メロディ~夏の終わりの録音~
メロディ~夏の終わりの録音~
<1>
押入れの奥から段ボール箱を引きずり出した。はじめ、太一はそれが何なのか、しばらく分からなかった。
実家の二階、かつて自分が過ごした六畳間。畳はすっかり色褪せて、隅のほうは日に焼けて白茶けている。母が施設に入ってからもう三年になる。売るにしても貸すにしても、まずは中のものを片付けなければならない、と姉に急かされて、太一は盆休みを利用してこの海辺の町に戻ってきていた。
東京の暮らしに慣れきった体には、蝉の声がやけに大きく聞こえる。窓を開けると潮の匂いがした。三十年近く経った今も、この匂いを嗅ぐと体のどこかが高校生だった頃に引き戻される気がする。もっとも、そんな感傷に浸っている暇はなかった。数日後には業者が入って、要らないものはまとめて処分してしまうことになっていた。
押入れの奥、布団の下に押し込まれていた箱は、思ったより軽かった。埃を払うと、油性ペンで「太一」とだけ書かれている。中を覗くと、ノートが数冊と、カセットテープが十本、そして二つ折りの色紙、これらが輪ゴムで束ねられて入っていた。
ノートの表紙には「交換日記」と書かれている。太一のものではない、丸みを帯びた字……真紀の字だ、とすぐに分かった。
カセットテープのラベルには、それぞれ日付や短い言葉が手書きされている。
「7月21日」「喫茶ポプラにて」「花火」「文化祭」「海にて」「帰り道」・・・そして、「最後」。九本は重なり合うようにして束の中にあったが、「最後」とだけ書かれた一本だけは、様子が違った。他のテープのように輪ゴムでまとめられるのではなく、黄ばんだ茶封筒に一本だけ、収められていたのだ。表には几帳面な字で「安西太一様」、住所はこの実家のものだった。隅には色褪せた切手が貼られ、消印には、三十年近く前の日付がかすかに読み取れる。裏を返すと、「井出次郎」と小さく記されていた。
封は、すでに開けられていた。ハサミか何かで切り口が入れられている。妙に丁寧な切り口だった。普段の自分なら、郵便物くらい手で雑に破いてしまうはずなのに。中身を確かめた記憶はまるでなかったが、確かに一度は封を切り、テープを取り出し、そしてまた戻したらしかった。
太一は少し眉をひそめた。差出人も宛先も、ずいぶん懐かしい名前だった。だが、その意味を考える気には、まだなれなかった。太一は封筒をそのまま脇に置き、ひとまず一番古い日付のテープを手に取り、階下に降りた。
物置に、まだ動くかどうか分からない古いラジカセが置いてあったのを思い出したからだった。案の定、電池は完全に液漏れしていたが、幸いACアダプタが見つかり、コンセントに繋ぐとオレンジ色のランプが灯った。
再生ボタンを押す。しばらくは、サーッというヒスノイズだけが流れた。テープの劣化を疑いかけたその時、遠くで扉の開く音がして、それから足音、椅子を引く音が聞こえてきた。
「……遅い、遅い」
若い声だった。太一はそれが康介の声だと、一瞬遅れて気づいた。今の康介の声は、もっと低く、太いはずだ。だがこの声には、まだ高校生のハリがある。
「悪い悪い、母ちゃんに買い物頼まれてて」
これは自分の声だ、と太一は思った。今よりずっと高く、間延びした喋り方。恥ずかしさに似た感覚が胸の奥をくすぐった。
「はいはい。真紀ちゃんもう来てるぞ」
「次郎は?」
沈黙。それから、
「知らねえ。まだじゃね」
それから若い女性の声……真紀だ。
「太一、遅刻」
と、からかうように言った。
「うっせえったら」
くだらない話が続いた。何を話しているのか、内容はほとんど覚えていない。誰かの好きな音楽の話、夏休みの宿題の話、テレビ番組の話。時折、けたたましい笑い声が起こる。何がそんなにおかしかったのか、今の太一にはさっぱり分からない。ただ、笑い声だけが妙に鮮明に耳に残った。
食器のぶつかる音。喫茶店のBGMらしき、乾いたピアノの音。サーッという白いノイズが部屋を満たす。数秒後、スピーカーの奥から、くぐもった笑い声とアコースティックギターの拙いコードストロークが流れてきた。
『おい康介、マイクに近づきすぎなんだよ』『いいだろ別に。これ、音拾えてんの?』『拾えてるって。ほら、真紀もなんか喋って』『……何喋ればいいのよ……バっカみたい』
高校三年の夏、安西太一、膳場真紀、千田康介、井出次郎の四人は、ノートの交換日記と、ラジカセで録音した「交換テープ」を回していた。
誰かがぽつりと言った。
「明日どうするよ?」
「知らね、まだ何も」
「暇だな、俺ら」
「暇だからいいんじゃんか」
会話が途切れた、ほんの数秒の隙間に、誰かが小さく鼻歌を歌っているのが聞こえた。歌詞はない。ただメロディだけの、低い鼻歌だ。誰の声かは判然としない。すぐにまた別の話題が始まり、鼻歌はかき消された。太一はその時、特に気にも留めなかった。ヒスノイズの向こうで、遠くを電車が通り過ぎる音がする。この町を走るローカル線の音だ。太一は目を閉じた。
そういえば、あの喫茶店はどこにあったのだろうか。名前は……ポプラ、とラベルにあった。「喫茶ポプラ」。駅前の商店街の角にあった店だ。今はもうきっと、跡形もなく変わってしまっているだろう。
テープはさらに続いた。話し声の合間に、ぽつん、ぽつんと、口数の少ない誰かの相槌が挟まる。それが次郎の声だということに、太一はしばらく気づかなかった。あまりに存在感が薄く、記憶の中の次郎の声と結びつかなかったからだ。
「……ねぇねぇっ、次郎くんは東京行くの?」真紀の声だった。
「……別に」
「別にってどういうこと?」
「まだ決めてない」
それだけだった。会話はまた別の方向に流れていく。次郎の声は、その後もほとんど聞こえてこなかった。太一はテープを止めた。窓の外では、蝉がまだ鳴いている。西日が畳に長く伸びていた。
来る日も来る日も一緒にいた四人。喫茶店に行って、誰かの家で音楽を聴いて、夜の公園でだらだらと喋って。たまには将来の話をすることもあったが、それはどこか他人事のような、実感の薄い話し方だった。大学に行くのか、そのために東京に出るのか、誰も本気で考えていなかったように思う。
そして、あの夏の終わりに、何かがあった。
海に行く約束をしていたはずだ。だが次郎だけが来なかった。電話をしても出なかった。結局、三人だけで海に行った。その日の帰り道、太一は康介と喧嘩をした。何が原因だったのか、正直よく覚えていない。取るに足らないことだったはずだ。けれどその頃を境に、四人は以前のようには集まらなくなった。
卒業式のことも、あまり覚えていない。次郎とは、それきり一度も会っていない。真紀とも、大学に入ってからは年賀状のやり取りが数年続いた程度で、いつしか途絶えた。康介だけは、この町に残って家業を継いだと、母から聞いたことがある。
三十年近く経って、あの夏のことを思い出そうとしても、断片的な記憶しか出てこない。海の眩しさ、麦茶の味、誰かの笑い声……。それだけだ。
それでも太一は、漠然と、あの夏が自分にとって特別なものだったと思い込んでいた。青春の終わり。取り戻せない何か。そういう言葉で、自分の記憶を整理してきた。
だが今、ラジカセから流れてきたのは、そんな美しいものではなかった。ただの、くだらない、何でもない会話だった。もう一度、再生ボタンを押す。サーッというヒスノイズの向こうで、十七歳の自分たちが、まだ何も知らずに笑っている。
<2>
翌日、太一は片付けの手を休め、再び交換日記を開いた。
大学ノートに、四人が順番に書き込んでいく形式だったらしい。日付は高校一年の冬から始まり、三年の夏、八月の途中で唐突に終わっている。
最初の数ページは、たわいもない内容だった。今日の授業がつまらなかったとか、誰それが先生に怒られたとか……。だが読み進めるうちに、太一は妙な違和感を覚え始めた。
自分の記憶の中では、真紀は自分に好意を持っていたはずだった。少なくとも当時の太一はそう信じていたし、三十年経った今も、漠然とそう思い込んでいた。
彼女が自分に向けた言葉、視線、態度……それらすべてを、恋愛のサインとして記憶の中で保存してきた。
だが日記を読み返すと、様子が違う。
<太一へ 「行こおと思う」じゃなくて「行こうと思う」ね。>
<太一 字がきたない。もう少し丁寧に書いて。読めなかったら意味ないじゃん>
真紀が太一に向けて書いた言葉の大半は、こうした、ほとんど国語教師のような訂正だった。優しさというより、単なる律儀さだ。むしろ彼女が柔らかい調子で書いているのは、別のページだった。
<次郎くんへ この前貸してくれた本、まだ半分しか読めてないの。ゆっくりでもいいかなぁ?急かさないでね>
<次郎くんの絵、また見たいな。今度持ってきて>
「次郎くん」……太一は目を疑った。真紀が次郎をそんな風に呼んでいたことは記憶になかった。次郎が絵を描いていたことすら、思い出せない。
太一は、押入れの箱からもう一本、別のテープを取り出した。「文化祭」とラベルにある。再生すると、雑踏の音、拡声器のノイズ混じりの声、その中で真紀の声が拾える。
「次郎くん、それ何?」
「……別に、大したもんじゃない」
「見せてよ」
少し間があって、
「……ま、いいけど」
「わあ、すごいじゃん。これ、屋上から見た景色?」
「……たまたま撮って、それを真似して描いただけ」
「やっぱ絵の才能あるよ、次郎くん」
次郎の声は、いつもよりわずかに弾んでいるように聞こえた。太一はその声を、もう一度巻き戻して聞いた。当時の自分は、この会話を隣で聞いていたはずだ。だが、まったく記憶に残っていない。
自分は何を見ていたのだろう、と太一は思った。真紀の視線が自分に向いていると信じ込んで、彼女が実際には誰を気にかけていたのか、見ようとさえしていなかったのではないか。
もう一本、「喫茶ポプラにて」というテープを再生する。太一と康介が、次郎について話している場面が録音されていた。
「次郎だけどさぁっ、あいつ最近なんか暗くね?」
康介の声だった。太一の記憶にある康介は、いつも明るく、冗談ばかり言う男だった。だがこの声には、どこか困惑の色がある。
「そうかな?いつもあんな感じじゃん」
太一自身の声。素っ気ない。
「いや、いつもより暗いよっ、何かあったんじゃね?」
「知らね。聞いてみれば?」
「……聞いていいのかな。でも機嫌悪いときに聞くと、余計こじれそうじゃん」
「んじゃあ、放っとけば?」
「んーっ、まあっ……そう、だな……」
それだけの、短いやり取りだった。だが太一は、そこに何か引っかかるものを感じた。康介は、次郎を茶化していたわけではなかった。むしろ気にかけていた。ただ、それをどう扱えばいいのか分からず、結局「放っておく」という選択に同意していた。
太一は当時、康介のことを「デリカシーのない、お調子者」だと思っていた記憶がある。次郎をからかっては笑いを取る、そういう役回りの人間だと。だが今聞き返すと、その印象はどうも違う。康介は、四人でいる時間の空気が壊れることを、誰よりも恐れていたのではないか。だからこそ、深刻な話題になりそうになると、冗談で場を和ませようとしていたのではないか。
太一は日記のページを繰り続けた。次郎の言葉は総じて短い。一文か二文で終わっているものがほとんどだ。
<今日は特に何もなし>
<みんなありがとう>
<また明日>
その素っ気なさの奥に、何があったのか。当時の太一には、考える発想すらなかった。次郎は「そういう奴」だと、決めつけていただけだった。
もう一本、「喫茶ポプラにて」の別の場面を聞いていると、店のラジオから流れる曲に合わせて、真紀と康介が声を揃えて歌っているのが聞こえてきた。当時よく流行っていた曲だった。太一もつられて歌っている。だが、その輪の中で、次郎だけは歌詞を口にしていなかった。よく聞くと、歌詞の代わりに、メロディだけを低く鼻歌でなぞっている。
「次郎くん、歌詞覚えてないの?」真紀が笑いながら聞いている。
「……覚えてるけど。歌うのは、なんか恥ずかしいから」
「それで鼻歌かよ」康介が茶化す。
「別に、いいだろ、どうだって……」
それだけのやり取りだった。だが太一は、次郎がその後も、事あるごとに同じメロディを口ずさんでいたことに、今更ながら気づいた。曲名すら覚えていないくせに、メロディだけは、体に染みついているように鮮明だった。
日記のページの隅、真紀の字で、こう書かれているのを見つけた。
<またあの歌、歌おうね。次郎くんの鼻歌つきでね。>
太一はしばらく、その一文を見つめていた。
そして、押入れの箱に戻していた、あの色紙のことを思い出した。今度こそ、開いてみようと思った。
二つ折りの色紙を広げると、クラスメイトらしき何人もの寄せ書きが並んでいた。なぜかそれは次郎に向けたものだった。「元気でね」「また会おうぜ」「新しい学校でもがんばってな」……ありきたりな言葉が、色とりどりのペンで書き込まれている。
その中に、見覚えのある字が三つあった。
康介の字は大きく、少し照れ隠しのような、ふざけた調子だった。
<次郎、元気でな!今度そっちの学校に殴り込みに行くからな、覚悟して待ってろよ!>
真紀の字は、丁寧に整っていた。
<次郎くんへ いつかまたあの歌、歌おうね。もちろん次郎くんの鼻歌つきで。忘れないでね。>
そして、自分の字。太一は、それを見つけた瞬間、息が止まりそうになった。
<次郎、元気でな>
たった、それだけだった。
たった六文字。それが、あの夏、自分が次郎に贈った、すべての言葉だった。
太一は色紙を持つ手が、微かに震えるのを感じた。……なぜ、これがまだ自分の家にあるのだろう。クラスメイトの寄せ書きなら、当然、次郎に手渡されているはずだ。それが、なぜ三十年近く経った今も、自分の押入れの中に、開かれもせずに眠っていたのか。太一はその答えをまだ思い出せずにいた。ただ、何か嫌な予感だけが、胸の奥に広がっていった。
窓の外で、夕方の蝉が鳴き始めていた。太一はノートを閉じ、束ねられたテープの残りを見つめた。「最後」と書かれたテープが、まだ残っている。
<3>
その夜、太一は「最後」というラベルの貼られたテープを、なかなか再生する気になれなかった。理由は自分でもよく分からない。ただ、何かを知ってしまうことへの、漠然とした怖さがあった。日記とテープを聞き比べるうちに、自分の記憶がいかに都合よく作り替えられていたかを、太一はすでに思い知らされていた。これ以上、何を知らされるのだろう。
結局、深夜になってから、太一はラジカセにテープを入れた。
海に行く前の夜、公園で録音されたものらしい。ヒスノイズの向こうから、虫の声が聞こえる。ブランコの軋む音。誰かが座り込んでいる気配。
「……なあ」次郎の声だった。心なしか、いつもより低い。
「ん?」太一自身の声が答える。
「明日、海行くやつ」
「そりゃぁ行くよ……だって約束したじゃん」
「……そうだな……」沈黙。虫の声だけが続く。「もう、最後だからな」
次郎がそう言った。太一は思わず、テープを止めた。もう一度、巻き戻して聞く。
「もう、『最後』だからな」
間違いなく、そう言っている。だが、その言葉の意味を、テープの中の太一は理解していなかった。
「何が最後?」と、当時の太一は聞き返している。
次郎は答えない。長い沈黙が続く。それから、話題を逸らすように、康介の声が割り込んでくる。
「腹減ったな。もう帰ろうぜ」
「……そうだな」
会話はそこで途切れた。だが、テープはまだ止まっていなかった。足音が遠ざかっていく気配の中、ごく微かに、あの鼻歌が聞こえた。歌詞のない、低いメロディ。前に聞いた時よりも、心なしか掠れて、頼りなく響いた。それが誰の声なのか、太一にはもう疑いようがなかった。次郎だ。その鼻歌が数秒続いたあと、ふっと途切れ、沈黙が続いた。
太一はしばらく、動けなかった。「もう、最後」……あの言葉は、一体何を意味していたのか。思い出そうとしても、当時の自分がどう感じていたのか、記憶はひどく曖昧だった。ただ、あの言葉を聞き流したことだけは、確かなようだった。次郎が何かを伝えようとしていたのに、自分はそれを受け止めなかった。
太一は、あの夏の後半のことを、断片的に思い出し始めていた。次郎は、その少し前から、様子がおかしかった。誘っても来ないことが増えた。来ても、口数がさらに少なくなった。誰かが冗談を言っても、笑わずに黙っている。
「康介が言うとおりあいつ、機嫌悪いのかなぁ」そう思っていた。苛立ちすら感じていたかもしれない。せっかく集まっているのに、場の空気を悪くする……そんな風に、次郎のことを厄介に思っていた自分がいた。
だが今にして思えば、それは違ったのではないか。次郎は何かを抱えていた。それをうまく言葉にできず、態度で示そうとしていた。誰かが「どうしたの」と聞いてくれることを、心のどこかで待っていたのではないか。
しかし、誰もそれを聞かなかった。聞けなかった。機嫌が悪いなら、そっとしておこう。それが、三人の……いや、太一の選んだ対応だった。
悪意はなかった。むしろ、次郎を気遣っていたつもりだった。だがその気遣いは、結果として次郎を孤立させた。
そして翌日、海に行く約束の日、次郎は現れなかった。電話をしても出なかった。
太一はあの日のことを、少しずつ思い出していった。三人だけで海に行った。誰も、次郎のことを本気で心配していなかった。むしろ、「あいつらしいよな、自分から誘っておいてさ」「またいつもの調子だろ」と、軽く流していた。
海から帰る道すがら、太一は康介と喧嘩になった。何が原因だったか……今になって、ようやく思い出せた。
「お前、次郎にちゃんと電話したのかよ」康介がそう聞いてきた。
「したよ、……したけど出なかったんだよ」
「本当にしたのかよ」
「だからぁっ、したって言ってるだろ」
たったそれだけの、つまらない言い合いだった。だが売り言葉に買い言葉で、互いに感情的になり、気まずい沈黙のまま別れた。
その喧嘩自体は、後日なんとなく解消された。だが、その頃にはもう、四人で集まる習慣そのものが、失われていた。次郎は誘っても来なくなり、そのうち誘うこと自体をやめてしまった。真紀も、受験を理由に距離を置くようになった。康介と太一だけが、たまに顔を合わせる程度になり、それも卒業と同時に途絶えた。
大事件ではなかった。誰かが決定的に誰かを傷つけたわけでもない。ただ、不器用な四人の時間が、静かに、自然に、終わっていった。それだけのことだった。
そして、太一はようやく思い出した。次郎の急な引っ越しの発表を、そのためのクラスの寄せ書きを……。それを手渡す役目を任されていたのは、自分だったということを。だが、海の件のあと、気まずさから次郎と顔を合わせづらくなり、渡すタイミングを逃したことを……。
「今度でいいか」「そのうち渡そう」……そう思っているうちに、次郎は町を去ってしまった。色紙は、渡されないまま、太一の机の引き出しに、そのまま忘れられていった。三十年近く、それを思い出しさえしなかった。
太一はラジカセの前で、長い間座り込んでいた。窓の外で、夜のローカル線が汽笛を鳴らして通り過ぎていく。あの頃と、同じ音だった。
<4>
千田康介の工務店は、駅から歩いて五分ほどのところにあった。母から聞いていた住所を頼りに歩いていくと、「千田建設」という看板の掛かった、小さな事務所が見えてきた。
「太一?太一だよな!」
事務所から出てきた康介は、記憶の中の康介よりずっと恰幅がよくなっていた。日に焼けた顔に、深い皺が刻まれている。だが笑うと、十七歳の頃の面影が確かに残っていた。
「久しぶり。急に来てごめんな」
「なにいってんだよっ、お前、東京暮らしなんだって?」
「ああ、母さんが施設に入っていてさ、実家の片付けしてるんだ」
「そうか……そりゃ大変だなぁ」
近くの自動販売機で缶コーヒーを二本買い、事務所の前のベンチに並んで座った。しばらくは、互いの近況を話した。康介は結婚して子供が二人いる、上の子はもう大学生だという。ひとしきり自分も近況を話し終えたところで、太一は切り出した。
「なあ、覚えてるか。高校の頃、四人でよくつるんでただろ。俺と、お前と、真紀と……」
「次郎な。覚えてるよ、もちろん」
「でさぁっ、実家の片付けしてたら、昔のテープが出てきてさ、それと交換日記」
「マジか。よく残ってたな、そんなもん」
太一はスマホを取り出し、録音しておいたテープの音声をいくつか再生した。康介は懐かしそうに、しかし時折驚いたように、耳を傾けていた。
「次郎のこと、覚えてるか。あいつ、あの夏、引っ越したんだよな。親父さんの転勤で……」
康介は少し考える素振りを見せた。
「……そうだったっけか?」
「テープに残ってるんだよ。引っ越しの発表の少し前にさぁ、『もう、最後だからな』って。あれ、引っ越しのことだったんじゃないかと思ってさ」
「ああ……」
康介は缶コーヒーを一口飲み、遠くを見た。
「そういえば、そんなこと言ってた気もするな。でも、当時は正直、そこまで気にしてなかったわ。あいつ、いつも何考えてるか分かんない奴だったし」
「お前、次郎のこと気にかけてたんじゃないのか。テープに『あいつ最近暗くね』って言ってるのが残っててなっ……」
康介は苦笑いした。
「言ったかもしれんな。でもよう覚えとらん。つーか、それ以上どうしたらいいか分かんなかったんだよ、あの頃は」
太一は頷いた。もちろん康介を責める気はなかった。康介以上に鈍かった自分には何も言えなかった。
「行ってみるか、昔の場所」康介が言った。「喫茶ポプラ、覚えてるだろ?」
「あそこ、まだあるのか?」
「いや、喫茶店はもうねえよ。コンビニになった」
二人は事務所の車で、駅前の商店街まで移動した。かつて喫茶ポプラがあった角には、康介の言う通りコンビニが建っていた。看板の色も、店構えも、太一の記憶とは何一つ結びつかない。
「学校も建て替わったんだってな」
「ああ、十年くらい前かな。今は新しい校舎になってる」
「公園は?」
「あそこはさすがに残ってる。ヒマラヤ杉も、変わってないと思うぞ」
二人はコンビニの駐車場に車を停め、缶コーヒーを買い足して、そこに座った。目の前には、記憶とはすっかり変わってしまった光景が広がっている。それでも、潮の匂いと、遠くを走る電車の音だけはあの頃と変わらなかった。
「俺たち、あの頃何を話してたんだろうな」太一がぽつりと言った。
康介は少し笑って、「そんなことより、あの頃は暇だったよな」と答えた。
「暇だったなぁ、本当に」
「毎日毎日、集まって、大した話もしないでさ。今考えたら、よくあんな時間あったなって思うよ」
太一は鞄から、あの色紙を取り出した。二つ折りのまま、康介に見せた。
「これ、覚えてるか。お前も書いてるだろ」
康介は色紙を広げ、しばらく黙って眺めていた。
「ああ……書いたな、こんなこと、俺。あれっ?でもこれ、次郎に渡したもんだと思ってたわ」
「それが……渡してないんだ……俺が、渡す役だったんだけど……渡せないまま、いや、渡さないまま俺が持ってたんだ、ひっでぇよなぁ、俺って……」
康介は何も言わず、色紙の中の真紀の字をしばらくじっと見つめていた。
「あの歌、覚えてるか。喫茶ポプラでよくかかってたやつ。次郎がいつも鼻歌で歌ってた」
「……曲名までは覚えてねえけど、メロディはなんとなく分かる気がするな。あいつ、歌詞覚える気なかったんだろうな、多分」
「なんでだろうな」
「さあな。歌詞にすると、恥ずかしかったんじゃねえの。鼻歌なら、誰にも中身がバレねえから」
太一は、その言葉に、何かが腑に落ちる感覚があった。次郎は、ずっとそうだったのだ。言葉にすれば伝わってしまう。伝わって、もし何も返ってこなかったら……。それが怖くて、メロディだけを、意味が分からないまま、口にしていた。
それ以上、次郎についての話は深まらなかった。二人は、それぞれの現在の生活について、もう少し話した。康介の息子の進路のこと、この町のこと、太一の仕事のこと。取り立てて重要な話でもなかった。
だが太一には、それで十分だという気がした。あの夏の謎がすべて解けたわけではない。次郎が今どこで何をしているのかも分からないままだ。それでも、康介と再会し、こうして缶コーヒーを飲みながら話せたことに、何かしらの意味があるように思えた。
夕方、太一は康介と別れ、実家へ戻る道を歩いた。駅前を通りかかると、ホームに古いローカル線が停まっているのが見えた。あの頃と、変わらない車両だった。
<5>
実家に戻った太一は、もう一度、押入れの箱を開けた。「最後」のテープを、もう一度ラジカセに入れる。今度は、最後まで聞くつもりだった。
虫の声。ブランコの軋み。次郎の声、「もう、最後だからな」。太一の「何が?」という問い。長い沈黙。康介の「腹減ったな」という声。そこで会話は終わっていた。
前回は気づかなかったが、テープには、まだ続きがあった。会話が途切れたあと、しばらくは無音……いや、無音ではなかった。よく耳を澄ますと、かすかな衣擦れの音、足音が遠ざかっていく音がする。それから、テープは一旦止まったようだった。だが、その数秒後、再び音が入っている。明らかに別の日、別の場所で録音された音だった。
駅のホームらしい、雑多な環境音。アナウンスの声は聞き取れないほど小さい。そして、発車ベルの音。それに続いて、電車が走り出す音。ガタン、ゴトン、という規則的なリズム。その音だけが、十数秒ほど続いて、テープは終わっていた。
太一は、しばらく動けなかった。これは、次郎が最後に録音した音だ、と思った。おそらく、引っ越しの当日、駅のホームで。誰かに聞かせるつもりだったのか?それは分からない。いやっ、でもきっとそうだ。だからこそ自分に送ってきたんだ。
太一には、その意味が、今なら分かる気がした。言葉にできなかったこと。「寂しい」とも、「行きたくない」とも、「もっと一緒にいたかった」とも、次郎は一度も口にしなかった。「もう、最後だからな」という、匂わせるだけの一言を残して、あとは沈黙で応えた。
誰かが「どうしたの」と聞いてくれることを、心のどこかで待っていたはずだ。だが誰も聞かなかった。次郎は、自分から素直に言うこともできなかった。もし言って、大して寂しがられなかったら……そう思うと、怖くて言えなかったのかもしれない。
そして、駅のホームで、次郎は一人、この音を残した。誰にともなく。あるいは、いつか誰かが聞くことを、微かに願いながら……。でも、太一はそれを聞かずにしまったままにしていた。
太一は、ラジカセに向かって、小さく呟いた。
「なんだよ、言えよな」声が掠れた。もう一度、繰り返す。「言えばよかったじゃねえかっ、……あん時よぉっ!……ごっ……ごめんな……次郎……」
答えは返ってこない三十年近く前の音が、ただ流れているだけだ。
太一はテープを止め、窓の外を見た。夜のとばりが下りた町を、明かりを灯した現代のローカル線が、ゆっくりと通り過ぎていく。あの頃と変わらない汽笛の音。だが、走っているのは、あの頃とは違う車両で、乗っているのは、太一の知らない誰かたちだ。
時間は、確かに過ぎてしまったのだ、もう……と太一は思った。
あの頃、と口の中で呟いてみる。何度も繰り返してきた言葉だった。だがその意味は、テープを聞くたびに、少しずつ形を変えていった。あの頃は輝いていた、と思っていた時期もある。あの頃はくだらなかった、と斜に構えていた時期もある。今はもう、どちらでもない気がした。あの頃は、ただ、何でもない時間だった。何でもないと思っていたから、誰も、それを大事に扱おうとしなかった。次郎の小さなサインも、真紀の静かな好意も、康介の不器用な気遣いも、みんな聞き流して、素通りしてしまった。
テープの中で、十七歳の自分たちが、まだ何も知らずに笑っている。「明日どうする?」と、誰かが暢気に聞いている。今の太一になら、その問いに答えられる。「明日、どうする?」
太一はテープを箱に戻した。それから、あの色紙を取り出し、もう一度、丁寧に広げてみた。
<次郎 元気でな>
たった六文字の、素っ気ない自分の字。今なら、もっと書ける言葉があったはずだった。だが今更、書き直すことはできない。この色紙は、あの夏のまま、止まっている。太一は色紙をそっとたたみ、鞄の内ポケットにしまった。それから、静かに部屋の電気をつけた。
明日は業者が来る。片付けを続けなければならない。窓の外では、電車の音が遠ざかっていく。太一はしばらく、その音に耳を澄ませていた。あの鼻歌のメロディが、まだ耳の奥に残っているような気がした。
(完)




