現出と子喰いと変貌と
「岩山のあの場所じゃっ、絶壁のすぐ横に境界面が最も歪む場所ができておるっ!」
イルビスが指し示す岩肌を、オレたちは森の木の陰に隠れて覗き見ていた。
つい先程から低い地鳴りがずっと続いているのである、イルビスが曰く、境界面に強烈な力が加わってその振動が地面に伝播しているという……ウォルトさんの言っていた竜の親が、こちら側へ出ようとしているのは間違いないようである……
「さっきの竜の……最後の断末魔の咆哮が届いたんじゃないかな……?」
「そうじゃの……かなり強引にこじ開けようとしておるようじゃ……子を案ずる想いからの行動やもしれん……」
呟いた言葉に応えるイルビスの推測に、オレは言葉をグッと詰まらせた……村を護るためとはいえ、その子竜を殺したのは紛れもなくこのオレである……罪悪感が湧き上がってきて胸の奥の方がギュッと掴まれるように痛んだ……
「タクヤよ、お前、まさか竜の子を殺して申し訳ない……などと思っているんじゃないだろうな?」
そのとき、オレの心を見透かすような言葉が背後からかけられた、地に突き立てた巨大剣を持つウォルトさんである、振り返ると険しい視線がこちらへ向いていた……もちろんその厳しい視線は、村を護るためのオレの選択と行動に誤りは無かったんだぞ、という意味でのものであろう……
その察してくれている気持ちは嬉しいのであるが……やはり重い気分なのは変わらずに、オレはウォルトさんへとボソボソと話し始める。
「オレ……自分の行動を悔いてるわけじゃありません……でも、あの竜……恐竜っていうんですけど……大昔に滅んでいるハズの種なんですよ……もしかしたらさっきのヤツとその親が、生き残ってる最後の個体かもしれないと思うと……」
そう述べるオレの心中を理解してくれたのであろうか……溜息と共にウォルトさんの肩から力がスッと抜けた、目からは険しさが消え、それに代わった真剣な眼差しと諭すような口調の言葉がオレへと向けられる。
「タクヤよ……お前のその、これから戦うべき相手のことをすら慮る優しさ、ワシは嫌いではないぞ……だが……だがな、その優しさは戦いの中では命取りにつながる危ういものだ……」
親竜が現れると予測されている岩山を眺めていた女性陣も、いつの間にかオレたちの会話を黙って見つめていた……その中でウォルトさんは続けていく……
「己の甘さで己自身が命を落とすだけの話ならば、それはどうなろうともお前の責に於いて自由だ……しかし……負けることの許されぬ戦いではないのか……? 護らねばならぬものがあるのではないか……? ならば、非情にならねばならん時もあるのだ……迷いを捨てねば殺られるのはお前だぞ?」
ゴゴゴ……と徐々に大きくなる地響きの中、ウォルトさんへと向かい合ったオレは、やがて肩を落としてうなだれるようにコクリと頷いた……
踏み消した焚火の跡が薄白い煙を夜空へと立ち昇らせている、薄煙の消えていく先を見上げるとすでに岩山からその姿を全て現した月が、オレたちの眺める荒涼とした岩場と岩山にも茫と霞んだ蒼い光を静かに降り積もらせていた。
灰白色の火山灰質の地面に転がる大小様々な岩石が浮かび上がっているように見えるのは、蒼光が地へと創り出す真っ黒い影のせいであろう……森の木の陰から固唾を飲んで様子を眺め続けるオレたちの耳へ、やがてその音ははっきりと聴こえてくる……
――パキッ……パリパリッ……バリンッ!
硬質の薄い何かが割れ落ちるような音……無理矢理破られつつある境界面が裂ける音であろう……すぐにイルビスが押し殺した鋭い声を発した。
「――出よるぞっ!」
その声と同時であった……先にイルビスが指し示していた絶壁の横の岩肌が、一瞬グニャリと歪んだように見えた……そして……
バリバリバリィッ‼
耳をつんざく破壊音が大きく響き渡るや、歪んだ岩肌が割れた鏡のように粉々に砕け落ちた! いや、それは実際は岩ではなく境界面の破壊されたものではあろう……しかし次の瞬間には岩肌に、なんと言うことか……直径二十メートル程の巨大な穴が開いているではないか……
「う……あ……ひ、開いちまった……のか……?」
愕然と呟くオレの言葉に応えは無かった……皆もそのあまりにも巨大な穴に、呆然と見入ってしまっているのである……
それも当然であろう、次元の狭間から境界面を破って出て来るなど、イルビスのように負の領域の力の使い方を心得ている者以外には、相当の難事業であるのは想像に難くない……ゆえに無理に出て来るとなれば、必要最低限の大きさの出口になるのが道理である……
その必要最低限であるハズの出口が直径二十メートルもある……皆が眼前のその光景を信じられぬ思いで眺め、言葉すら失くすほど自失するのも致し方ないのである……
ズシン……ズシン……と、かなり距離の離れたオレたちへも振動が地を走り伝わってくる、緊張と恐怖感を湧き上がらせる強烈なプレッシャーが、まだ姿すら見えぬうちから暗黒の大穴の中よりビリビリと感じられてきた。
これはマズイんじゃないだろうか……先程かろうじて倒すことのできた子竜とは、比較にならない巨大な質量を大穴の奥に感じ、胸中に焦りが渦巻き始める……夢の中で薄闇に浮かんだあの姿……ウォルトさんの居た洞窟の通路には入ってこれぬほどの大きさだったという言葉……目の前に開いた巨大な黒洞……そこから今まさに地を伝わってきている振動……そして段々と強くなってくるとてつもなく凶暴なプレッシャー……
全てが最悪を指し示す方向へと向いていた、DNAの中に太古の祖先より継がれる恐竜への恐怖が刻まれてでもいるのであろうか……無意識の底から湧き上がってくるその恐怖感に逃げ出したくなる衝動を必死に抑えていたそのときである……
黒洞に満ちる闇が、そのまま外へ延びてきたかのような錯覚に捉われた……森の木の陰に隠れつつ、月の蒼く霞む光を頼りに遠目で眺めているオレたちの目に映ったのは、しかし次の瞬間にはそれが月光を弾いて硬質に輝く、漆黒の鱗にびっしりと覆われた巨大な竜の頭部であるのが認められたのであった……
炎の熱さえ発しているかのように燃える灼眼が、薄闇にそこだけ紅い光を曳いてゆっくりと進み出で、次いで鋭く長大な二本の真っ黒い角とそれに従うように生える多くの小さな黒角が続き、頭部、長く伸びた首、前脚、そして胴部と……悪夢が具現化したかのような禍々しい姿が徐々に現れてくる……
「ヒッ……ヒィッ……」
その光景に皆は愕然と釘付けになっている、口元を己でしっかりと押さえている手の隙間から、くぐもった小さな悲鳴を漏らしたのはローサであろう……オレ自身もまるで金縛りにでもかかったかのように、岩山へと身じろぎ一つすることもできずに目を奪われていた……
遠目でも判る……漆黒の鱗は頭部のみならず、ほぼ全身を隈なく覆っている……その身の動きに合わせて波うつように月光を跳ね返し、暗黒の光を放っているのだ……背の中心に沿って鋭く伸びる巨大な棘も、地を踏む太い脚の先に見える全てを切り裂くことのできそうな爪も、何もかもが禍々しく黒かった……
「ブラックドラゴン……」
熱に浮かされたようなイルビスの声が微かに聴こえる、それと同時に大穴から長い尾の先までが全てをこちらの世界に出現し終えると、ついに全貌を見せた黒竜と呼ばれたその姿は……
「よ、四十メートル以上あるぞ……嘘だろ……」
自分で発したとは思えぬ震えたかすれ声で、自身が恐怖に慄いているのだと改めて気付く……無理もないとは思う、先程ようやっとの思いで倒した子竜が全長二十メートル程であった……これは格が違うどころの話ではない……
何をどう頑張っても太刀打ちできるとは思えなかった、それほどまでに……今まさにこちらの世界へ出現し終えた、一億年前の地上の覇王とオレたちとの力の差は歴然としたものであると感じる……
すると、成す術も無くただ見ているだけしかできぬオレたち一同の視線の向こうで、その太く長い首を天へと立てながら、出て来たこちらの世界を確かめるように探っていた黒竜の首が、何かを感じ取ったようにグルッと絶壁の方へと向いた。
全員がハッ! と息を飲む……黒竜が首を向けた絶壁のその真下には、大岩で体を潰された子竜の無残な骸があるのであった……
すぐに地響きをたててゆっくりと、黒い光を乱反射させながら巨大な姿はそちらへと進み出て行った、言葉も出せぬオレたちは当然のごとく隠れながら眺めていることしかできない……
やがて黒竜は絶壁の真下に着き、岩山の影がかかってよくは見えぬが子竜の骸を見付けたのであろう……こちらに背を向けて首を下げ、子竜の体を分断するように押し潰している大岩の下あたりへ顔を突っ込んでいるようである……
そしてしばしの沈黙が薄闇の世界に訪れ、気が付くと自分の呼吸音すら耳障りに感じる静寂が辺りを覆っていた……その静寂を破ったのは、やがて聞こえてきた低く押し殺したイルビスの呻くような声であった。
「これは……まずい……まずいぞ……大変じゃ……」
見るとイルビスは血の気を失った青褪めた顔で、細かく震えながら黒竜を凝視している……
「どうしたイルビス? 何が大変なんだ? 一体何が起こってるんだ……?」
だが、尋ねてもこちらに目すら向けず細かく首を振るだけの彼女を見て、尋常ならざるものを感じ心臓が早鐘を打ち始める……あのイルビスがなかなか言葉を出せぬほどの恐慌状態になっている……並大抵の凶事ではないはずである……
「――あの黒竜の発する魔素が……急激に濃くなってきておる……」
やがて、それでもようやく絞り出すように告げたイルビスのその言葉に、カラカラの喉をゴクリと鳴らしたオレは泣きそうな震え声でさらに尋ねた。
「それって……どういうことだよ……あの黒竜はどうなっちまうんだ……?」
「先程教えたであろ、精神が負へと深く墜ちていっておるのじゃ……このままじゃと……」
「このままだと……?」
「このままじゃと……自我を失い……狂――」
イルビスのその言葉は途中で遮られた……絶壁の真下、黒竜の方から異様な音が聞こえてきたのである……
――バリッ……ブチブチッ……ボリッ……ボリボリッ……バリッ……
それはオレたちに、最大級の怖気を震わせるに十分な音であった……
岩山の影がかかり黒竜がこちらに背を向けているせいもあって、その様子がはっきりと見えないのはむしろ幸運であったと言えるであろう……だが、オレたちは全員がその場の光景を、最低最悪の描写で脳裏に思い描かなければならなかった……
「あ……あの音……あの音って……タクヤさん、まさか……」
イルビスの隣から、口元を手で覆ったアリーシアが呟く、声は震えており顔も恐怖と嫌悪の入り混じった悲壮な表情である……それも当然であった……絶壁の下から風に乗って届く音は、紛れもなく肉をちぎり骨を噛み砕き、それを咀嚼している音であるのだ……
「アイツ……喰ってやがる……子竜の死骸を……」
胃から逆流してくるような嫌悪感にオェッ……となりながら愕然と言うオレの言葉に、皆も口に手を当ててウゥッ……と込み上げてくる嘔吐きを堪えている。
だが――あの黒竜の、己が子の死骸を喰うという異常な行動は一体なんなんだ……?
ブチブチッ……と執拗に肉や内臓を噛みちぎる音が続く中、やがてそれが単なる捕食の本能によるものではないという気がしてくる……釈然としない何かが胸中に広がってきたオレは、ふとイルビスへと目を移した瞬間ハッと息を飲んだ……
口に手を当て、目を大きく見開いて微動だにせず黒竜の方を見つめるイルビスの、その白い頬には一筋の涙が伝い滴っていた……そんな彼女を見たオレは、途中で遮られた先程の言葉が脳裏に浮かび、その意味するものと黒竜の異常な行動の理由がつながり始める……
「もしかしてあれは……子竜を護ろうとする防衛本能の裏返しなのか……? 怒りというより……悲しんでるっていうのか……?」
黒竜の精神が負へと深く墜ちて行っていると、イルビスは言っていた……狂気に染まった食欲という本能を満たすだけの行動であるならば、深く墜ちていく理由としては薄い……急激に墜ちていくのであれば、そこには必ず激しい負の感情があるはずなのである……
しかしてイルビスはこちらに目を向けることもせず、そのまま黒竜を見つめたまま小さく頷いた……
「そうじゃ……あの黒竜も最初はまだ正気を保っておった……子竜の骸を認めてから魔素が膨れ上がりおったのじゃ……じゃが悲しみは今やただの引き金にしかすぎぬ……今は……今はもう……」
そのとき、続いていた咀嚼の音が突然止み、黒竜の頭が天の月へとゆっくりと持ち上がっていく……子竜の肉を食み骨を砕く音の代りに聞こえてきたのは、パキパキという不可思議な響きであった……
「――今はもう……完全に墜ちておる……あそこにおるのは、竜の形をした狂気じゃ……」
オレたちが見つめる先で、イルビスのその言葉を証明するがごとく、黒竜の角が蠢きながら大きく伸びていた……あの音は角が急速に伸びる音であったのだ……深く墜ちた精神の生み出す膨大な魔素のせいであろう、全身に貼り付いている漆黒の鱗もザワザワと波うち、黒竜の姿はより禍々しく凶悪な容貌へと変じ始めていた……
低い唸りが喉の奥でガロロロ……と鳴り出し、地獄から這い上がってきたかのような姿に変貌してゆく黒竜は、やがて真っ直ぐ天へと首を伸ばす……
蒼い夜空に怒号のような咆哮が響き渡った――




