1、鍵
鍵を手にすると、彼女の声が聞こえたような気がした。
不満気な声。
『また休日出勤? ご苦労様!
あなたは、私と仕事とどっちが大事なのかしらね』
俺は後ろを振り返った。もちろんそこに、彼女の姿はない。
「いつまでも慣れないな」
彼女がいなくなってから、もう三年が過ぎようとしているというのに、彼女のいない生活に慣れる事はなかった。
俺は玄関を出ると、鍵穴に鍵を刺し、回した。
カチリという冷たい音が響く。
駅へと向かう道のりは、夏から秋へと色を変えていた。
眩しいくらいに光輝いていた緑が、落ち着いた色をなし、今では路面に踊りだしている。
「秋か……」
呟くつもりはなかったが、つい口から突いて出た。
駅は平日と違って、人の波が少ない。
休日出勤といっても、給料が出るわけでもなく、サービス出勤なのだ。
一人で家の中にいたところで、何もせずに、日がな一日を過ごすだけだ。それなら、会社にいた方がよっぽど気がまぎれる。
以前は、家族のために仕事をしていた。どんなに、彼女に不満を漏らされても、仕事をしなければ家族を養ってはいけないのだから、仕方がないと言い含めてきた。
それが、今は自分をごまかすために仕事をしているのだ。
(結局、俺の人生は仕事だけか……)
自嘲気味に唇が歪む。
ポケットから定期を出し、改札を抜けた。
「落しましたよ」
背後で声がした。振り返ると、大学生だろうか、若く可愛い女性が手を差し出していた。
その手には、俺の大切なものが乗っていた。
「ありがとう。助かりました。これがなくなったら、大変だったよ」
女性はニッコリ微笑むと、会釈をして離れていった。
俺は女性から受け取ったものを握り締めた。
(これがなくなったら……)
三十年前。あの時も俺を呼び止める声で足を止めた。
「落しましたよ」
振り返ると、光り輝くような女性が立っていた。
そして彼女の手には、俺の財布が握られていた。
「あ! ありがとう、これがなかったら帰れなくなるところだった」
彼女は微笑むと、俺から離れて行こうとした。
「あの! お礼をしたいので、連絡先を教えてください」
「お礼だなんて」
「本当に、これがなかったら大変でした。このまま別れたのでは、俺の気持ちが許さない」
「でも……」
今思えば大胆だった。
誰だって、素性の知れない相手に連絡先を教えることはしない。それなのに、何とかして彼女との糸をつなぎたくて。彼女とあのまま別れてはいけないような気がした。
―――あの出会いが全ての始まりだったな。
彼女との糸を手繰り寄せ、やっと付き合ってもらえるようになってから三ヶ月が過ぎた頃だった。
「はい、プレゼント」
彼女の最初のプレゼントが、今手の中にある。
「なに?」
それは小さな箱に入っていた。
「開けていい?」
誕生日でもなければ、何かの記念日でもない。それなのに、彼女は楽しそうに俺に渡してきた。
「ええ、きっとビックリするわ」
一体何をプレゼントしてくれるのだろうと、ちょっとワクワクしたのを覚えている。
箱の大きさからして、ネクタイピンだろうか。それともカフス?
そんなことを考えながら箱を開けた。
そこには、金色に光る小さなハート型の鍵が入っていた。
「これは?」
「鍵」
「それは、見れば分かるけど。何の鍵?」
「さぁ。何の鍵かしらね。多分、あなたにしか使えない鍵だと思うわ」
意味深なことを言う彼女に、俺は悩まされ続けることとなった。
しかし、その悩みは心地よい悩みだった。
二年間の恋愛を経て、俺は彼女を妻にした。
そして、あの鍵はプレゼントされたあの時からずっと、家の鍵と一緒にキーホルダーにつけられてきた。
「あの鍵」
ある時、妻が唐突に私に言った。
「ん?」
俺は、読んでいた新聞から顔を上げると、妻の方へ視線を向けた。
「あのハートの鍵」
「あぁ、君の最初のプレゼント?」
「そう。あの鍵の使い方、分かった?」
「え?」
実際、俺にはあの鍵が何の鍵なのか分からない。どうみてもおもちゃの鍵だ。
「いや、分からないよ」
「そうかなぁ。あなたは分かるはずなんだけど」
そう言いながら笑っていた。
それにしても、なぜ鍵束につけてあったはずなのに、落ちたのだろう。
俺は不思議に思ってポケットの鍵を探った。
出てきた鍵は、キーホルダーのチェーンが切れて、バラバラになっていた。きっと、何かの加減でハートの鍵だけが落ちたのだろう。
ハートの鍵を胸ポケットにしのばせると、ホームに滑り込んできた電車に乗り込んだ。