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絹の帯(1)

 曹節が血相を変えて劉協に会いにきた。

「蔡文姫どのが首を吊ったというのはまことでございますか!!」

「事実だ」

「何ということでしょう……」

「幸いにして命は助かった。これも天啓と言うべきか」

「陛下がいなければ蔡文姫どのの命はございませんでした。陛下は命の恩人でございます」

 曹節は叩頭して礼を言った。

「いや、朕も驚いた。先ほど会ったときには思い詰めたようには見えなかった。辺境の地にいる子供のことを思って嘆き悲しんでいたが」

「それが原因とは思えませぬ。この件はなにか邪な匂いを感じます」

 曹節は頭をあげて、

「あとで蔡文姫どのに理由を聞かないわけにはいきませぬ」

「いや、しばらくは一人にしてやれ」

 劉協は言った。

 蔡文姫を発見したとき、その衣服はぼろ雑巾のように破れていた。

 それは目を覆いたくなるほどの無残な有り様であった。

 ひょっとすると、劉協たちと別れたあと誰かに襲われたのではあるまいか。

 しかも、この宮中において。

「陛下。何か隠しておいでですか?」

 劉協は動揺した。

「隠しておいでなのですね」

「い、いや、う、うむ……」

「蔡文姫どのの身になにか不幸があったのでございますね」

 劉協は返事をしなかった。

「何があったのか教えてくださいませ」

「朕の口からは言えぬ」

 曹節は愕然として、

「言えぬほどのことがあったのでございますね」

 劉協は目を伏せた。

「蔡文姫どのは襲われたのでございますか」

「う、うむ……」

 言葉を濁す劉協だが、生来の育ちのよさのためか隠し事があまり得意ではない。

 それにいつかは露見してしまうことである。

「なんということでしょう……」

 曹節の目から涙が止まらない。

「その凶賊はいったい誰ですか」

「それもまだわからぬ」

 翌日、曹節に会うとすっかり憔悴していた。

 一晩中泣いていたらしい。

「蔡文姫どのの夫には病で倒れていると伝えております」

「そうか」

 侍女がやってきて、夏侯惇が来たと伝えた。

 劉協が嫌な顔をすると、

「私が呼んだのでございます」

 曹節が言った。

 夏侯惇が来た。

「火急の用と聞いて飛んでまいりましたが」

「蔡文姫どのが首を吊ったのです。しかもこの宮中で」

「なんですと!!」

 隻眼の将軍もさすがに驚きを隠せなかった。

「陛下のおかげで幸いにも一命は取り留めましたとのことですが……」

 夏侯惇は絶句した。

「今日会ったときには、とても思いつめているようには見えませんでしたが……」

「将軍、もっと近くに」

 曹節は夏侯惇を息の臭いがわかるほど近くまで呼び寄せた。

 そして小声で、

「乱暴されたかもしれないのです」

「なっっ!!」

「将軍、お静かに」

 曹節は低い声で言った。

「詳しい事情はまだわからないのです。蔡文姫どのにじかに話を聞いていないのですから」

「それでは話を聞きに参りましょう」

「朕も行く」

 蔡文姫のいる部屋に来た。介抱している侍女が応対に出た。

「蔡文姫どのは無事ですか?」

 曹節が心配そうに訊ねると、

「はい。ふたたび間違いを起こさぬよう寝ずに見張っております」

 三人は部屋に入った。

 蔡文姫は侍女たちに囲まれて布団のなかで横たわっていた。劉協がやってきたと知ると上体をおこし布団を出ようとしたが、

「そのままで」

 曹節が蔡文姫の肩を押さえて言った。三人には椅子が用意された。

 蔡文姫はすっかりやつれていた。魂の抜け出た生きた骸のようであった。

「お加減はどうですか?」

 曹節が訊ねると、

「このたびはご迷惑をかけて……。生きて会わせる顔もございません」

「薄情なことを言わないでください。私たちを置いて死のうだなんでひどいですわ。それに残される蔡文姫どのの夫や子供はどうなるのですか」

 蔡文姫は返す言葉もなかった。

「昨日会ったときにはとても思い悩んでいるようには見えなかった。あれから何かあったのですか?」

 夏侯惇が問うも、蔡文姫は答えない。

 身体が小刻みに震えている。

「あれから誰かがあなたを襲ったのですか?」

 蔡文姫は布団を強く握りしめた。

「だとすれば捨て置くわけには参りませぬ。宮中の警護の責任者は曹洪です。さっそく曹洪に命じてその不届き者を捕まえて処刑しましょう」

「それは……」

 蔡文姫が小さく首を振った。

 察した曹節が、

「男の前では話せない事柄がございます。二人きりにしてくださいませ」

 劉協と夏侯惇は部屋を出た。

「この尊い禁中で女性を襲うとは何という忌々しいやつ、八つ裂きにしても飽き足りませんな」

 劉協は一言も発しなかった。

 夏侯惇は退出した。

 それから伏皇后の部屋に立ち寄った。健康を取り戻したとのことである。

 伏皇后に会うと、具合はどうかなど取りとめもないことを話した。それから、

「二人きりで話したいことがある」

 劉協は人払いを命じた。

 侍女が引き下がると、話を切り出した。

「誰とは言わないが、そちの侍女が曹節のことを呼び捨てにしていた」

「それが何が?」

 劉協は唖然とした。

「曹節はあの曹操の娘ではあるが、いまは宮中の人間でもある」

「だとしてもあの女どもは漢王朝を滅ぼすために送り込まれてきた刺客のようなものです。そんなことで侍女を処罰するなんて私は許しませんよ」

「処罰するなどとは言っておらぬ。物事には序列というものがある」

「曹操は宦官の子孫でございます。その娘が後宮に嫁ぐというだけでもすでに本末転倒」

 伏皇后は喧嘩腰である。

 ここ最近は顔を合わせるたびに険悪な雰囲気になる。

「そんな険しい顔をするな。この宮中で陰気な事件が起こって気が滅入っているというのに」

「事件? 何かあったのですか?」

「蔡文姫という女性が首を吊ったのだ」

「まあ」

 伏皇后は驚きの声をあげた。

「蔡文姫といえば学識と音楽の才でもって知られる女性。そのような女性がなぜ……」

「わからぬ。が、この宮中において誰かに乱暴されたかもしれないのだ」

「すぐに調べさせて逮捕なさいませ。そのような鬼畜が歩き回っているのかと思うと夜も眠れませぬ」

「かもしれぬ、だ。今のところは断言できぬ」

 と、犬の吠える声が劉協の耳に届いた。

「犬?」

 おもわず劉協は呟いた。

「闘犬でございましょう」

「闘犬?」

 劉協は闘犬を知らなかった。

「犬同士を戦わせて遊ぶのです。どちらかが死ぬまで戦わせるのだそうです」

 それを聞いた劉協は嫌な顔をした。

「まさか、そなたの侍女がか?」

「いいえ。警備の兵士たちでございます。金をかけて遊ぶのだそうで」

「野蛮なことだ」

「戦うために育てられた犬ですから、とても大きい犬ですわ。人間などあっという間に噛み殺すそうですわ」

 伏皇后の部屋を出た。

 ほどなく、曹節が会いにきた。

 怖い顔をしていた。

「どうだったか?」

「陛下。お願いがございます」

「どうした?」

「蔡文姫どのにもう一度会ってくださいませ」

「それは構わぬが、蔡文姫は話してくれたか?」

「いいえ。陛下の前ですべて打ち明けるそうです」

「そうか」

 劉協は答えたが、どうやら曹節にはなにか思い当たることがあるらしかった。

 蔡文姫のいる部屋に着くと、すでに布団から出て服を着替えていた。二人がやってくると跪いて拱手した。

「先ほどはお見苦しい所をみせて申し訳ございませんでした」

「何があったのか朕に教えてくれるそうだな」

「それは言えませぬ。それを言うなら舌を噛み切って死んだほうがましでございます」

「思い出したくもないほど辛い目に会ったのか」

 しみじみと劉協が言うと、

「畏れながら陛下の考えているような生やさしいものではございませぬ」

 血でも吐くような苦悶の表情で、蔡文姫は言った。

「男どもに手込めにされた程度のものではございませぬ。ですが、何があったのかを言えを仰せならば、いっそ舌を噛み切って死んだ方がましでございます」

「し、しかし……」

「ですが、私にひどいことをした人物の名を申し上げることはできます。伏皇后でございます」

「まさか! そもそも皇后は具合が悪く……」

 言いかけて、やめた。

 ひょっとして、伏皇后は仮病だったのではあるまいか……。

 具合が悪いのに、自室で寝ていないというのはよくよく考えてみれば不自然である。

 伏皇后が劉協に何か隠しているように思われた。

「だが皇后に何をされたのか言わなければ詰問することもできぬ」

「それでよろしいのでございます。皇后は尊いお方、これは私の胸のうちに秘めておけばいいことでございます」

 とうとう蔡文姫は我が身に何が起こったのか言わなかった。

 部屋を退出した劉協の心に強いわだかまりが残るばかりであった。

 曹節も自室に戻ると言った。

「沐浴します」

 劉協がわけを訊ねると、

「屈原に会って事の真偽をたしかめます」

 屈原といえば楚の詩人で、曹節が読んでいた『楚辞』の作者である。

 戦国時代の政治家でもあり、秦の張儀の謀略を見抜いて懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して石を抱いて入水自殺した。

 しかし、五百年も前の時代の人間である。

 会えるはずがない。

「本気で言っているのか?」

「もちろん肉体はとうに滅びていて会うことはできません。ですから北方玄武の女宿をかたどった祭壇をつくって西王母に祈り、夢の世界で屈原に会うのです。屈原は剛直の士で曲がったことは大嫌いですから、詩文を愛する蔡文姫どのの身に起こった凶事を知れば、必ずや力になってくれるでしょう」

 劉協はわけもわからないまま去っていった。

 ひょっとして曹節はおかしくなってしまったのではないか……そう思うと夕食も喉を通らなかった。

 夜になっても胸騒ぎが静まらない。

 気になって仕方がなかった。

 寝室に入っても眠れずにいると警護の兵士が中に入ってきた。

 伏皇后のお付きの侍女も一緒であった。

 寝室に入ってくるとは、よほど火急のことでもあったのか。

「大変でございます」

 伏皇后の侍女は声を震わせて言った。

「皇后さまの様子がおかしいのです……」

「容態が良くなったのではないか?」

「いいえ、そういう事ではないのでございます……」

 劉協は伏皇后の部屋に向かうことにした。

 部屋に近づくと、なにやら獣が吠えるような声が聞こえてくる。

 じつに不快で、一度聞けば二度と聞きたくないような声だった。

「あの声はいったい何事か?」

 すると侍女は目を伏せて、

「皇后さまの声でございます」

 と答えたものだから、劉協は愕然とした。

 劉協が部屋に飛び込むと、皇后は髪を振り乱して狂乱していた。侍女が必死に宥めようとするも皇后は聞かない。

「犬が! 犬がやってくる! 私のところに!」

 伏皇后は叫ぶ。

「いつからこのようなのだ?」

 劉協が訊ねると、

「夜眠るまでは皇后はお元気でした。それが……」

「嫌じゃ! 私はあの女と同じ目には合いとうない!」

「あの女とは誰のことだ?」

 侍女たちの顔色が蒼ざめた。

「さ、さあ、私どもには……」

 侍女たちは白を切るが、あきらかに事情を知っているらしかった。

「犬が襲ってきて……。ああ、あの女の時のように!!」

 伏皇后は口から泡を飛ばしながら叫んだ。

「犬が、犬が私に覆いかぶさるのじゃ!! あの女の時のように!! 私は人だ!! あの女のような尻軽女ではないのだ!! 私は帝をささえる貞淑な妻であり……」

「皇后さま!!落ち着いてくださいませ!!」

 侍女たちはあわてて口をふさぐ。

 すると伏皇后は侍女の手を噛んで抵抗したので、侍女のひとりのとっさの判断で己の衣服から絹の帯を外して猿ぐつわを噛ませた。

 が、なおも伏皇后は荒れ狂って抵抗をやめない。

 狂気をもつ人間の発する力はすさまじいもので、侍女が数人がかりでも押さえつけることができない。

 まるで悪夢である。

 これが夢なら、はやく現実に戻りたかった。

「このことは朕のほかには誰かに言ったか?」

「陛下だけでございます」

「誰もこの部屋に近づけるな。そしてこの件は他言無用」

「心得ました」

 劉協は沈痛な面持ちで部屋を出た。

 寝室に戻ると入り口に曹節が待っていた。

 まるですべてを見透かしていたかのようだった。

「そなたの仕業か?」

「何のことでしょうか」

「とぼけずともよい。すべてわかっているのであろう」

 曹節は護衛の兵士たちを横目でみて、

「人が聞いております。中ですべて話します」

「いや、よい。朕はもう疲れた」

 劉協は寝室に入った。

「今回の件は、詩神がお怒りになったのでございましょう」

 劉協は振り返った。

「皇后が朕のもとに嫁いだときはあれほど苛烈な性格ではなかった」

 曹節は黙って聞いていた。

「父の伏完は人格者であった。父の性格を受け継いでくれればよかったのだが……」

 そして、首を振った。

「まだここに来たばかりのそなたにはわからぬだろうが、宮廷の毒を吸い続けるとああなってしまうのだ」

「でも蔡文姫どのは関係ございません」

 強い口調で曹節は言った。

「皇后さまは私どもが憎いのですわ。父の血を引いた私たちが。蔡文姫どのがあのようなひどい目にあってしまったのは、私と親しいからだけですわ。私に手を出せば父が黙ってないでしょうから、友人の蔡文姫どのに八つ当たりしたのですわ。それも人の振る舞いとは思えない方法で。卑怯ですわ」

 曹節の目には憤りの眼差しがあった。

「それに陛下は誠実だとは思えませんわ」

「朕がか?」

「はい。皇后さまをかばっておいでですわ」

「それは皇后は朕の妻だから仕方なかろう……」

「そうでしょうか? 陛下は皇后さまのことを愛しているからではなくて、『妻』だからかばっているように思えてなりませんわ。皇后さまは自分が陛下の『妻』であるから何をしても許されると思っているのではありませんか?」

「それは朕の責任でもある。皇后をあのような性格にしたのも朕の不徳のなすところだ」

 劉協は嘆息した。その様子を横目でみていた曹節は、

「男というのは可哀相な生き物ですわ。女が駄目でもかばわなくてはならないのですから」

 つぶやくように言った。

「陛下、私と賭けをしませんか」

「賭け?」

「そう。賭けでございます」

 曹節はまっすぐに劉協をみた。

 ぞくりとするような眼差しであった。

「申してみよ」

「陛下は皇后さまを愛しておいでですか」

 劉協は、

「愛している」

 と、一瞬の間を置いてから言った。

「では、皇后さまは陛下のことを愛してらっしゃるのでしょうか」

「それは無論信じている」

「それでは私どもは身を引きましょう。皇后さまが陛下を愛しているうちは」

「なんだと?」

「その代わり皇后さまが陛下を愛さなくなったら、願いをひとつかなえてくださいませ」

「どのような願いだ?」

「必ずかなえてくださると約束なさいますか」

「約束する」

「それでは申し上げます。陛下が欲しゅうございます」

「朕をか?」

「陛下の子供を産みたいのでございます」

 それを聞いた劉協は恐怖さえ覚えた。

「なぜ朕の子を産みたい……?」

「父の命令だとお思いでしょうが、私は陛下のことを嫁ぐ前から知っているのです」

 それは有り得ない話だった。曹節が嫁ぐまでは面識がないのである。

「陛下のことは自分でもわかっているつもりでございます。味方のいない宮中で陛下がどれほど寂しい思いをなさっているか……。私は陛下のお心を慰めるために嫁いできたのでございます」

「朕に会う前から、なぜ朕のことを知っておる!?」

「夢の世界で。夢なら誰にも邪魔されずに会うことができますから」

「まさか……」

 曹節は退出した。

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