲った同族の群
れは、僕達を追いかけてくることは無かった。
だが、僕等を追う影がなかったわけではない。
走り始めてすぐ、振り返るとスマホをこちらに構え
る何人かの凡人達の姿があった。
彼らにとって、猫の共喰いも、黒猫の必死の抵抗も、
道端で開催されていた面白おかしいショーのようなも
のと変わりなかったらしい。