芸術は生活の延長に存在する。
秋という季節から何を連想するかは人それぞれだろうが、メジャーなところでは芸術の秋であろうと思う。上野の国立西洋美術館を始めとする各種文化施設に人が溢れる季節が今年もやってきたという訳である。
行列に耐え、人の波を掻い潜りながら絵画や彫刻といった芸術作品の上に目を滑らせるという行為に興じていると、ふと芸術とはなんぞやという気持ちになることがある。
手元にある国語辞典で芸術という項目を引くと、ある様式・技巧などによって美を追求し、創造し表現する人間の活動と記載されている。具体的には、文学・音楽・絵画・彫刻・演劇・映画などが該当する。
芸術の定義で注目すべきは、それが「人間の活動」であることだと思う。美とは、文字通り美しいことという意味の他に、感動させるほど、立派で価値あることという意味がある。
美を感じる対象は天然・自然のものから、人工的なものまで幅広いが、人間の手が加えられていない、天然・自然のそのままの姿は芸術とは呼ばれないことになる。
人間を他の生物と分かつものとして「芸術」という言葉は大きな意味を持っていそうだ。古くから人間が芸術に血道を上げてきたのは、そこに種族としてのアイデンティティがあると考えているからだろうか。
美しいという言葉にも様々なニュアンスがあって、その意味を固定することはできないが、美しいという言葉から綺麗というイメージを連想することが多い。だが、綺麗なものだけが人を感動させるわけではない。それとは真逆のものにだって人は感動をすることがある。
感動する、何かに強く心を動かされるとはどういうことか。芸術というものを考えるにあたって最も大切なのは、自分の心のあり方に向き合うことではないだろうか。
世間で評価されているとか、歴史的な権威があるといったファクタを完全に無視することはできないが、少なくとも自分にとってそれが感動するほど価値があるものかどうかは、自らの心、感性によって決定されるべきことだ。誰それが傑作と言っていたとか、展覧会に人が押し寄せているといった情報は一旦脇に置いて、素直な気持ちで作品一つ一つに目を向けることが大切ではないだろうか。
自分の心、感性が何に感動するかということを追求していくと、普段の生活で自分が何を見て、思い、感じているかということに行き着く。心や感性というものは先天的に決まっているところもあるだろうが、日々の生活の中で後天的に形作られているものだと考える。
鑑賞者として芸術に触れるときに大切なのは、その下準備として、日々の生活を具に見つめ、自分の感動の源泉がどこにあるかということに思いを巡らせておくことだと思う。具体的にこうだというものを特定することまでは必要はないが、朧げながらでも感動のイメージを浮かべておくことで、作品への向き合い方も変わってくるだろう。
生活の延長に芸術というものを置いてみると、生活を無視した作品には価値を見いだせなくなる。何か高尚なものを作ってやろうとか、歴史に名を残してやると言ったような下心を持った人間の作品は、現実の風景から乖離し、どこか浮ついたものとなる。
日々の生活の中で生まれた切実な思いの表現として、芸術というものはあるのではないだろうか。その思いに共鳴したとき、鑑賞者にとってその作品は芸術となる。
芸術鑑賞において、自分の外にある作品に出会うことと、自分の内面と向き合うことは両輪になっているように思える。焦って作品を追い求める前に、一度深呼吸して自分の日々の生き方に目を向けてみることも大切だ。終わり




