芙蓉の夜
婚礼が済んだ。
その夜、劉協は三姉妹の誰とも臥所をともにしなかった。
劉協はひとり、寝室にいた。
床についても眠れず、起き上がって外に出た。
劉協を守る役目の護衛の二名の兵士は、どちらも部屋の扉で立ったまま眠っていた。
二人とも重責を忘れて居眠りするとは、めずらしいことであった。
劉協は兵士たちを起こさず、そのまま外に出た。
夜空を眺めると、清水のように澄んでいた。
星々を仰ぎみていると、劉協は己に課せられた漢王朝の皇帝としての重責さえ忘れてしまいそうになった。
ふと、花の香りがした。
(はて……?)
すでに蒸し暑い季節である。この時期に馨しい香りを放つ花とはいかなるものか。
劉協は歩くことにした。
しばらくして、赤い灯がみえた。劉協は近づくと人の気配がした。
蝋燭を何本もたてて木簡を読んでいるのである。
近づいてみると、それは曹節であった。
曹節は木簡を読むのに夢中になっていたが、劉協に気づくとあわててその場に跪いた。
「これは陛下……。このような場所にどうして一人で」
「花の香りに誘われて、な」
曹節は周辺を見回した。
「花? この時期に……。芙蓉(蓮)でございましょうか?」
「そうかもしれぬ」
劉協は、曹節の読んでいる木簡を背中越しに覗き見た。
「それは?」
「『楚辞』の『離騷』でございます」
「なぜ部屋で読まぬ?」
「夜風に当たりたくて、部屋を出たのでございます」
曹節は微笑んだ。
「花の匂いがするとおもったが、芙蓉か。たしか芙蓉の咲きほこる池が近くにあったはず」
と、地面に靴が放り投げられていた。曹節は靴を履いていなかった。素足だった。
「なぜ靴を脱いでおる」
「裸足のまま草に座るのが好きなものでございますから」
奇妙な女だ、と劉協はおもった。
「陛下」
「何だ」
「今宵は一人でございますか」
「うむ」
「陛下は、私どもがお嫌いなのですか?」
それを聞いた劉協は目を丸くした。
劉協は、曹節の横に腰を下ろした。
「そなたたちが不憫だからだ」
「なぜでございます?」
「好きでもない男のもとに嫁いで」
「まあ」
曹節はかわいらしい声をあげた。
「陛下は私どものことを心配してくれているのですね」
口に手をあてて笑った。
婚礼のときはまったく気づかなかったら、笑うと娘らしい表情をする。
近づいてみると、目が大きくて眉が濃い。
手足が長く、指もほっそりとして長かった。
「くだらぬ事に気を遣うのはお止めくださいませ。それに私は劉家に嫁いだからには、もはや劉家の女でございます。父の政治の道具にされたなどという無駄な気遣いは不要にございます」
「その蝋燭はどうした?」
「持ってきたのでございます」
当然のように曹節が言った。
「侍女は?」
「いえ、私一人で」
「なぜだ?」
「寝ているのに起こしては可哀相でしょう」
「ふむ」
劉協はうなずいた。
「ところで、そちは人嫌いと聞いていたが」
「まあ、そのようなこと誰が話したのですか」
「皆が、だ。蔡文姫と夏侯惇には気を許しているが、ほかの者たちとはほとんど話さぬと聞いている」
「それは噂に過ぎませんわ。たしかに蔡文姫どのは文学について色々と教えてくださいますし、夏侯惇さまは裏表のないお方なのでたいへん好きですわ。でも、世の中は人の悪口を言うことが好きな人たちが多いことを忘れてはなりませぬわ」
「それについては朕も痛感しておる」
「それにしても、おかしな事でございます」
曹節は空を見上げた。
「婚礼の夜だというのに誰とも臥所をともにしないとは。皇后さまが何か仰いましたか」
劉協はぎくりとした。
「皇后は関係ない」
ふと、水の雫が劉協の頬を打った。
雨の気配である。
「たいへん。雨ですわ」
曹節は蝋燭の火を吹き消すと、木簡をしまい、靴をはかず裸足のまま宮殿へと走った。そして劉協のほうを振り返り、
「急ぎませんと濡れてしまいますわ」
劉協も早足で宮殿へと戻った。
二人が宮殿へ戻ると、雨は激しくなった。すさまじい豪雨となった。
「間に合いましたわ。一足遅ければ雨に巻き込まれるところでしたわ」
二人は安堵したが、どうしたわけか、曹節があっと低い声をあげて叫んだ。
「どうしましょう。靴を忘れてしまいましたわ」
すると劉協もあわてて、
「それは困った。誰かに探させるか」
「それには及びませぬ。あとで用意させれば済むことでございます」
「しかし、足に泥がついておる」
劉協は土に汚れた曹節の足を見た。
「いっそ、雨で洗いましょうか」
「そこで待て」
劉協は去った。しばらくして劉協がみずから水の入った桶と雑巾を持ってきたものだから、曹節は飛び上がらんばかりに驚いた。
「陛下!! そのような、恐れ多い……!!」
曹節が恐縮してその場に跪いて叩頭した。
「朕は生まれついての皇帝ではなかった」
劉協は溜め息をついた。
「かつては陳留王として帝をお守りする立場であった。それが時勢によって朕は帝位に就き、少帝は不幸にも崩御あそばされた。世の流れというのはわからぬものだ」
そう言って、劉協は雑巾を水に浸した。
曹節は帝みずからが雑巾を手渡したので、こめかみから冷汗が流れるような思いだった。劉協に促され、曹節は急いで足を拭いた。
足を拭くと、曹節は蝋燭に木簡、それに桶を担いだ。帝に仕える者として、帝みずからに桶を持たせるなどという肉体労働をさせるなど許されることではない。
「水は撒けておけ。重かろう」
曹節は外に水を撒けた。
劉協の部屋に着くと、兵士たちはまだ眠っていた。
二人は互いに顔を見合わせて笑った。
劉協が起こそうとすると、曹節が止めた。
「それには及びませぬ」
「では誰が朕を守るというのだ」
「私が守りますわ」
「卿がか?」
「はい」
曹節は近づいた。若い女の体臭が劉協の鼻腔をくすぐった。
「いや、それには及ばぬ」
「……陛下?」
劉協は兵士たちの肩をゆすった。
兵士たちが目をさますと、驚いた兵士たちはその場に這いつくばって己の非を詫びた。
劉協はそれを笑って許した。が、振り返ると曹節は恐ろしい形相をして兵士たちを睨んでいた。その眼差したるや、見る者の心臓が爪で引き裂かれるほどに恐ろしかった。
「ど、どうした?」
「……いえ、陛下。何でもありませぬ」
曹節はすでに何事もなかったような顔つきに戻っていた。なぜ曹節は怒っているのか? 兵士たちが職務を怠けて居眠りしていたからではあるまい。
「以後、気をつけるように」
曹節が言うと、兵士たちは地面を額に打ちつけて謝った。
「では、朕はもう眠るとする。卿もあまり夜更かしせぬよう」
そういって寝室に入った。
曹節は跪いて退出した。が、振り返って、
「帝は皇后に縛られておいでなのですわ」
ぎょっとして劉協は振り返った。
寝室を出て左右を振り返ったが、曹節の姿は煙のように消えていた。