01
雨が降っていた。
今思えばあれは、“それ”が雨ざらしにあっても濡れていなかったことを警戒すべきだったのにそれをしなかった僕の好奇心と鈍感さが始まり。
僕は都内の某大学に通う大学生だ。
その大学は医学部で有名だが、僕は医学部以外偏差値の低いその大学の文学部に所属している。
文学部に入った理由っていうのも実に単純で、ただ文系で、他にやりたいことがないのが8割、残りは女の子に囲まれてのキャンパスライフを期待してのことだった。とはいえ文学部の女の子が夢中になるのは当然本学の英才医学部連中だったわけで、僕は僕のことを空気としか思っていない女の子に囲まれて講義を受けている。
まあこれはこれで、当初の目的は達成されているわけだ。
だけどまさか僕が、医学部のやつと仲良く(?)なるなんて、想像もしていなかった。
やつは名前を栗原と言った。
栗原はいつも僕のことをシロと呼んだ。犬みたいな名前だ。
出会ったきっかけ……思えばあのことがなかったら、知り合うこともなかったし、今ここまで彼に執着していることもなかっただろう。
あの日、雨粒が地面を叩きつけているというのに、アスファルトに落ちているそれが一滴の水滴も纏っていないことに興味を抱いた僕は躊躇わずそれを手にとった。
もしそれが濡れていたのならば、僕はそれを見とがめも、あるいは気づきもしなかっただろう。
それは一言で表せば手紙だった。
白い封筒の表にも裏にもなにも書かれておらず、それは僕が中を見るのを遠慮しない理由となり、そして同時にそれをした僕を後悔させるものともなった。
ミミズが張ったような字で書かれたそれは疑いようもなくラブレターであった。
それでも僕が読むのをやめて再び雨ざらしにすることをしなかったのは、その文才の悲惨さによるものが大きい。
このパソコンですらなくなろうとしている時代に手紙で告白というのだけでも重いのに、ありきたりな愛の言葉が並ぶ便箋は第三者が見ても羞恥に駆られて破り捨てたくなるものがあった。
ひきつりとも取れる頬の緩みを引き締めきれないでいると、
「おい」
後ろから不意に声をかけられて、そのだらしない顔のまま振り返った。
そいつの視線が手紙を捉えていることに気づき反射的に手紙を隠すも、僕の顔が中身を見たことを証明していた。
「なんでそれ」
僕の手元に注がれる怪訝そうな目つきで、これを落とした人物なのだと悟る。
「……あ、えーと落ちてたから……」
「落ちてたからって見んじゃねーよ」
すいません、という間もなく邪険に手紙を奪われる。
「ごめんなさい」
冷たい目で僕を睨みつける顔は、いつか見た邦画の有名俳優のように整っていて、見とれてしまっていた。
「……なんだよ」
見られていることに気づいたらしい彼は、ふてくされてそう言った。
「文学部ですか?」
まさかイケメンですねとは言えなくて、誤魔化して出てきたのはそんな他愛のない言葉。
「いや、医学部だけど」
どうして医学部が文学部の構内に、と少し驚いたけど、彼の人を卑下する雰囲気とか、文才の無さとかを鑑みると、疑うこともなく納得してしまうのだった。
「……それ、文学部の子に渡すんですか?」
思わずそんな言葉が口をついて出た。
「てめーには関係ねーだろ」
その言葉が僕が予想したあまりにもマニュアル通りのものだったから、僕の中で彼の存在が“大したことないやつ”に変わる。
「……始めの一文から、好きですはやめた方がいいと思います」
僕がここまで人に干渉するなんて思ってはいなかった。だけど、ここで彼が、また僕が予想した答えを口にしたのだとしたらもう僕はこれ以上彼に関わらないだろう。
「……は?じゃあ何だよ?医学部某ってでも言うの?そんなん言ったら気持ち伝わんねーよ」
「…………」
よく、分からなかった。だが、医学部という看板があるがために、彼がなんらかの苦悩を背負わされたのだろうということは想像に難くない。
「そんなこと言わなくても、気持ち伝えられますよ」
少なくとも、第一声で好きですと言うよりも彼に惹かれるであろう文章を、文学部である僕は書ける。
眉を顰めた彼と僕の距離が少し近づいたとき、僕らの奇妙な関係が始まった。