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砂塵(2)

「どうかしたのか?」

 劉協がわけを訊ねると、

「いえ。何でもございませぬ」

 と蔡文姫は気丈に振舞おうとする。

 しかし、蔡文姫の心は乱れに乱れて、とても平常心を保てそうになかった。

 劉協はそれを憐れに思った。

「思い出すのも辛いか。悪かった。もう言わぬ」

「申し訳ございません」

 蔡文姫は謝ったが、涙が止まらぬ。

「陛下は蔡文姫どののことを思って仰ったのです。陛下が気に病む必要がございませぬ」

「う、うむ……」

「陛下。蔡文姫どのは匈奴の地に子供を残しているのです。それが哀しくて泣いているのです」

 それを聞いた劉協は驚いた。

「一緒に帰ることはできなかったのか?」

「匈奴の王族の血を引いているため、母とともに暮らすことを許されませんでした」

「年はいくつになる」

「上は十四歳、下は九歳になります」

「故国に帰ることは嬉しいが、愛する子供と離別しなければならないとは。運命というのは残酷にできているものだ」

「そんな心の隙間を埋めてくれたのが、父の学問と公主の愛情でございます。公主にはずいぶんと慰めていただきました」

「そうであったか」

 戦乱の世には蔡文姫のような女が、たくさん出てくるものだ。

 いたたまれない気持ちになった劉協は、ふと、曹節の傍らに木簡が置かれているのに気がついた。

 詩文であった。王粲が書いたものである。

 王粲といえば曹三姉妹の婚姻を打診にきた人物である。

 劉協はそれを読んだ。

 題名は『七哀詩』とあった。





西京 乱れてみち無く

豺虎さいこ まさに患いをかま

復た中国みやこを棄てて去り

身を遠ざけて 荊蛮けいばん

親戚 我に対いて悲しみ

朋友 相追攀はん

門を出づるも見る所無く

白骨 平原をおおえり

路に飢えたる婦人有り

子を抱きて草間に棄つ

顧みて号泣の声を聞くも

涕をふるいて 独り還らず

「未だ身の死する処を知らず

何ぞ能くふたりながら相完からん」と

馬を駆って之を棄てて去る

此言を聴くに忍びざればなり

南のかた覇陵のおかに登り

首を廻らして長安を望む

悟りぬ 彼の下泉かせんの人の

喟然きぜんとして心肝を傷ましむるを


長安の都は乱れて姿かたちもなく、

人の皮をかぶった獣が害悪を撒き散らしている。

戦乱をさけるため都を捨てて去り、

辺境の地に逃げようとする。

親類は別離を嘆き、

友人は追いすがって引きとめようとする。

門を出ると荒廃のため何もみえず、

白骨が野原をおおっている。

途中で飢えた婦人が、

抱いた幼子を草むらに捨てていた。

号泣する姿に何度も振り返るも、

婦人は泣きながらひとり立ち去った。

「わが身すらどこで死ぬのやらわからない、

どうして親子二人が無事に生き延びられよう」と。

馬上の私は立ち去った。

これ以上婦人の言葉を聞くのを耐えられなかった。

長安の南、覇陵の岸に立ち、

振り返って長安を眺め下ろす。

悪政をなげく『詩経』の「下泉」篇の作者の気持ちがよくわかった。

まさに胸をかきむしられるような思いであった。




 読んでいるうちに、劉協も悲しくなってきた。

 人の心を打つ名文とはまさにこのこと。

 劉協の目にも涙が浮かぶ。

「私、その詩が大嫌いでございます」

 不意に、蔡文姫が鋭い声で言った。

「なぜだ?」

「女は、子供を捨てたくて捨てたわけではございませぬ。その詩には婦人に対する侮蔑の念が込められているような気がします」

 劉協は『七哀詩』を読み返した。

「気のせいではないか? そもそもこの『七哀詩』を書いた王粲はそなたの父親の弟子であろう」

「面識はございませぬ」

「この詩のどこが婦人を侮蔑しているというのだ?」

「最後の(詩経の『下泉』の作者の気持ちがよくわかった)というところでございます。まるで婦人は無学で愚か者のように罵っているではありませぬか。男は女を手綱をとりやすいように家に閉じこめて学問をする女は小賢しいと言っておきながら……」

「蔡文姫どの。これ以上陛下を困らせてはいけませぬ」

 笑いながら曹節がたしなめると、己の無礼に気づいた蔡文姫は平伏して失礼を詫びた。

「ぶしつけな発言、お詫びのしようもございませぬ」

 やがて蔡文姫が去ると、

「蛮族の血を引いているとはいえ、我が子との別離は辛かろうに」

 劉協は嘆息するばかりであった。




 蔡文姫はすっかり取り乱していた。

 一人きりになっても胸が閉めつけられるような思いがする。

 我が子を捨てて中原に戻って何年になることか。

 さすがに王族の人間ゆえ邪険に扱われているということはないだろう。

 幸せに暮らしていると信じたい。

(子と別れた母親の気持ちは母親にしかわからない)

 いつも血涙の思いとともに生きている。

 砂塵の舞う辺境の地まで離れていても、夷狄の血を引こうとも、我が子は我が子。

 万感きわまってまたむせび泣いていると、兵士たちが近づいてきた。

「陛下がお呼びです」

 劉協とはつい先ほど別れたばかりである。

 何か言い忘れたことでもあるのだろうか?

 蔡文姫は兵士たちの後についていった。

(おや……?)

 先ほどまで劉協や曹節がいた部屋と方角が違う。

「陛下のおられる部屋とは方角が違います」

 蔡文姫が問うと、

「陛下がお呼びです」

 兵士たちが冷たい石のような声で返事するばかり。

 蔡文姫は怪しんだ。

 やがてとある部屋に着いた。

 先ほどまで劉協と曹節がいた部屋とは違う部屋だった。

 中に入ると誰もいない。

 なかの部屋をみると煌びやかな調度品があちこちに置かれている。

 しかし、劉協の部屋ではないだろう。

 蔡文姫は先ほどまで劉協といたが、

(どうも趣味が違うような気がする……)

 皇帝とはいえ、劉協はもっと質素な雰囲気であった。

 それに、部屋が悪趣味である。

 高価なものさえおけばいい、と言わんばかりである。

 こういう部屋に住む人物は、顕示欲がつよくて怪物じみているところがあるように蔡文姫は思う。

「この部屋はどなたが?」

 蔡文姫は問うが、兵士たちは一向に答えぬ。

 さらには蔡文姫にくっついたまま、離れようとしない。

 気味が悪くなってきた。

「陛下がおいでだ」

 やってきたのは劉協ではなかった。

 侍女と兵士を数名ずつ連れてやってきたのは、伏皇后であった。

 蔡文姫は伏皇后とは面識がない。

 いかなる尊い身分の人であろうかと思っていると、

「頭が高い」

 兵士が蔡文姫の脛を蹴り上げた。

 蔡文姫は悲鳴をあげてその場に倒れる。

 苦痛に歪む蔡文姫の顔。

 伏皇后は蛇の目のような不気味なまなざしでそれを眺めていた。

「蔡文姫とはそなたのことか」

 伏皇后は笑った。

 悪意の塊のような笑みだった。

「噂にたがわぬ下品な顔をした女よの」

「わ、私がなにを……?」

「なにを? 胸に手をあてて考えてみよ。そなたはもともと衛仲道の妻であった。が、死別したのち匈奴に拉致された。年頃の女が匈奴の男どもに拉致されてただで済むということはあるまい。そういう場合、婦人の取るべき道はただ一つ」

 兵士たちが近寄り、蔡文姫の髪を引っ掴んで顔を起こした。

「自害することよ。それが婦人の操をたてる道というものよ」

 兵士は、蔡文姫の腹を蹴り上げた。

 蔡文姫はさらに悲鳴をあげた。

「それが匈奴の左賢王の側室となって、二人の子を置いてのうのうと中原に帰ってくるとは。しかも、曹操の娘の曹節、いや、曹操本人とも交流があると聞いている。曹操ともすでに何かあったのではないのか?」

 言いがかりも甚だしい。

 たしかに蔡文姫は曹操と交流がある。

 二人で著名な学者であった父の著作の復旧にあたったこともある。

 しかし、曹操が身代金を払ってまで蔡文姫を中原に取り戻したのはその教養と楽曲の才を愛してのことである。

 曹操は、蔡文姫が中原に戻ると同郷の董祀に嫁がせた。

 曹操ほどの権力者ならば、蔡文姫をそのまま側室にすることも容易いはずなのである。

 だが、伏皇后はそうは思っていない。

「そなたは琴に巧みだと聞いているが、一番得意なのは男の前で股をひらくことではないのか?」

 伏皇后は蔡文姫を人間とは見ていなかった。

 禽獣以下の存在とみていた。

「こやつを暴室へ連れていけ」

 伏皇后は兵士に命じた。

 暴室、とは蔡文姫も知らない言葉であった。

 しかし、それがおぞましい場所であることは蔡文姫にも察することができた。

「お、お許しを……」

「殺しはせぬ」

 伏皇后は言った。

「この獣にも劣る女を本来の姿に戻してやるだけじゃ」

 兵士たちは蔡文姫の腕をつかんだ。

 そして嫌がる蔡文姫を強引に暴室へと連れていった。

 抵抗しても泣いても、しょせんは非力な女の力。

 蔡文姫の華奢な身体は静かな闇へと消えていく。

 それを眺める伏皇后の表情はとても幸せそうで満たされていた。




 劉協は曹節と夕食を二人でとってから曹節のもとを去った。

 曹節は劉協の姿が見えなくなるまで、頭を垂れてこれを見送った。

 劉協には向かう場所があった。

 伏皇后であった。

 劉協が伏皇后の部屋に姿を見せると、伏皇后のお付きの侍女たちはみな驚いた。劉協から伏皇后を訪ねることなど滅多にないことだからである。

「皇后はどこか?」

「存じませぬ」

 そう答える侍女たちはどこか怯えているように見えた。

 何事か隠しているように思えたが、劉協には思い当たるふしがなかったので、

「では待つ。そちたちは皇后を捜してすぐに連れてくるように」

 そう言って侍女たちを捜させると、すぐに伏皇后が戻ってきた。

 侍女たちに抱えられていた。ひどく気分が悪い様子で息も途切れがちである。

 劉協が驚いて、

「どうしたのだ?」

 と問うと、

「昼過ぎから具合が悪くなりまして、すぐ治るだろうと放っておいたところ熱がひどくなり悪寒も激しく、一人で歩くのも難しい有様」

 と伏皇后が言うと、

「食事に粥を差し出しても喉を通らず、医師を呼んだところでございます」

 と侍女も言う。

「そうか。それは休むがよい」

 劉協は伏皇后の部屋を出た。

 当初の目的を果たすこともできなかった。

(あの侍女たち……)

 夏侯惇らとともに畑を耕していたのを注進に及んだ侍女である。

 曹節を呼び捨てていたのである。

 憎き曹操の娘とはいえ、いまは後宮の人間。

 物事には序列というものがある。

 だが、侍女風情がそのような出すぎた態度を取るにはきっとわけがある。

 伏皇后が吹き込んでいるのであろう。

 侍女も問題だが、まずは主にこそ問題があると劉協は見ていた。

 だから、注意をしに言ったのである。

 とはいえ、病とあっては仕方がない。

 身体が癒えてから言えばよいことである。

 日が沈んできた。

 夜がやってきた。

 劉協は外に出た。

(今宵も蝋燭をたててまた本を読むのだろうか)

 曹節が本を読んでいたのはもっと夜更けだったような気がする。

 また夜がはじまったばかりである。

 本人に聞けばそれで済む話だが。

 劉協はふと視線の先を見た。

 我が目を疑う光景であった。

 劉協は腰の剣を抜いた。

 走った。

 帝位に就いてよりこれほど走ったことがあっただろうか。

 白刃をきらめかせて木の枝にくくりつけらた絹の帯を切った。

 身体が落ちた。

 抱き起こすと、まだ息絶えていなかった。

 絹の帯の首に巻きついた女性をみて、劉協は愕然とした。

 それは先ほど別れたばかりの蔡文姫のあまりにも無残な姿であった。

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