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行橋、豊津あたり

80代の、クセの強い、もと教員(国語)が、60代の、口数の少ない、もと教員(理科・文学散歩が趣味)を案内する話。

M: 清張記念館は、まだ、開いてませんから、今日は、思い切って遠くまで行きますよ。

カルスト台地、いくつか、ご存知でしょうけど、平尾台はまだでしょう? ちょっと、お目にかけたいので、行ってみましょう。

実はね、平尾台こそ、古事記にある「高天原(たかまがはら)」だという説を唱えた人がいるんですよ。

明治時代の人でね、地元の人だから、地元ひいきが過ぎて、そんなことありえない、と、見られるような話ですけど、その説を唱えた人、「涙そうそう」とか「さとうきび畑」の歌で有名な、森山良子の、曾祖父さんにあたる人なんですよ。

狭間畏三(はざま・いぞう)という人でね、その娘が、森山家に嫁いで行ったという、因縁があるんです。

NHKのファミリーヒストリーという番組を見ていて、あれーっと思いました。

私が、学生だったころ、古本屋で、「神代帝都考」という本を買って、何回も何回も、繰り返し読んだことがあるんです。特におもしろい所は、傍線を引いてあるんですが、その傍線が、やたら多いんです。

ということは、本全体が、私にとっては、とてもおもしろかった、ということです。

簡単に言えば、天皇家は、もと、京都郡(みやこぐん)に住んでいたという説です。平尾台の向こうの、昔の勝山町、豊津町、犀川町が一つになって、今、「みやこ町」になっています。それに、自動車工場で有名な苅田町、今は、「市」になった、行橋市。あのあたりが、「京都郡」で、そこが、天皇家のルーツだよ、という説。

おもしろくないですか? 私には、すごくおもしろかったんですがね。

あの、正面の山、かなり削られているでしょう?

そうです、そうです。セメント会社が石灰石を取っているんです。

あの山の一番高い所、「龍が鼻」と言うんですが、私、中学生の時、平尾台からあすこまで、歩いて行けました。行ったことがあります。そして、京都郡を上から見て、何と古墳の多い所だ、と、驚いた記憶があります。「神代帝都考」をおもしろがるのは、そんな経験も響いているのかも知れませんね。

龍が鼻は、今は、セメント会社の敷地になっていて、立ち入り禁止です。

うちの近くの山好きな男が、いわゆるヤブコギで、2年くらい前、反対側から、あすこまで行ったということですが、普通のルートは、もう、ないんです。


ほーら、羊の群れに見えますよね、石灰石の露頭した部分が。

ドリーネとか、大小、たくさん、見えるでしょう?


展望台まで、一応、行ってみます。

歩いて、鍾乳洞を見たりするのも、いいと思いますが、時間を節約するため、本日はカットです。

ああ、思い出したから、一つ、お話します。


人がほとんど行かない所ですけど、あの藤田哲也さんが、友だちと一緒に発見した鍾乳洞もあります。戸田さんと一字ずつもらって、「藤戸洞」という名前にしています。好奇心の強い人だったんでしょうねえ。

ご自宅から歩いて、2時間かからないかも知れませんね、あの峠を越えたら、もう平尾台ですよ。


こっちの方には、「青龍窟」という鍾乳洞があります。狭間説では、ここが、「天の岩戸」とされています。アマテラスオオミカミが引きこもった所ですよ。

そのアマテラスの墓と言われる綾塚古墳も、これから行く所にあります。

ここは、台地だから、風が当たると、上昇気流が生まれます。パラグライダーで飛ぶには、いい所なんです。私の知り合いの人で、「うちの頭の上を、いつもパラグライダーが飛んで行く」と言っている人がいました。都会のすぐ近くで、便利がいいですよねえ。

龍が鼻も、こっちから見ると、削られてしまって、なお無惨でしょう。


(平尾台から降りて)あの山の左端、あの山を「高城山(たかじょうさん)」と言います。

狭間説では、あれが、いわゆるタカチホだというのです。あの山のてっぺんには、石の柱が5、6本たっています。それが、天の逆鉾だというのです。

狭間氏は、鹿児島まで行って、高千穂の逆鉾を見たそうです。坂本龍馬が新婚旅行で触ったという、あの逆鉾です。狭間氏は、一刀両断、あれはニセモノと切り捨てます。古事記の逆鉾が、あんなチャチなものであるはずがない、と。

そして、高城山の上の石柱こそがホンモノの逆鉾だ、と言うのです。あの山は、もともと、タカチホ山と言っていたのに、いつのまにか、タカジョウ山といわれるようになり、漢字としては、「高城」が当てられたのだ、と言います。

何しろ、生まれた家の近くにある山だから、ヒイキしたくなったのもわかりますがね。


綾塚古墳に着きました。地元のひとでないと、わかりませんよねえ、こんな道は。

先に、看板を見ましょうか。


明治時代に、イギリスから来た技術者が、この古墳の平面図、断面図まで正確、丁寧に測量して、作ってくれていたというのが、すごいことですよね。その論文が、今も、大英博物館に残っていて、それを利用して

この看板が出来たというんだから、何か、学問の世界の広さ、深さ、果てが知れませんねえ。


そうです。これが、「複室構造」という形になるわけです。こんな、大きくて重い石を、機械の力も借りなくて、どうやって、動かしたのか、組み合わせたのか、不思議ですよねえ。

この古墳について、地元には、「女帝神社 皇妃御陵墓」という言い伝えがあるんだと、狭間さんは、言っているんですよ。だから、アマテラスの墓に違いない、と。


こういう、石を使った建造物で、「神籠石(こうごいし)」というのも、ここから近い所にありますから、御案内しましょう。その石の施設がある所、地名で言うと、「御所が谷」と言うんですよ。

苅田町の国道沿いには、「御所山古墳」という、前方後円墳もあるんですよ。

何か、「邪馬台国 京都郡説」 裏づけが揃って来たような感じ、しませんか?


この道を、西に真っ直ぐ行くと、仲哀トンネルになります。仲哀天皇の名前を、そのまま、トンネルの名前にしているんですよ。奥さんの神功皇后と、ここを通ったという言い伝えがあるので、地名になっているわけです。このトンネルは、新しくなっていますが、古いのしかなかった時、トンネルを抜けた所で、死体が見つかったことがあります。連続殺人事件の2人目の犠牲者が捨てられていたんです。

映画にも、テレビドラマにもなった「復讐するは我にあり」。あの話、実話に基づいているんです。その、現実の事件が、この近くで起きていたんです。犯人が住んでいた所が、今の行橋市のはずれでしたからね。

地元に、前から住んでいた人じゃなくて、長崎の離島から来た、隠れキリシタンの流れの人で、カトリックの信者だったそうですよ。題名も、キザっぽいでしょう? なんか、バイブルの中の言葉だそうですよ。

「我」というのは、犯人のことじゃなくて、「神」のことらしいです。


仲哀トンネルを抜けると、田川です。香春町です。ここの、香春岳という山、昔は、とんがって、キレイな形をしていたんですが、今や、削られて、無惨です。石灰石を取るため、やられたんです。平尾台と同じですよ。その山の姿を小説にしたのが、「白い山」。村田喜代子、です。幽霊、じゃないかな? そんなものをよく描く、ちょっと変わった作家がいますよ。芥川賞は、もらっているんですがね。



ここが神籠石の中心と言われている所です。今から千数百年も昔に、こんな、みごとな石組みをしていたなんて、驚きでしよう?

敵が攻めて来た時の防御施設だという説や、単なる宗教施設だという説など、いろいろ。


ここから見ると、ラクダの背中みたいにみえませんか?

あれが、馬の鞍みたいに見えたらしくて、あの山の名は、「馬が岳」。

例の、黒田官兵衛が、あの山の上に城を作っていたことがあります。城の跡は、今も、キッチリ残っています。

今日は、行きませんけどね。


その官兵衛が、熊本に行っている間に、カッコいい仕事をして見せようとして、息子の長政が攻めて行こうとした所が、宇都宮鎮房(うつのみや しげふさ)の城です。最後まで、秀吉の言うことを聞かなかった気持ちの強い男です。祖先は、鎌倉時代に、栃木から来たんです。だから、宇都宮。


何百年もの間に、地元に、すっかり根をおろしています。それなのに、秀吉が、「国替えじゃあ、伊予へ行け」と言ったんです。宇都宮は、「ここが気に入っています。よそへは行きません」と、突っ張ります。

秀吉は、「オレをなめとんのか。許せん。黒田、やっつけて見せい」といいます。


このあたりは、谷の奥の方に城を作ると、攻める側の軍隊は、細く、長い隊形になります。

守る側からすれば、ゲリラ攻撃しやすいんですよ。

長政は、命からがら逃げて帰ります。家来の大物も、かなり犠牲になっています。


息子の無謀なチャレンジにあきれた官兵衛は、作戦を立てます。

息子の嫁に、宇都宮の姫をもらおうというわけ。

官兵衛の根拠地の中津に、宇都宮家を招待します。その、めでたいはずの宴席で、ダマシ打ちです。

鎮房を槍で突いたのは、後藤又兵衛だ、と書いた本もあります。

その時、血の色で染まったと言って、今でも、壁を赤くしているお寺もあります、中津には。


この川に沿って、上って行くと、英彦山(ひこさん)になります。かなり遠くなりますので、今回は、御案内しません。あの山並みの、一番高い所が英彦山です。その左の、こぶこぶが3つ並んでいる所が鷹ノ巣山。


英彦山には、杉田久女の句碑が2つあります。奉幣殿にあるのが、


(こだま)して 山ほととぎす ほしいまま」


豊前坊にあるのが


(とち)の実の つぶて(おろし)や 豊前坊」


どっちも、有名ですよね。久女らしさが、よく出ていますよ。


また、時間を作って、改めて来て頂ければ、英彦山も、その向こうの耶馬渓も、御案内しますよ。

野峠の先には、歌舞伎の「毛谷村(けやむら)六助」の、お墓もあります。

菊池寛の「恩讐の彼方に」の舞台になった「青の洞門」も、もう少し先にあります。


この鉄道、前は、JRだったんですが、今は、平成筑豊鉄道になりました。そして、駅も増やして、駅名もユニークな名前をつけました。「今川河童駅」とかね。ここが、「東犀川三四郎駅」になったのは、夏目漱石の「三四郎」という小説で、主人公のモデルとされる小宮豊隆の生家に近いからです。彼の墓も、お寺さんの中の墓地にあります。

通りがかりだから、ちょっと見てみましょうか?

以前来た時は、蚊がすごかったんですが、まだ、いまなら、蚊はいないでしょうから。


ここ、峰高寺と言います。

寺の設立趣意書を見たら、すごいでしよ?

江戸時代になって、この領地をもらった小笠原忠真の母親は福姫で、その福姫の父方、母方が、家康と信長なんですよね。ホトトギスを鳴かせてみせよう、と言った男のDNAと、鳴くまで待とう、と言った男のDNAが、ここに祭られている福姫を通して、小笠原に受け継がれているんですからねえ。


この墓地の、真ん中あたり、左側です。字を読めば、確かに、豊隆さんと書いてありますが、大きさとか、デザインとか、特に特色があるわけでもないですよね。



ここが歴史民俗資料館です。小宮豊隆のことを大きく展示してあります。ちょっと、のぞいてみましょうか。

私のお気に入りは、漱石から、小宮豊隆に宛てた、このハガキです。

「吾輩は猫である」のモデルの猫が死んだ時、その「死亡通知」をユーモア一杯に書いて、4人の知人に送った。その4人の中の1人が、この小宮豊隆だつた、ということです。まわりを黒くしてあって、いかにも、「死亡通知」らしくしてあります。ここいらが、漱石らしいユーモラスなところでしょうか。


この書斎の所は、写真を撮っていいところですよ。シャッター、押しましょうか?


今度は、八景山(はっけいざん)という所に行きます。

花見のシーズンなんか、人が多いらしいんですが、普段は、ほとんど、ゼロに近い所です。

さっき、郷土出身の有名人として、堺利彦の写真がありましたよねえ。日本の社会主義運動の先駆けをしたような人物なんですが、その影響を受けた後輩たちの文学碑があるんです。それを見てもらいたいと思います。

堺利彦記念館というのが、以前、ここにあったんですが、老朽化したという理由で、取り壊されて、今は、サラ地になっています。もっと文化遺産は、だいじにしてほしいんですがね。

この坂を少し降りたあたりが、堺利彦が小さいころ、暮らしていた家のあった所です。

「自伝」に、くわしく書いてあります。


ここの左手、奥に、墓地があります。ここに、会津出身の若者の墓があります。

明治になってすぐ、ここの学校が、すぐ、進んだ教育を始めたので、会津から、国内留学して来たんですよ。そこまでは、いいんだけれど、この若者が、ホームシックにかかって、手紙を書きます。その中身を友だちに読まれます。食事に対する不満が書いてありました。まずい、とか、少ない、とか。

武士は食わねど爪楊枝、という時代の風潮が、まだ色濃く残っている時代でしたから、「武士の子が、なんと武士らしくない」と非難されます。カッとなって、「オレにだって、会津武士の血は流れているんだ。その証拠を見せてやる」と言って、切腹して、死んでしまいます。郡長正(こおり ながまさ)という若者です。

さすが、白虎隊の国の男、というので、だいじに葬られて、立派な墓も立てられました。その墓がある所です。(実は、切腹の理由については、他の説もあります)


着きました。降りて見て下さい。


これが、葉山嘉樹の文学碑です。

「馬鹿にはされるが、真理を語るものが、もっと多くなるといい」


淡々としていますよね。私なら、「バカにされても、もっと真理を語れ」とか言いたくなります。

自分の出世のため、忖度(そんたく)ばかりしている奴に、煎じて飲ませたいような言葉ですよ。

この男の生き方にあこがれて、小林多喜二があんな生き方、死に方をしたというのが、なんか、せつないですよね。


こっちが、鶴田知也。あまり知られてはいないようですが、昭和11年に芥川賞をもらっています。

「コシャマイン記」という、アイヌを描いた小説で。

北海道を拠点にしていたので、そんな小説が多いんですが、出身は、ここ。豊津です。


「不遜なれば、未来の悉く(ことごとく)を失う」


これも、私なら、「不遜なヤツは損するぞ」ぐらいでいいような気がしますけどねえ。ちょっと、キザ過ぎる表現だと、思いませんか?


説明板にあるように、草花の観察、写生が好きで、それだけで、本を出すほどです。

豊津のような、自然の豊かな土地で育ったから、そういう人柄になったんじやないか、という解釈をする人もいます。………でしょうねえ。


堺利彦が豊津に、農民学校というのを作った時の生徒だそうですよ、この2人とも。


堺利彦も、ふるさと愛の強い人で、そんな気持ちを書いた文章も多いのですが、前、記念館の所に歌碑がありましたよ。


「母と共に 花しほらしの薬草の千振(せんぶり)つみし 故郷の野よ」


自然が一杯で、そんな故郷が大好き、という感じが、よく出ていますよね


ローカルな同人誌に載っていた、火野葦平の「糞尿譚」を、里帰りしていた鶴田知也が読んで、中央に紹介してくれて、それからすぐ、火野葦平の芥川賞が決まったんだそうですよ。そういう縁もあるんですねえ。


ここが、おヤシロです。この裏に大きな岩があります。登ろうと思えば登れます。上から見ると、眺めがいいんですがねえ。私は、孫とも登ったことがあります。


そうですか。じゃあ、やめときましょう。


もう少し歩いてもいいですか?


ここが「3人句碑」。一つの岩に、3人の句を彫り込んであるんですよ。


「豆の花 離農の蒲団 巻きしむる」(森 緑青)


河鹿笛(かじかぶえ) 吹き吹き 岩を変へにけり」(井上朴童)


牡丹(ぼうたん)(とつ)ぐと決めし薄化粧」(宮本正女)


3句とも、時代の色を反映していて、いい句だと思いませんか?


農業では食えないから、よそへ行く。


山あいの清流に、昔は、いい声で鳴くカジカがいたこともある。


見合い結婚で、仲人口に、やや、やけっぱちに、結婚を決意する女性もいた時代。


石に刻んであるので、後々の世の人も、感慨にふけることができるんですよね。



ここは、他にも、句碑やら、歌碑やら、まだありますが、ここで、カットします。

次に行きましょう。












脱線が多すぎたかな。

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