私はこうして日常に戻っていった
「ちょっとすいません。警察の者ですが、ご協力願えませんか」
私は、思わず身構えた。が、よくよく考えたらそんなことをする必要など無かった。今の会話を聞かれていたとしても、夕希君という名前は出していないのである。警察もただの会話だと思っただろう。
「先日の殺人事件についてですが、何か心当たりは有りませんか?」
目の前の20代半ばのぐらいの若い警察官が私に尋ねる。殺人事件について聞き込みをしているようだった。少年について目撃情報がなかったかとか、事件について何か関係するものが無いかとか、そんな感じの質問を2,3個された。私は、夕希君に関することについての質問は何も知らないと答えた。佐原さんのほうを見ると、別の警察官が質問している。たぶん、私に聞いている質問と同じなのだろう。だが、佐原さんは一体何と答えたのかわからないが、警察官が苦笑いをしていた。おい。お前は何を話したんだ。
少し見ていると、その警察官は佐原さんに向かって「帰っていいよ」と、手ぶりを加えながら、捜査に協力に感謝していた。佐原さんは帰っていいと言われたものの困っているようだった。私のほうはまだ質問が続いていて、ここから抜け出せそうになかったからだ。
しょうがないので、私はしっしと手の甲を向けながら手を振るようにして、「先に行ってくれ」と伝える。彼女はそれで私の意図を理解したようで、先に帰ってくれた。
「身分を証明できるものは有りませんか?」
警察官が尋ねる。だが、こういう時に一番適切なはずの名刺は、退社時、会社に置いておくことが社内ルールだったので、手元には無かった。なので、私は財布に入れていた免許証を警察官に渡す。車に乗らなくても免許証は色々な証明に役立つので、常時財布に入れているのだ。
「ああ、このあたりにお住まいではないんですね。ちなみにどうしてこんなところに?」
確かに、免許証の住所は今住んでいる所の住所が記載されており、その場所までここからだと、電車で40分はかかるところに住んでいる。この時間にこのあたりを歩いているのは場違いかもしれない。警察官が不審に思うのも当然だろう。
そうなると、何て答えるべきか。
「先ほど、協力していた女性。彼女と私は同僚なのですが、今日は彼女の家に呼ばれていて、彼女の家で食事をする予定でした」
「……?二人は恋人同士なのですか?」
「違います」
私はそこだけは断言する。でもまあ、恋愛関係は無いけど、女性の家に上がり込んで食事の招待を受けるということは確かに妙な関係かもしれない。私は嘘でも恋人関係と言っておけば良かったと少し思った。
「櫛田ぁ。そっちは何て言っていたか」
櫛田と呼ばれた警察官がこちらに駆け寄って来る。さっきまで佐原さんと応対していた警察官だ。この仕事についたばかりなのだろう。あどけない顔立ちをしておりまだ、未成年のようにも見えてしまう。
「はい、先輩。首輪をつけてみたい男性と言っていましたっす。ドーベルマンみたいだから番犬になりそうだと」
なにぃ!あいつ何ほざいとんじゃあ!
「ああ、つまりお察しの関係なんですね。大丈夫です。わかります」
「お察しって何ですか!絶対わかってないでしょう!わかったふりをしないでください!」
「いやいや。恥ずかしい気持ちはわかります。鞭でぶたれると痛いけど気持ちいいですよね」
「違います!」
「まあまあ、でもあなたの言うことをそのまま信じると奇妙なんですよ」
「えっ」
「ただの異性の同僚の家に行って、食事に呼ばれる。でも二人は恋人同士ではない、お察しの関係でもない。そんなの有り得ませんよ。……いや、有り得ねえ!そんなのハーレム気質のウハウハ野郎しか有り得ねえじゃねえか!てめえ、モテることを自慢してるって言うのか!」
「普通の同僚です!逆切れしないで下さいよ!」
「あの。先輩。他にも可能性があると思うんすよ。パワハラとか、セクハラとか」
「成程!職場の権力を使って脅しているのか!ありうるな!」
このあまりにあてずっぽうな意見には私もカチンときた。自然と言葉も暴力的になっていく。
「成程じゃねえわ!言いがかりも甚だしいぞ!」
「あっ、あの」
うん?私たちが声のした方向を振り向くと、一人の女性がいた。殺人事件に関するチラシを配っていた女性である。
「あの!私見てました。この人が先ほど、女性の方が叫べないように野獣の構えを取っているところを!」
こらあ、何言っちょるんじゃあ!野獣の構えって、あれか!佐原さんが叫ぶかもしれない時に取っていたポーズか!
「恋人でもない女性に付きまとっていたあげく襲おうとしていたってわけか。推理するとストーカーの可能性もあるなあ」
「へい。それに顔もそれっぽくないっすか。なんとなくで犯罪を犯しそうな顔っす」
「コラッ!顔で決めんじゃねえよ!お前らの推理雑すぎるだろ!」
「それにな、刑事のカンが囁くんだよお。スーツ姿の奴は大体怪しい」
「ほとんどのサラリーマンが当てはまるじゃねえか!」
「こうやって、反論する奴も怪しい」
「ふざけんじゃねえよ!ていうか、お前ら公僕はちゃんと殺人事件の捜査しろよ!何みみっちいこと言ってやがんだ!」
その言葉を言った瞬間、場の雰囲気が変わったのを私は感じた。
ところで、警察の聞き込みに対して言ってはいけない言葉がいくつかあるのを読者の方々はご存じだろうか。これは私が知人から聞いた話なので、本当なのかどうか正直知らない。警察官というのは公務員である。公務員というのは国民の税金によって給料が支払われている。つまり、警察官は国民から構成される会社から給料をもらうサラリーマンと考えることができるのである。
ある日のこと、私の知人はその考えに従って、職務質問された際、警察官を下、自分を上とみなすような発言をしたところ、ドギツイ追及にあったらしい。そのため、警察の聞き込みがトラウマとなっているようなのである。
そして、今、永見は公僕と相手に向かって言ってしまった。公僕、つまり「俺の下僕共」と言っているのである。これは言ってはいけない言葉に当てはまるのではないだろうか。いや、絶対に当てはまる。
二人の警察官がそれまで言い方こそ荒いところがあったものの、顔つきは穏やかなものだった。だが、それが変わった。顔つきは険悪なものとなり、鋭い目はさらに細くなったのである。
「ほお。公僕……公僕ねえ。なんなら自称社畜さんよお。ちょっと署まで来てもらおうか」
えっ。と思った瞬間には櫛田という警察官に私は腕を掴まれて、引きずるように警察署まで連れていかれたのであった。
はあ、えらい目にあった。
あれから私は無能警官二人組に署まで連行された。署内では様々な事を聞かれた。佐原さんとの関係や何の仕事をしているのかとか、ここ数日の行動とか。
だが、すぐに解放された。会社の方と連絡を取ってもらい、私の身分を保証してもらったからだ。私のカバンにもスーパーの袋にも不審物が無かったことは幸いだった。すぐに解放されたのはそれのおかげもあるのだろう。
それで、署の入り口に向かって、私は署内の廊下を歩いていた。
「俺はまだ疑ってるっすからね」
おい。そこの無能警官何をほざいている。
櫛田と呼ばれていた後輩警官は私の横を歩いている。どうやら、入り口まで見送るつもりらしい。醸し出す雰囲気は送り出すというよりも、少しでも変なことをしたら捕まえてやるという意気込みのほうが大きそうだが。
私は手に持ったスーパーの袋を見る。中には今晩のメインディッシュになるさんま、それ以外にキュウリやカニカマなどサラダの副菜にするものが入っている。別れる際に佐原さんに渡しておけば良かったと私は後悔した。今頃、二人ともお腹を空かせている頃だろう。
スマホを取り出すと、着信が10件もあった。全部佐原さんだ。おそらく、戻ってこない食材の心配をして電話をかけてきたのだろう。私は悪いことをしたなと思って、すぐに謝罪をしようと電話をかけなおす。
トゥルル、ガチャ。
異様に早く、電話がつながった。
「もしもし、佐原さん。済まないな。今から戻るところだから……」
「永見さん!大変なの!夕希ちゃんが……」
切羽詰まった彼女の声に私も焦燥が走る。
「どうしたんだい?」
「夕希ちゃんがいなくなったのよ!」
「夕希君が?」
私は思わず声に出してしまった。隣の後輩警官も何事かと思ってこちらのほうをじっと見ている。まずい。あまり迂闊なことはここではしゃべられないな。
「佐原さん。落ち着いて話してくれ。君が家についてから何があったんだ?」
「あっ。あのね。家に帰ったら誰もいなくて、置手紙だけ残してあって「記憶が戻ったので警察に行きます。探さないでください」って書いてあったのよ」
そうか。記憶が戻ってしまったのか。私はこんな時なのに少しほっとした気持ちが胸に沸き上がった。責任から逃れたことによって生まれた開放感が沸き上がったのである。
となると、どうするべきか。警察に向かったのなら夕希君はしかるべきところに行くことになるだろう。そうなったら私たちにやれることは無い。今は夕希君が無事に警察に保護されることを祈るだけだろうな。
「佐原さん。私たちにやれることは無いよ。とりあえず、君のマンションに向かうから、ちょっと待っててくれないか」
「えっ、えっとね。置手紙はそれだけじゃないの」
「何が書いてあったんだ」
「あっ、あのね。これは永見さんには見せないようにって書いてあるんだけど、あまりに突飛だから話すんだけど、永見さんって殺人犯で監禁犯じゃないよね」
「何を言っている。そんな馬鹿なことがあるか」
「だよねえ。でも夕希ちゃんはどうやら永見さんを殺人犯で監禁犯だと信じ切っているみたい」
「はっ?」
「置手紙にも書いてあるの。永見さんは殺人犯で監禁犯だからすぐに追い返して、塩撒いて、二度と家の敷居を跨がせないほうがいいって書いてあるの」
「なんじゃそりゃあ!」
私は思わず叫ぶ。私の大声に驚いた隣の警察官は「ここは署内っすよ。静かに話すっす」と注意してきた。
夕希君が私のことを殺人犯だと思っている。どうしてそうなったのか全く分からない。だが、何故かそう決めつけている。そして、その事実に行きついたとき、私は恐ろしい可能性を思い浮かべた。
夕希君が警察に保護される。
夕希君が「犯人は永見です」と訴える。
「やっぱり。そうだった。俺の刑事のカンもこいつだと訴えていたんだよ」と警察がやって来る。
私は逮捕される。殺人プラス未成年監禁の疑いで。そうなったら、懲役10年で済めばかなりマシだろう。
最悪じゃないか。急いで誤解を解かないといけない。
「佐原さん。私は彼を探すことにするよ」
「わかったわ。私も探してみる」
私は電話を切った。何処に行ったのか全く予想は付かないが探してみないことには始まらない。私は早歩きで署の入り口まで急ぐことにした。
署の1階窓口は免許証の更新だったり、落し物の確認が目的で来ている人が何人か椅子に座って自分の順番を待っていた。私はこの中に夕希君がいないか簡単に辺りを見回すが、ここにはいなかった。外に出ようと、入り口の自動ドアのほうに向かって歩き出す。
入り口の自動ドアが開く。そこから夕希君が署の窓口案内の部屋に入ってきた。全くの偶然のタイミングだった。
良かった。まだ、警察には保護されていないようだ。
「あれ、この子は確か……」
「夕希君!」
櫛田の言葉を遮って、私は夕希君に声をかけた。彼も私に気付いたのだろう。私の顔を見ると、みるみる顔が青ざめ始めた。その様からひどくおびえているのが私にも伝わった。だが、私が殺人犯諸々と思い込んでいる以上その誤解は解かないといけない。
「夕希君。誤解なんだ。私は……」
「黙れ。それ以上近寄るな。色情魔が」
しきじょっ!くっ。だが、相手は混乱中なんだ。あくまで冷静に努めないといけない。
「夕希君。君に本当のことを話さなかったのは悪いと思っている。だがな、私は君のことを思ってだな」
「そんな言葉で惑わそうたってそうはいかないぞ。大方その袋の中にあるキュウリを使って僕にいやらしいことをしようとしているんだろう。わかっているんだぞ!」
誰がするか!
「そこのお巡りさん。そいつが僕の両親を殺した殺人犯なんです。さらに、僕に欲情して監禁しようとしているんです」
「はっはー。やっぱりこいつはストーカーだったんすね。しかも殺人犯でもある、と。先輩。先輩。応答願います。やっぱりこいつはストーカーで殺人をしていたみたいです。捕まえるチャンスっすよ!ついでに殺人事件の例の少年がいます。そちらも応援願います」
少年をついでと言うな!それが本命だろう!
後輩警官は私の肩を掴み、私を捕らえようとした。私はその手を払ってしまい外に逃げようとする。夕希君のほうに向かって。
私の動きを見て、夕希君は私に背を向けて逃げ出した。私も思わず追ってしまう形となった。
「逃げるなっす!あーあー、現在例の殺人事件の殺人犯らしき人物が行方不明の少年を追いかけている模様。現場は余古葉真署前。至急応援お願いしますっす!」
私は今、夕希君を追いかけながら大通りを走っている。後ろには後輩警官が追いかけてきている。気のせいと思いたいが周囲からはパトカーのサイレンの音が聞こえてくる。背後からは、「今なら骨の2,3本で我慢してやるっすよ」とかなんとか言っているのが聞こえる。どうしようもない事態になってしまった。
「夕希君」
だが、もうそんなのはもう関係ない。目の前を走る少年に向かって叫ぶ。
「おそらく、私は捕まってしまうだろう。だが伝えたいことがあるんだ。ただ、聞くだけでいいんだ」
少年からの返事は無い。
「私は君に本当のことをあえて話さなかった。それは本当に悪かった。私はおびえていたんだ。君が両親が死んでしまってて、世の中で独りぼっちになってしまったと思い込んでしまうのが怖かったんだ。だが、そんなこと思う必要はない。佐原さんがいる。私がいる。誰も君を独りぼっちにはさせないんだ」
少年からの返事は今度も無かった。でもこれでいい。言いたいことは言ったのだから。
突然、背後から誰かが飛び寄ってきて取り押さえられる。「やったすよー」とか叫んでいるところから、後ろに乗っかっているのは、あの後輩警官なのだろう。
夕希君は歩道橋を伝って、反対側の道路に向かうつもりなのだろう。階段を駆け上がっていた。こちらの動きに注意していたためなのか、夕希君は歩道橋の上を歩いていた男にぶつかってしまう。男は30代半ばの少しやせた男であり、夕希君の顔を見て驚いているようだった。ぶつかった夕希君もぶつかった反動で尻餅をついていたが、そこから動く気配が無い。
様子がおかしい。
ぶつかった男も夕希君も全く動く様子が無いのだ。まるで、絶対に有り得ないことが起こってそのことに二人とも戸惑っているような状態なのである。
何でこんなところにこいつがいる。
サイレンが町中に響く中、堂島聖は驚愕していた。
彼は横山夫妻を殺害した真犯人だった。
彼の両親は横山夫妻の詐欺にあい、借金苦で自殺をした。
それがきっかけで彼は横山夫妻を恨み、私讐を果たした。
夫妻を殺した後に一人息子が現場にやってきた。
たぶんそれまで自分の部屋にいたのだろう。
逃げる彼を追いかけ、2階のベランダから庭に突き落とした。
堂島がしたのはそれだけだった。その後、すぐに現場から逃亡した。
彼が恨みを持っていたのは夫妻だけだったので、息子は生きてようが死んでようが興味が無かった。
次の日にニュースを見る。奇跡的に彼が犯人ということはばれていないようだった。
だが、一つだけどうしてもわからないことがあった。
息子が行方不明というアナウンサーの言葉。
一体どこに消えたのだろう。
だが、発見されても関係ないはず。
堂島の顔は分からないはずなのだから。
覆面をしていたから気付かれないはずなのだから。
わからないはずなのに。
なのにっ!
何で目の前にいる?!
堂島は目の前の少年に向かって思わず手を伸ばした。
その男を見た瞬間、記憶が本当に元に戻った。
永見さんは犯人では無かった。
顔は分からないが、体格、雰囲気、そして僕を見ているその驚きの顔からこいつが両親を殺した犯人と何故か確信できた。
逃げないと。
立ち上がる僕だったが、恐怖で思うように足が動かない。
目の前の男は一歩ずつ手の平をこちらに向けながら慎重に寄ってくる。
一歩、一歩、相手の歩みに合わせて後退する僕。
背中が歩道橋のフェンスにぶつかった。
ああ、横に避けないと。
そんな呑気なことが頭に浮かんだ時、
強烈な一撃が僕にお見舞いされた。
男が僕を押して歩道橋の上から地面に突き落としたのだ。
自由落下していく僕。
地面にぶつかるかと思ったら柔らかい何かに包まれた。
気が付くと、永見さんが僕を抱きかかえてくれていた。
歩道橋から落下した僕を助けてくれたのは永見さんだった。
「だから、言ったろ。君を独りにはしないと」
僕は嬉しかった。助けてくれたこと嬉しいが、永見お兄さんが犯人でないことがより嬉しかった。
それから、数日後のことだ。
とあるオフィスの一室、私はデスクの向かいにいる佐原さんと共にいつものようにパソコンで事務作業を行っている。が、佐原さんは時折、スマホの画面を見ていてにやけた顔をしている。スマホの画面は今は、ネットで探した可愛い犬の画像らしい。あれから、まだ新しい犬は飼ってないが、その内飼い出すことは確実だろう。
あの夕希君が警察に保護された日。その日に真犯人の堂山も逮捕された。その場では、少年の殺人未遂の現行犯で逮捕されたのだが、堂山の自宅を捜索すると凶器が発見されたようである。本人の自白もあり、余暇葉真市の殺人事件は解決された。ちなみに佐原さんはその日、ずっと夕希君を探して夜の余古葉真を駆け回っていたらしい。私も警察に解放されたのが深夜だったので、その時にようやく事情を説明できたというわけだ。
私たちは殺人事件に関係する人間を隠匿していたとしてこっぴどく叱られた。警察から会社にもその情報が伝わり、ここ数日はあちこち謝りに回っている始末だ。おかげで、今まで以上に佐原さんと一緒に仕事しているような気がする。
「永見さん。夕希ちゃん、どうしましたかね」
「警察に保護されたのなら大丈夫だろう。心配ないさ」
私の返答に不満げだったのだろう。口をへの字に曲げて抗議している。
「何か、不安でもあるのか」
「いや。そうじゃなくてね。永見さんは寂しくないんですか。夕希ちゃんがいなくなって」
「寂しいが。仕方ないだろう」
「まあ、そうなんですけどね……。はあ、新しい子でも飼ってみようかな」
「何を飼うんだ?」
また、少年とか言うんじゃないんだろうな。
「ドーベルマン」
大型犬はマンションじゃ無理だろう。そう突っ込もうとしたとき、オフィスがざわめいた。何かと思って、ざわめきのほうに視線を向けると、警官に連れられて夕希君が来ていた。
「夕希君」
彼とは警察に保護された日からずっと会っていなかった。とても元気そうで良かった。また、彼は初めて会った時と比べると、幼い感じが消え失せて、しっかりした子供のような印象を受けた。変わったというよりも、この雰囲気が彼本来のものなのだろう。
「今日はお別れを言いに来ました」
「お別れって言うと?」
「これから、北海道にいる母方の叔母の家に行くことになりました。成人するまではそこで後見してもらいます」
「そうか。寂しくなるな」
「ゆうきちゃーん。いつでも私の家に遊びに来ていいからねえ。かわいい首輪も準備してるから」
お前はちょっと黙っとけ。
そうか。しかし、これからが大変だろう。突然親が亡くなった子供はどこかで不安や孤独を感じると本には書いてあった。経験の無い私にはその感覚は決してわからない。でも、そういう人たちはその感覚を抱えながら生きていかなければならないのだ。
私のそんな思いが顔に出ていたのだろうか、夕希君が笑顔で私たちに話しかける。
「永見お兄さん、ハナお姉さん。大丈夫ですよ。確かに叔母とはあまり話をしたことありませんでしたし、従兄弟とも仲が良かったわけじゃないから大変と思いますけど……」
けど?
「二人がここにいて、またいつでも会えるってことがわかっているから、僕は安心なんです。だって、言ってたでしょう。永見さん。僕のことを絶対に一人にしないって」
安心。彼の口からそういう言葉が出てくることに、私の方こそ安心してしまった。
「それでは、また会いましょう。永見お兄さん、ハナお姉さん」
そういって彼はオフィスの扉を開ける。外側の窓から太陽の光が差し込み廊下は明るかった。まるで、輝かしい光の世界を見ているようだった。その世界に向かって、夕希君はオフィスを出て行った。