弱気と勇気と暗夜の森と
ビリビリと身体に叩きつけられる黒竜の咆哮は、距離をおいて隠れ見るオレたちを突き抜け、さらに背後の森が内包する夜の闇をも震わせていった。
その森の中から、驚いてパニック状態になったのであろう鳥の群れが、けたたましい鳴き声をあげて夜空へと飛び去るのが月明かりに黒く浮かび上がって見える。
狂気に墜ちた中でも当然苦しみは感じるのであろう……オレたちの視線の先で漆黒の大角は、幾つも枝分かれをするようにパキパキと軋みながら伸び、さらに体表を覆う鱗状の魔素は表面を棘状に変化しつつある、その急激な変貌の苦痛に黒竜は太く長い首を自ら捻って苦悶しているようであった……
だが変わったのは外見だけではない、遠目からでも否応も無く感じ取れていた黒竜の内側より噴き出しているどす黒い憎悪が、あたかも実体化して黒い霧となっているような錯覚に陥るほど強烈に吹き付けて来始める……まさしくイルビスの言った、竜の形をした狂気という言葉そのものであるようだ……
「ヤツが動き出すぞ」
気付かぬうちにいつの間にかオレのすぐ横に来ていたウォルトさんが、身を低くしながら目だけは黒竜を追い続けつつ小声で鋭く言った、その巨躯に似合わぬ俊敏さに併せて気配を絶つ術も心得ているようである……不意に声をかけられたので少々驚いたが、そんなこと言ってる場合ではないであろう、オレも黒竜の動きを注視すべく再び目を凝らした、すると……
魔素による変貌もようやく終息を迎え苦痛も和らいだのであろう、黒竜は捻っていたその長い首を高く持ち上げて周囲を見回し始め、やがて何かを見つけた様子でとある方へと向き首の動きがピタリと止まる……
その黒竜が見据えている先……その方向を確認したとき、オレの心臓は最悪な予感に跳ね上がった……衝動にまかせて木の陰から飛び出そうとする肩を、しかしウォルトさんの大きな掌が素早くガシッと掴んだ。
「あ……アイツ……村の方を……」
自分でも驚くくらいの情けない声が出た、オレ一人が飛び出したところでどうにもならないであろうことは判りきっている、だが、あの狂気の塊のような黒竜が村へと向かえば、どのような大惨事になるのかも考えずとも判ることである……
しかし判っていながらもどうすることもできぬのであった……しっかりと肩を掴んだ掌に動きを止められながら、オレの思考は無力感で完全に空回りしている……ただ見ていることしかできぬそんなオレの視線の先で、黒山のような姿はゆっくりと首を向けていた方向へと躰を向け、そしてとうとう脚を踏み出し移動し始めた……
「呆けている場合ではないぞっ!」
ウォルトさんの鋭く厳しい声がオレをハッ! とさせた、ズシンズシンと地を揺らす重い足音を響かせて岩場を去りゆく黒竜の後ろ姿を、オレはただただ呆然と見送っていたのだ……
「で、でも……あんなのとどうやって……」
考えも無しに飛び出そうとするのを止められてからは、そんな消極的な思いで頭が一杯であった、だがそれも止むを得ないとすら感じてしまう……ファイの光弾もイルビスの使役する精霊の力も、半分ほどの体長しかない子竜にすら歯が立たなかったのである……その子竜は捨て身で大岩を落としてなんとか仕留めることはできたが、あの黒竜に同じ手が通用するとはとても思えなかった……こんな状況で対峙したとしたら、こちらに犠牲者が出る可能性が非常に高いであろう……だが、それだけは絶対に肯ずるわけにはいかない……
そういう思いが言葉の端に表れたのはオレ自身も自覚するところであった、案の定言うや否やウォルトさんの目がギッ! と険しくオレを見つめた、非難されて当然のオレはビクッと身を硬くする……しかしそのときである……
「竜とどう戦うかなどは、後に皆で考えればよいっ!」
ウォルトさんの横へ進み出たイルビスが凜と言い放つ。
「そうですっ! 私にも何かお手伝いさせてくださいっ!」
「そーよっ! 安全なトコで見てるだけなんて、もーイヤよっ!」
続いてサマサとローサが並んで言う、皆真剣な表情でオレを見ていた……そして……
「――どうするか、より、まず何を成すべきかを考えましょう、タクヤさん……私たちはあなたを信じてついていきます、でも、責が全て自分にあるとは考えないで下さい……私たちは私たちの望むままそうするだけです、ですから一番大事なことを見失わないで……」
両掌を胸前で合わせ握り祈るようにアリーシアが述べた、神気がフワッと優しく伝わってくる……
その女性陣を少し驚いたような目で見回したウォルトさんは、一つ大きく溜息をついた後、やれやれ参った……というように軽く首を振り改めてオレを見据える、その目からはもう険しさは消えていた……どうやら言いたいことを女性陣に全部言われたようである。
そしてオレはというと、まずガックリとうなだれた……情けない思考をしていた己自身に羞恥極まったのである……そして次に弱気を吹き飛ばしてくれた皆の想いに沸々と熱いものが湧き上がってきた……やがて顔を上げたオレの表情を見て、ウォルトさんのヒゲモジャの口元がニヤリと動く。
「イルビスッ! 次元の裂け目を子爵邸へつないでくれっ!」
ガラリと変わったオレの様子にハッとしながらも、イルビスが慌てて次元の裂け目を創り始める、すぐにオレはローサとサマサへ向かって言った。
「ローサッ、サマサッ、二人で館に戻って子爵に事情を説明してくれっ! それからフィリアたち護衛騎士とサラさんたちにも手伝ってもらって、村中に避難の準備をさせるんだ」
だが、それを聞いたローサが急に泣きそうな顔になって口を開いた。
「タ、タクヤはどうするのよっ⁉ あの竜と戦うんでしょっ⁉ 私ばっかり安全な役なのはイヤよっ‼」
こんな非常時ではあるが、ローサのこういうところが可愛いと感じてしまうのである……だがデレッとはしていられない、オレはローサとサマサへ真剣な顔で言った。
「これは一番重要な役目だ……建物や施設なんかはいくらぶっ壊されたっていい、でも、逃げ遅れて犠牲になる人が一人でも出ることは許さん、だからお前たち二人に頼むんだ……できるか?」
この言葉に役目の重要さを悟ったのであろう、息を飲んだローサとサマサの二人は、すぐに口元を引き締めて大きく頷いてくれた。
「よいぞっ! つながっておる!」
すぐにイルビスの声がかかり、夜の闇の中により黒く浮かぶ裂け目へと、急いで向かう二人の後ろ姿へオレは言う。
「フィリアたち騎士や村の人が増援に来ようとしても、絶対に来させるな……避難に徹しろと伝えてくれ……」
それを聞いたローサとサマサの動きが止まる、しかし振り向きはしなかった……微かに肩が震えているのが見てとれたが、背を向けたままコクリと頷くとそのまま次元の裂け目へと飛び込んでいく。
すぐに裂け目は閉じて線のように細くなり、やがてその線も消えていくのを見送っていると、突然バンッ! とウォルトさんのデカい掌がオレの背中を叩いた、肺から空気が押し出されてゲフッとなったが、驚いてそちらを見ると当のウォルトさんは大剣を肩に担いで楽しげにノシノシと森の中へ歩いていく、どうやら合格点をもらったようであった……
「よし、じゃあオレたちは……」
残ったアリーシアとイルビスが揃って頷く、全員が成すべきことを自覚して意思が統一されている実感があった、実に頼もしいかぎりである。
「黒竜を追跡する、できれば村へ入る前……少なくとも村の手前でなんとか進行を阻止する手段を考える……足止め優先、できる限り避難の時間を稼ぐんだ、無茶はするなよ?」
「はいっ!」
「お前が一番無茶しそうじゃがのう」
二人の対称的な返事にニッと笑うと、すぐさま先行しているウォルトさんを追うべくオレたちは、枝葉の合間から漏れる月光が斑に揺れる森の中へと歩を進めていった……
「いたぞっ、ここから見える」
ウォルトさんの低い声が耳に届いた。
あれからオレたち三人がウォルトさんに追い付いて先導してもらい、しばし進んできたのではあるが、当然道などあるはずもない夜の森の中を行軍するのは想像以上に難儀であった。
闇の中で倒木に足を取られ、枝に引っ掻かれ、終いにはどこをどっちの方角へ進んでいるのかすら分からなくなってしまうオレたちが、追跡対象としては本来最上級に楽な部類であるはずの黒竜をなんとか発見できたのは、ひとえに暗闇をものともせずにスルスルと進んで行くウォルトさんが先頭に立ってくれていたおかげである……
そのウォルトさんが指し示す方を藪の陰から、先程転んで顔に泥の付いたオレと、木の枝に思いきり引っ掛けてヒリヒリする胸を押さえているアリーシアと、長い髪に枯葉が数枚貼り付いているイルビスの三人が覗き込んだ……
「アイツ、さすがに森の中は進み辛いんだろうな……」
かなり遠目ではあるが、黒竜の脚と体の下半分ほどが立木の合間に見え隠れしている、巨体であるがゆえにやはり進行速度はさほどではないようであった……そして進んでいる場所はどうやら岩山の縁沿いであるらしい。
先程まで居た岩場もそうであったが、岩山を取り巻く裾は火山灰のせいなのであろう、森との間に僅かな雑草しか生えておらぬ、大小の岩がゴロゴロと落ちているだけの不毛な地帯が帯のように続いていた。
いくら巨体とはいえ森の木々をなぎ倒して進むよりは、多少遠回りになるがその荒地を岩山沿いに進む方を選ぶのは道理である、ならばオレたちも歩き易い荒地を行けば……などとはさすがに思えなかった、月明かりがあるとはいえこの夜の闇の中を、ほとんど遮蔽物のない荒地を進んであの黒竜を追跡するなど、もしヤツが気まぐれで逆行してきたら……と考えると、とてもじゃないが無理である。
なにはともあれウォルトさんのおかげで発見できた黒竜を森の中から眺めつつ、このままヤツが荒地沿いに進むと村のどのへんに出るのかとしばし思考を巡らせた……そしてその結果、オレは慎重に口を開く。
「ヤツがこのまま進めば……村へ出るのはあの牧場の近くになるんじゃないかな……」
頭の中にあるハナヤマ村の地図を思い浮かべながら――とはいっても湖、村、子爵邸、牧場、森林公園と森と岩山が、なんとなくこの辺かな……と配置されている大雑把なものではあるが――言うと、その言葉にアリーシアが同意する。
「はい、牧場の裏手に岩山の端が続いていたのを覚えています……牧場の横はすぐ森になっていましたので、進行方向から見てもおそらくそうなると思います……」
と述べ、イルビスもそうじゃのう……と頷く、皆がスイーツに浮かれていたあの状態でそこまで観察していたとはさすがアリーシアである、感心しつつオレは進み行く黒竜を側の藪の陰から窺い続けているウォルトさんに向いて頼んだ。
「ウォルトさん、ヤツに先行して牧場の前に回り込みたいんですが……そこでなんとか食い止められないか考えてみたいんです……」
すると身を屈めていたウォルトさんは少し考え込む様子であったが、やがてスッと真っ直ぐ立ち上がり、片手で大剣を地に突き立てつつオレへと向き直った。
「……うむ、村に入られれば収拾がつかなくなるのは目に見えているな……そうする他あるまい」
その言葉にオレたちも背筋を伸ばして立ち上がると、ズシンズシンと遠ざかっていく響きを耳にしながら、互いの顔を見つつ深く頷き合う、具体的な目標が定まり皆の目には決意の光が宿っていた。
「行くぞ、ついてこい」
短い言葉は時間的余裕が少ないことを示唆しているようであった、告げてすぐ森の暗闇に溶け込んでいくウォルトさんの大きな背中を見失わぬよう、オレたちも慌てて後ろに続き再び鬱蒼とした夜を進み出す……




