記憶喪失の少年は意外と今を満喫している
「おはようございます!」
朝から元気よくあいさつしながらオフィスに佐原さんが入ってきた。本当に上機嫌だ。朝コーヒーを飲んでいた不機嫌な私に向かってニカーっとしてから、スマホの待ち受け画面を見せる。
「可愛いでしょう。ジャックの寝顔、撮ったんですよ」
ぶうぅ!
たぶん、今朝撮ったのだろう。夕希君の寝顔がスマホの画面一杯に広がっている。いきなりの彼女の行動に私はコーヒーを噴き出した。何を考えているこいつは!
私は彼女にスマホの待ち受けから無理矢理削除させて、人には絶対に見せないように注意した。佐原さんは「えー、なんでー」とグチグチ言っていたが、私がにらむとしょうがないといった態度でしぶしぶ従った。
この一連の行動から、彼女はまだ夕希君が殺人事件の後、行方不明になった少年ということを知らないということが分かった。社会人としては有り得ないことだが、彼女は何というか犬以外に基本、興味を何も示さない人なので、そんな事だろうと思っていた。だが、今回に関してはそれがありがたかった。
個人的に私は夕希君にすぐに過去を思い出してほしいとは思わなかった。もし、記憶が戻ったとしたら彼は両親の死という現実を受け止めなければいけないからである。佐原さんも愛犬の死から1週間経ってもあの調子だったのである。12歳の少年が両親の死という現実に無理矢理向き合わせるのがどれほどの苦痛なのか。実際に知ることは叶わない。だが、非常につらいものだろうということは感じた。
だから、テレビの有無を確認した。ゲームを一日中させるように仕向けた。外の世界の情報を与えないように。
これが正しいこととは思わない。ただ、時間をかける必要があるのだと考えているだけだ。いつかは真実を伝えるつもりである。それがどのタイミングが良いのか全く分からないが。
「サッちゃん。昨日から元気あるね」
耳を澄ませると、佐原さんと他の女子社員さんが会話しているのが聞こえた。
「ええ。実はですね。新しい子を飼ったんです」
おい。馬鹿やめろ。
「ああ、やっぱり。前はポメラニアンだったよね。今度は何を飼ったの?」
私がじっと佐原さんを睨む。ついでに親指も下に向ける。絶対話すな。佐原さんも私の様子に気付いたのか視線をせわしく動かしながら、どう答えたものか迷っているようだった。
「えっと、今は白くて、黒いの!」
肌は白くて髪は黒いな。正しくも無いが間違ってもない。
「えっと……、スヌ○ピー?」
あまりにも適当な説明に困惑した彼女は珍回答を叩きだす。ってか、あんたも何でそれが出てきたんだよ。
「そう!」
お前も、そう!っじゃねえだろ。
「まあ、良かったわ」と言いながら女子社員さんが自分の席についていった。私は思わずため息をつく。ちょっと大きすぎたのか、隣の同僚から「なんだ。朝から疲れているのか」と心配されてしまった。
少年の正体がばれる日は近いかもしれないそんな気がした。
だが、もし、少年自身が記憶を取り戻したとしたら
その時、私はどうしたらいいのだろうか?
昼休み、私は精神ケア通信教育の本を読んでいた。
周りで大切な人が亡くなった人の心理について書かれているページが目に付く。
大切な人、例えば、周りで親や兄弟が突然亡くなった方は、二度と会えなくなった悲しみと同時に、孤独になってしまいこれから自分はどうなるのかいう不安で心が一杯になり、パニックを起こすこともあります。また、子供にその傾向が強いのですが、自分のせいで親は死んでしまったと思い込むこともあるでしょう。そういう相手には、あなたの言葉で安心感を与えてあげましょう。
安心感ねえ。
私はこれからどうしようか悩んだ。明確な答えは出なかった。
その日から3日が経った。殺人事件の犯人は未だ捕まらない。私はそれから毎晩、佐原さんの家に寄った。殺人犯と佐原さん両方の面で、夕希君のことが心配だったからである。その日も私たちはスーパーで食材を購入した後、佐原さんの家に行った。玄関を抜けると、夕希君が出迎えてくれた。
「おかえりなさい。ハナお姉さん。永見お兄さん」
「ジャックー。ただいま!今日はトマトハンバーグよー」
佐原さんが一度夕希君にハグしてから台所に向かう。ひっじょーに意外なことだが、佐原さんは料理だけはできた。しかも普通においしい。こういうのを見ていると、人間何かは取り得があるんだなと思ってしまう。ちなみに、トマトハンバーグとは、トマトソースのハンバーグなだけであって、トマトをミンチにしているわけではない。いやそれはそれでおいしいのかもしれないが。
夕希君のほうだが、まだ本人も記憶が戻っていないようだった。夕希君は、私が買って来たRPGのゲームをやっている。こうやって見ると、どこにでもいるような少年である。私が彼をじっと見ていることに気付いたのだろう。手を休めて、私のほうを見る。そして、とんでもないことを口走り始めた。
「永見さんは佐原さんと付き合っているんですか」
「はっ?何を言っている?」
あれと?まあ、少しは美人であることは認めよう。料理も人並みに出来ることも認めよう。だが犬のキチガイだ。犬好きじゃなく、犬キチなんだ。
「佐原さんと付き合うなんてことはほとんど有り得ない」
「でも、毎日この家に来てますよね」
「違う」
君と二人にしておくと、佐原さんが何をしでかすかわからないから、監視のために来てるんだ。よく考えろ。アレと夕希君を二人にしていたら夕希君がどんな目に合うと思っているんだ。首輪や耳だけではなく、今度は肉球や尻尾までつけられる可能性があるんだぞ。
「えっと、でも職場でも一緒に」
「違う」
誰も彼女と組みたがらないから、私が組んでやっているだけだ。普段の彼女は仕事に関しては不真面目で遅く、オフィスの腫物のように扱われているので、それなりに仕事ができる私と組んでいるのだよ。
「でもそれだけで……」
ああっ!もうしつこい!
「夕希君!もういいだろ。」
彼は私の注意に目をぱちくりさせた。最初は私が突然、大きな声を出したことに驚いたのかと思った。だけど、私は自分の言葉を思い返す。彼を本名で呼んでしまった。だから、驚いたのだ。
「ゆうき?」
夕希君が首をかしげながら私の呼んだ名前を反芻する。まずい。どうする?
「……ジャックという名前は佐原さんが、昔、飼っていた犬の名前だ。さすがに犬と同じ名前で呼ぶのは悪いと思ったから、名前を考えていたんだよ」
もう、嘘八百を並べるしかない。自然に「ゆうきくん」と呼ぶことになった理由を違和感なくすらすらと話そう。少し、考えてから、一息ついて私はまくしたてた。
「まず、君の名前を私は知らない。だが、ジャックとも呼びたくない。純潔純粋な日本人である君を英国人の名前で呼ぶことに、私は何というか遠慮があるからだ。だから、ずっと新しい名前を考えていた。だが、私は君のことを何も知らない。連想させようにも、何も連想させるものが無かったら考えようがないではないか。だから!私はある時、気づいた。君のことを考えている時、いつも「君」と心の中で呼んでいることを。ここで、英語で君とは「YOU」と発音する。まず、君の名前には「ゆう」とつけることにした。名前的には「ゆう」でも全然発音には問題ない。純粋な日本人風の名前だ。だが、それでは物足りない!後、残りの「き」が何処から来たのかが気になるよな。最初に会った時、君は言ったな。「どこから来たか、もう覚えていない」と。その言葉から私は君のことをこう評することができる。「君は何処からか来た子供」。そこから、「君」と「来た」を取る。そしたら、君は「ゆうきた」君だ。だがこれではゴロが悪い。それで最後の「た」を削除させてもらった。よって、君は「夕希君」。記憶が戻るまでは「夕希君」と呼ぼうというのだ」
喋り終わった私は、一息ついて椅子に寄りかかる。私が一気に喋り続けたせいで夕希君は話の内容を飲み込めなかったのだろう。ポカンとした顔をしていた。ううむ、そんなまともに話を受け取ろうとしているような表情でいられると、その、非常に困る。
「永見さんも変な事言うねえ。「YOU」も英語なんだから、どこが日本人風の名前なのよ」
調理が終わったようで、佐原さんが台所から出てきた。どうやら途中から話を聞いていたようである。そして、まさかの突っ込みを入れられた。
言われてみたらそうだ、「YOU」も英語だった!って違う。そんなことはどうでもいい。
「佐原さんも、今の話を聞いていたのかい」
私は動揺しながらも佐原さんに尋ねる。
「聞いてたわよ。ゆうきちゃん。いい名前じゃない。私もこれからそう呼ぶわ」
「えっ。ジャックは?」
「だって、ジャックは前の子の名前だけど、新しい私の子は前の子とは違うしね。やっぱり、ちゃんとした名前で呼んであげないとかわいそうじゃない」
この発言に突っ込みたいところは何か所もあった。まず、夕希君は君の子ではない。後、ジャックと呼んでたのも君だけだ。かわいそうとかお前が言うな。
このやり取りで皆、私の失言も忘れて夕食を食べ始めた。メインがトマトソースのハンバーグに簡単なサラダと味噌汁、それと白いご飯だ。くそっ。こんなやつの料理なのに上手いじゃないか。なんか悔しいぞ。夕希君のほうを見ると彼は本当においしそうに食べていた。
食事が終わってから、私は夕希君と今やっているゲームについて語っていた。佐原さんは食事の片づけ中だ。どうやら、夕希君はRPGのゲームはほとんどクリア済みの状態らしい。そうなると、新しいのを買ってあげた方が良いのかなあ。
「でも、こいつが倒せないんだよ」
話は聞くが、私もやったこと無いゲームなのでよくわからない。かろうじて裏ボス的な奴を倒したいことは分かったのだが、ゲームのパラメータの見方もわからない私にとっては彼の話についていくのが精いっぱいだ。
そうやって雑談をしていると、食事の片づけが終わったのか、佐原さんがやってきた。彼女の手には一つの箱があった。
「ゆうきちゃーん。プレゼントだよー」
なんと、この女にプレゼントをあげるという概念があったのか。というか、何でこのタイミングにプレゼント?
「いやあね。実はゆうきちゃんが来た直後から、この子に似合うものを探していたんだけど。なかなか良いものが無くってね」
夕希君が恐る恐る箱を開けると、中にはシルバーのネックレスが入っていた。ネックレスの本体は犬の顔を模したものではあるものの、普通にセンスの良いものだった。首輪じゃなくて本当に良かった。
「ハナお姉さん。ありがとう」
「いやー。どういたしましてー」
私は佐原さんのその反応に少し、変化を感じた。なんというか、ちゃんと距離を取った対応に見えたからである。今までなら夕希君がお礼を言ったら、「きゃー。かわいい」とかなんとか言いだしてハグするのが普通で、会話にならなかったのだが、今はちゃんと返事を返している。
それに、もう夕希君のことを、ジャックと呼ぶ気もなさそうだった。これも良い傾向だと思う。おそらく、犬のジャックを失った悲しみも癒えてきているのだろう。これなら、夕希君がもし、突然いなくなっても、錯乱したり、別の子供を誘拐すると言った奇行に走ることは無いように感じられた。
だから、私は佐原さんの方はもう心配しなくてもいいなと思った。
残る問題は夕希君のほうだ。彼にいつ真実を告げるべきか私は悩んだ。だが、今日も話すには早いと思った。彼に事実を受け止める力はないと思ったからだ。だが、
「そろそろ潮時なのかもしれんな」
思わずぽろっと口に出していた。私の言葉を聞いていたのか、夕希君が怪訝な顔をする。私は「何でもない」と笑いかけると、彼も笑ってくれた。
この時、私は真実を夕希君に告げるのが怖かったのだと思う。彼がどんな表情をするのか。どれほど悲しむのか。それを想像するたびに私の方こそ事実を受け止めきれないかもしれないという思いがあったからだと思う。
今、思うと、この日に全部話しておけば良かったのだ。
そうすれば、後であんな面倒なことに巻き込まれなかったのに。