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砂塵(1)

 今日は曹節の部屋は訪れずにそのまま帰ろうとしたところ、宮女がやってきた。

 伏皇后つきの侍女である。皇后が帝に嫁いたときからずっと側にいる古株の侍女である。

「陛下に申し上げたいことが」

 劉協は、苦い顔をして先をうながした。

「じつは宮中で畑を耕している者がおります」

「ほう、畑」

 宮中で野良仕事をしている者など見たことがない。

 しかし、わざわざ注進におよぶほどの事柄でもないだろう。

「それが畑を耕しているのが夏侯惇でございます」

 劉協の目の色が変わった。

 夏侯惇といえば曹操挙兵以来の義眼の猛将である。

 曹操の寝室に自由に出入りできるただ一人の人物である。

「しかも、夏侯惇みずから鍬をもって畑を耕しているのでございます」

「一人でか?」

「付き添いの女がおります。その者と二人で畑を耕しているのでございます」

 ますますわからなくなってきた。

「その方、誰か連れて様子をみてまいれ。変わったことがあれば些細なことでかまわぬから朕に知らせるように」

 侍女は去った。

 程なく、その侍女が慌てて戻ってきた。

「二人だけではございません。曹節まで一緒に鍬をもって畑を耕しております」

 それを聞いた劉協は驚いた。

 宮中にやってきて畑仕事をする女など前代未聞である。

「朕が直々に見に行く。ご苦労であった」

「私どももお供いたしまする」

「いや、一人で行く」

「陛下は大事なお身体。万が一のことがあっては皇后さまに叱られてしまいます」

「では警護の兵士を連れてまいれ」

 劉協は警護の兵士を連れて畑へ向かった。

 夏侯惇といえば曹操のもっとも信頼する配下であり、臣従をこえた親友といっても過言ではない。夏侯惇よりも優秀な臣下はいる。しかし、猜疑心のつよい曹操が気を許しているのは夏侯惇くらいのものだろう。

 劉協はじかに言葉をかわしたことはないが、曹操の傍らに控えている隻眼の将軍は何度か見たことがある。

 本来ならば、曹操の息のかかった家臣など顔を見たくもない。

 だが、曹節が絡んでいるとなると話はべつである。

 気になる。

 これは想像だが、夏侯惇とともにいる女性というのは蔡文姫だろう。

 二人とも曹節と仲がよいと聞いている。

 しかし、それがなぜ宮中までやってきて畑を耕しているのか。

 わからなかった。

 この目でたしかめてじかに問いただしてみようと思った。

 畑にやってきた。曹節が耕している。ならんで夏侯惇と蔡文姫が畑を耕していた。

 まだ暑い七月である。

「曹節」

 劉協に気づいた曹節は、あわてて鍬を捨てて地面に平伏した。

 夏侯惇と蔡文姫もこれにつづいた。

「なぜ畑を耕している?」

「部屋に閉じこもってばかりでは身体が鈍ると思いまして」

「しかし、そなたは部屋に閉じこもって本を読んでばかりの生活を送っていると聞いた。土いじりをするなど初耳だ」

「それについては、それがしが進言いたしました」

 と、夏侯惇が述べる。

「曹家の公主であれば読書三昧の生活も許されましょう。しかし、陛下のもとに嫁いだからにはもはやただの娘ではございませぬ。民と同じように地を耕して汗を流して、自身で畑を耕して労働の尊さを知るべきだと……」

「くだらぬ」

「……陛下?」

「民はなぜ畑を耕している? 働くのがべつに好きなわけではない。食うためだ。耕さなければ飢え死にするからだ。道楽で畑を耕したところで民は感謝せぬわ」

 夏侯惇はうつむいて黙ってしまった。

「陛下。これは公主のお気持ちでもございます」

 そう言ったのは蔡文姫であった。

「どうすれば陛下に喜んでもらえるか考えた末でございます。豆を植えて、陛下に食べてもらおうと思って、このようなことをしている次第でございます」

「豆を作る?」

 しかし、本ばかり読んでいるような女が嫁いでくるなり畑を耕すとはどういうことか。

 劉協は曹節に歩み寄ると、その手を握りしめた。

 女の手にしては力強い。

 部屋に閉じこもっては本ばかり読んでいる女の手ではない。

 以前にも農民の真似事をしたことがあるのか?

 曹節はというと、恥ずかしそうにうつむいている。

「そうか。その気持ちはとても嬉しい」

 と言ったものの、劉協の心は不可解な気持ちが占めていた。

「あまり無理はせぬようにな」

 そう言って劉協は去った。劉協は背中で曹節の視線をずっと感じていた。劉協が視界から消えるまでずっと見守り続けていた。





 畑を去ったものの、劉協は曹節のことが気になって仕方がなかった。

 しばらくして、もう一度人をやって畑の様子を見に行かせた。

 すると、すでに農作業を終えたという。

 曹節は自室に戻ったという。

 顔が見たくなった。

 劉協は曹節の部屋に向かおうとした。

「しかし、まだご友人が一緒におります」

「夏侯惇がおるのか?」

「いえ、そちらは帰りました。いまは女が一人のみでございます」

 蔡文姫である。

 忌々しい曹操の配下の夏侯惇がいないのならば、気にすることもない。

 蔡文姫とも話したいことがあった。

 部屋に向かうと、侍女たちがあわてて曹節に知らせた。侍女たちはまだ劉協に慣れていない様子で、すっかり恐縮していた。

 中では曹節がとうの上に座り、蔡文姫が一段下の席に座っていた。

 いちはやく劉協に気づいた蔡文姫が退出しようとすると、

「そのまま」

 といい、自らも榻に上がって曹節の横に座った。

「畑仕事はどうかね」

「骨が折れます」

 曹節が答えた。

「やはり女の力はか弱いものです。夏侯将軍のおかげで助かりました。将軍は仁慈に厚いお方で、農民にまじって自ら鍬をふるうこともございます」

 劉協は蔡文姫に視線を注いだ。

「そなたの父親はたいへんな学者だったと聞いておる」

「恐れ入ります」

「異国の地では苦労したと」

 すると、穏やかだった蔡文姫の顔が強ばった。

 かつて蔡文姫は匈奴の蛮族に拉致されたことがある。

 左賢王の側室として異国の地で過ごした。

 その後、曹操が身代金を支払ったおかげで都に戻ることができた。

 それから蔡文姫は曹操が紹介した男と結婚して現在にいたる。

「さぞかし辛い思いをしただろう。が、都に戻れたことはよかった」

 蔡文姫は返事をしなかった。

 華奢な肩が震えていた。

 やがて蔡文姫は目頭を押さえた。

 泣いていた。

 声を震わせて泣いていた。

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