時間軸と空間軸とキャンディと
「アリーシア、イルビス、教えてくれないか……?」
息絶えた暴竜を背にして皆の待つ場所へ歩み着くと、オレは一息つく間もなく二人の女神に尋ねた。
「はい……」
アリーシアが短く応える、オレの気分が落ち込んでいるのをやはり敏感に察知しているようである……先程まで泣いていたイルビスも、少し赤くなった目元を気にしながらこちらへ向き直って首を傾げた。
「洞窟の中から外へ出るとき、何かを気にした様子であの竜を振り返ってたよな……? アイツがイルビスの閉じた境界面を破って出て来れた訳と関係があるのか……?」
そう尋ねるや、二人は軽く息を飲んだ……どうやら何か知っているらしいのはそれで判った、なのでとりあえず岩場の真ん中から皆を促して森との境目に移動すると、円座になって腰を下ろしようやく一息ついたのであった。
もう夕陽も山の向こうへと落ち、茜色の空は落ちた夕陽を追いかけるように色を薄めて消えつつある、間もなく蒼い夜の闇が無数の星を引き連れて見上げる天空を覆うであろう……辺りの薄暗さも徐々にその濃さを増してきている。
「すみません……隠していた訳ではないのですが……確信が持てなかったんです……」
アリーシアが申し訳なさそうな声で切り出した、場もなんとなく沈んだ雰囲気である、戦闘に勝利した高揚感などというものは皆無であり、やはりいくらやむを得ない事情とはいえ、あの巨大な竜の命を奪ってしまったという事実がどうしても皆の気分を暗くしているのであった……
だが、オレとしてはここに集う皆がそんな風に思えるヤツらばかりというのが少し嬉しかったりもする、ここは努めて明るくしていかねばならないな……と思い直し、気分を改めて軽い口調で話し始めた。
「謝るこたないさ、急展開だったものなぁ……そのへんは気にしないでくれよ、んで、どんな訳があってアイツは外に出て来れたんだ?」
オレがいつもの口調に戻ったので幾分ホッとした様子のアリーシアであるが、いざ説明しようとして考え始めたのであろう、んん~……と目だけ空へ向けてしばし黙考するのだが、やがてチラッチラッとイルビスへと視線を移す……
上手く説明する自信がないのであろう……オレの方もなんか悪いこと聞いちゃったかな……という気にすらなってしまうのだが、そんなアリーシアの視線にハッと気付いたイルビスが慌てて引き継ぐべく口を開いた、実に良い姉妹関係である……
「え、え~とじゃな……私たちが気にしておったのは……角じゃっ!」
慌ててるせいか端的すぎてわからない……
「角……が、どうかしたのか……?」
「う、うむ……見たじゃろ? あやつの真っ黒い角を……あれはのう、魔素の塊じゃ……」
「魔素っ⁉」
素っ頓狂な声を上げて驚くオレに、比してイルビスは落ち着きを取り戻していつものペースで語り出す。
「そうじゃ、シグザールの魔王の角と同じじゃ……まあ、その密度と力の強さは魔王の角には遥かに及ばぬ劣化版であろうがのう……」
「え……じゃ、じゃあ、その角の力で境界面を破ったってことなのか……?」
「そういうことよの……私とねえさまはその魔素を感じ取って気にしておったのじゃ」
「で、でもなんで恐竜が魔素の角なんてものを持ってるんだ……⁇ そういう種族だったってことなのか⁇」
矢継ぎ早に尋ねるオレへ答えるイルビスであるが、この質問をした途端にその目がスッと伏せられる……そして何かをこらえるような声で続けた……
「魔素の角を持つ……それは精神が負に墜ちて反転したということじゃ……生まれながらに墜ちている生命などこの世には存在せぬ……」
そう言うイルビスの様子に言葉を失い黙ってしまったオレへ、彼女は深呼吸を一つすると再びいつもの調子で話し始める、幾分か無理をしているようにも感じられたが、そのことについて問う言葉をオレは持っていなかった……
「タクヤよ、お前が見た夢では洞窟の奥には湖があり、その湖水からは瘴気が感じられたということであったのう?」
突然の質問であった、ドギマギしながらウンウンと頷き確認のためにウォルトさんへ顔を向けると、それまで黙って興味深げに聞いていたウォルトさんも慌てて頷き口を開く。
「あ、ああ、その通りだ、洞窟の奥には地底湖が広がっている……しかし夢で見たというのは……なんともすごい話だな……」
ヒゲモジャの顎を撫でながら感心しきりの巨人へ満足そうに頷いたイルビスは次に、落ちていた木の小枝を拾い上げて地面にガリガリと線を描き始める。
全員が覗き込むとそこには真っ直ぐに横線が一本、そしてその横線にクロスする形で縦線が一本、いわゆる十文字が描かれていたのであるが……これは? と、問う皆の視線にイルビス先生の講義が始まった。
「この縦線を時間軸、横線を空間軸と見よ、交わる中点を原点として右側と上側が正の領域、左側と下側がそれぞれの負の領域と考えるのじゃ」
「ははあ……なるほど……座標平面ってことか……」
こちらの世界で物質界の数学っぽいモノをみるのはなんだか新鮮な感じがする……しかして、やはりここでローサとサマサが脱落した、覗き込む姿勢からトスンと後ろへ座り直し、並んでお空を見上げ始める……アリーシアはムムム~……と頑張ってついて来ようとしているようであるが、なんと驚いたことにウォルトさんはフムフムと頷いて内容を理解しているようであった……
「これはごく単純ではあるのじゃが、精神の位置を示す方法での……通常の生ある者の精神は時間軸、空間軸の両方に対して正の領域におるのじゃ」
そう言うと、縦軸横軸で四分割された座標平面の右上側、つまり両軸の正の範囲にガリガリと円を描くイルビスである。
「楽しいことをしておれば時間が経つのが早く感じられるであろ? 反対に嫌なことをしておれば時間は長く感じられる……そういうのが時間軸に対しての精神の位置であるのじゃ」
「なるほどなぁ……じゃあ、空間軸に対しては?」
「空間軸に対しては肉体に縛られておる限りは、精神はほぼゼロに近い場所におる、じゃがお前が遠く離れた洞窟を夢で見たように、肉体から遊離できる状況下では大きく正の方向へ移動することもあるのじゃ」
「な、なるほど……幽体離脱ってそういう原理だったのか……」
物質界のオカルティズムがこちらの世界では公然の科学であるということに多少のショックを受けつつも、納得せざるを得ないイルビスの説明であった、なんといってもオカルティズムの頂点ともいうべき女神様自身のお言葉であるのだ……
「次元の狭間を境にした二世界の中で、一般的に生きとし生ける者は常に正の領域に存在しておる、先へ前へと流れる時間の中でのみ生きており、空間に対しては正の方向へ流れる時間の中で速度を変えつつ移動をしておる、歩けば歩いた分だけ遠くへ進み、走ればより早く到着するであろ?」
「たしかに……でも、影渡りとかはどうなんだ……?」
「あれはセルピナや影の精霊の属性力を使った単なる移動法じゃ、ほんの数瞬で離れた場所へ移動するが、しかし瞬間的であれ時間は経過しておる、ものすごく速く走るのと大して変わりはないということじゃの」
ははぁ、なるほどなあ……と、大いに感心してしまう、だが今までの話はまだ序章も序章、ただの前フリでしかなかったということを、この先の講義を聞いたオレは痛感することとなった……
「そして本題はここからじゃ……」
突然微妙な緊張を含み始めたイルビスの言葉に、オレはハッとして顔を上げる……見るとイルビスの表情は少し硬く、ワザとオレと目を合わさないようにしているのであろうか……地に描いた図をジッと凝視しているのであった……
「人や女神の精神は……怒りや憎しみ、悲しみや絶望などという、いわゆる負の感情が極まると……負の領域へと反転する場合があるのじゃ……これは魔へ堕ちると表現されておる……」
「――!」
その言葉でオレは突然理解した、竜の角の説明をするということはつまり負の領域の説明をするということ……それは魔王となったシグザールと共に魔へ墜ちたと伝えられるイルビスが、彼女自身の現状を皆へ説明するのと同義であるということだった……どうりでアリーシアもイルビスも言い辛そうにしているわけだ……自分の配慮不足に対する後悔が急激に湧き上がってくる……
「いや……イルビス、あのさ……」
咄嗟に止めようとしたしたオレの言葉は、しかしスーッと地から上げられたイルビスの、真っ直ぐにオレの目を見つめる視線に遮られてしまう……
薄く微笑んだその顔と意志を湛えた目は、全てを承知の上で語るのだということをオレへと告げていた……それほどの覚悟が伝わる目であり、同時にその黒紅色の瞳は迷うことなく進むべき前をしっかりと向いていた……
「タクヤさん……イルビスに話をさせてあげて下さい」
アリーシアの静かな声がオレへ言う、少し寂しそうな微笑みを浮かべている彼女の顔を見ると、今回だけは止めないであげて下さい……ということなのであろう、二人の女神のそんな覚悟を見せられてダメと言えるハズもなく、僅かな逡巡の後……しかしオレは黙って頷いたのである。
「――精神が反転する……言うなれば墜ちるという現象は感情によって惹き起こされる……しかしそうなる条件は非常に複雑じゃ」
辺りもかなり薄暗くなってきたので、気を利かせたサマサとローサが枯れ枝を集めてきてくれ、円座の中心に小さな焚火が出来上がっていた、パチパチと音をたてて燃え上がるささやかな炎が、揺らめく影を創りながら暖かい光で皆の顔を浮かび上がらせている。
その中でイルビスの声が静かに続きを語り始めていった……
「世の中に日常的に溢れている怒りや憎しみ、悲しみなどではもちろん墜ちはせぬ……そんなことになればこの世は墜ちた者で溢れかえるであろうからの……ゆえに、特に今回のような、人のように豊かな感情を持つまでとは思えぬ竜の精神が墜ちるというのは非常に稀な事象であろう……その原因、タクヤは思い当たるのではないか?」
「やっぱり……あの地底湖の水……か?」
焚火を見つめて考えながらボソリと言ったオレの言葉に、イルビスは頷きながら。
「そうじゃ、瘴気を感じたという湖水……おそらく次元の狭間の瘴気が水へと溶け込んでおったのじゃろうの……その中で生まれ育てば精神が瘴気によって汚染されるのは必定……じゃが、見たところあの竜はさほど深くまで墜ちてはおらぬようであったのう……」
「そ、そんなことまで判るのか……?」
「タクヤは見ておるであろ……魔王と化したシグザールの骸を……」
うっ……と言葉に詰まるオレの脳裏には、およそ人間とはかけ離れた異形の姿で石の王座に座す、魔王シグザールの骸が想い出されていた……
「た、たしかに……あの竜はスピノサウルスじゃないか? って判別できるくらいの変化でしかなかったな……」
「うむ、元々生えるべき角が魔素に変質したのであろう所と、体表を覆っていた鱗状の魔素……大きな表面上の変化はそんなところであろうの……肉体をもって産まれてくる生命体は精神と身体の結び付きが強固じゃ、墜ちた精神の状態はそのまま身体に現れる……あの程度の変化止まりということは、自我を失うほど狂ってはおらんかったのじゃろうのう……」
「だろうな……かなり高い知能で、考えていた様子もあったもんな……」
「動物は本能に忠実な分、純粋でもあるしの……今回のあの竜は本当に特殊なケースと思っておくのがよいであろ……」
ふーむ……と納得の空気が場を流れる、オレとしてはここまででよかったのであるが、しかしイルビスの話はさらに続いた。
「そして肝心の、墜ちるという事象の説明じゃ……先程の図で説明するぞ? 見よ」
そう言うと小枝で先程地面に描いた図を指して。
「先程も言うたが、墜ちる……つまり精神が反転するということは、精神が負の領域にその場所を移すということなのじゃ、じゃが負と言うても軸は二本ある……」
そう言ったイルビスは、時間軸である縦軸と空間軸である横軸を交互に小枝で指している。
「ここで重要なのが、精神が反転する場合、まず必ず空間軸に対してのみ負の領域へと移るのじゃ、それは空間は時間の上に成り立っているゆえであり、時間が空間を支配しておるゆえなのじゃ……逆に言えば先に空間軸に対してゼロ地点、つまり限界点より墜ちて負の領域に入らねば時間軸に対しての負の領域には入ることができぬ……」
「な、なんだか急に難しくなってきたな……」
「解り易く説明してゆくと、時間というのは存在を許す概念じゃ、対して空間とは存在を続ける概念じゃ、万物は時間に存在を許されて発生し、空間にてその存在を続けてゆく、つまりじゃのう……」
そう言って少し考えたイルビスは、ワンピースのポケットに手を突っ込んでモソモソと何かを探ると……やがて何かをその中に収めているかのような握りしめた拳が出てくる、もう片方の手もそこへ添えて両掌で何かを包んだようにして皆の前へと差し出した。
「私のこの掌の中に何が入っておるのか……知っておる者は?」
キョトンと見ている皆を見回し、沈黙が続いて応えが返ってこぬのを確かめたイルビスは。
「私のこの掌の中は、時間、空間共にゼロの地点と考えよ、さすればこの中に時は流れておらず、ゆえに中にある物はその存在を許されておらん、また、存在を許されておらぬがゆえに空間にて存続することも許されておらん」
「そ、それって無いってことなんじゃないか……?」
「その通りじゃ、しかしそうではないとも言える」
「え……ど、どういうことだ……?」
まるで禅問答のようである……己の掌の包みを見つめながらイルビスは続けた。
「知る者が誰もおらぬ……誰からも認識されておらぬ……そう、存在するか否かすら……在ったとしてもそれでは意味が無く、在らざるとしてもまた無意味……時間に許されぬということはそういうことなのじゃ……じゃがの……それが世界に生まれたとき……」
白く華奢な指が動き、包んでいた掌が花のように開いていく……皆が見つめる前で掌の中の物が焚火の光に浮かび現れた……
「キャンディだぁ……」
ローサのぽわっとした声が場に流れる……そう、イルビスの掌の中にあったのは、可愛い包み紙にくるまれた小さなキャンディであった……
「時間に認められ、空間へと生まれた者は他と認識し合い、そして縁を持ち、やがて絆が生まれて互いに影響を深め合っていく……生命のあるものだけではない、無機物とて時間と空間より影響を受け、また影響を及ぼしながら存在を続けておるのじゃ」
そしてイルビスは掌の上のキャンディを見つめながら続ける。
「このキャンディを、今生まれてきた人や女神と考えよ……包み紙がその身体、そしてキャンディがその精神じゃ……通常は正の領域を流れる時間の中で、正の領域の空間にて存在を続けていく、しかしなんらかの原因でその精神が墜ちたとき……つまり正の領域から負の領域へと反転するときは、必ず限界点と呼ばれるゼロ地点を通過する……」
「え……そ、それじゃあ、いったん掌に包まれた状態へ戻るってことになるんじゃ……?」
「そうじゃ……それはつまり空間においての存在が消えるということじゃ……瞬間的ではあるがの……そしてまた次の瞬間には負の領域においてその存在が続いてゆくのじゃ……」
イルビスは掌の上のキャンディを一度両掌で包んで隠し、すぐにまた開いて見せる、その簡単な仕草の中に包み紙の中のキャンディが墜ちているという恐ろしい意味があるという……それを考えるとさすがに背筋を冷たいものが走るのであった……
「墜ちて反転した精神は、魔素を生成し続けるのじゃ……」
掌のキャンディを己の現身かのように見つめたまま、ポツリと言ったイルビスの言葉が夜の帳の中を静かに渡っていく……




